18 安堵には早く
ヴィンセント視点。
通路は、迷う可能性がなくなっていた。左右に部屋があるらしきドアはあれど、広い通路は真っ直ぐ一本。
ヴィンセントは一本の通路を走っていく。
遭遇する人間はいると言えばいるのだが、やはり倒れているので遭遇と言うには危険性は皆無だ。
見る限りでは先程まで見てきたような様子なので、黙視のみで息の確認はしない。
離れるばかりの背後では、剣撃の音と、聖獣のものであろう力の塊を感じた。足止めどころではなく、制圧までにそれほど時間はかからないだろう。
エド・メリアーズの明らかな誤算は、ガル・エベアータが一枚噛んでいることだ。
聖剣と聖獣がどのような力関係にあるかは不明だが、エド・メリアーズの契約獣より格上の聖獣がいることで、本来はあちらの領域であるこの場での有利さえ失った。
それはそうと、エド・メリアーズとの遭遇があの地点だったということは、この先に隠しものがあるのは決定付けられたようなものだ。
倒れているとは言え、人と遭遇する間隔も明らかに短くなってきている。
もう近いと直感が言う。
暗い通路に目を凝らし、見える限りの先を見ていると──立っている人影を見つけた。
背丈、髪色、髪型……立ち姿は、すっかり見慣れてしまった彼女のものに違いなかった。
「セナ」
ようやく見つけた。
彼女の姿が見えて、心臓がほっと息をついた。
そうなって、今までどれほど心臓が落ち着きなくざわざわと、不穏な感覚に苛まれていたのかを知らされた。
セナの姿を一番に捉え、無事そうだと認識してから、彼女の側にいる誰かに目がいく。
誰かと向き合っている。話している。
あの白魔か。
人ではない存在感を放つ者は、一目で正体が分かった。側にいるらしいとは事前に情報もあった。
事前情報と言えば、聖獣が人間でもなく、聖獣でもなく、白魔でもないものがいると言っていたが……。今確認出来る範囲にそれらしき姿は認識できないので、ひとまず頭の隅に留め置いておく。
この状況ではやはりあの白魔が脱出に手を貸した類いなのだろう。
その他に疑問は残るものの、肝心のセナの状況は、エド・メリアーズ側の人間もおらず、予想していた危険に当てはまっていない。
今回において、砦から遥か離れていたセナを守っていたのはあの白魔なのだと思うと、疑念は払っておくべきなのだろうか。ただ守っていたのだ。
前方にいるセナは、まだヴィンセントに気がついていない。
何を話しているのか。声は聞こえるが、内容までは聞き取れない。
……そこで、安堵した頭が考えた。
なぜ、あの白魔が脱出を手助けしているのならこのような奥にいるのか。今まで倒れていた人間を戦闘不能にしていたのがセナであれ、白魔であれ、部屋のほど近くだった。
では部屋から出されたのか自力で出たのかはさておき、部屋から出た早い段階から拘束の手はなかったと考えるのが自然だ。
単に出口が分からなかったのか。
そのとき、セナの表情がわずかに見えた。強張っている。あとは、焦り、それから──。
セナの手が、白魔に掴まれていた。
表情と光景。二つを認識したとき、無意識下で安堵が去った。
直後、新たな異変に気がつく。
寒い。
固いものを踏んだ。今まで歩いていた床と感覚がわずかに異なり、視線をやる。
石の床に、氷が張っていた。
は、と吐いた息が白い。
息の白さに、ざわり、心臓が再び騒ぎ始める。
──まずい
「──お前を連れていく」
研ぎ澄まされた感覚で拾った言葉は、聞き捨てならないものだった。
ヴィンセントが前方に視線を戻したときには、異変はますます目に見えるものとなっていた。
どこからともなく現れた氷が、すでにセナを取り囲むくらいになっている。セナが見えなくなっていく。
連れて行かれると思った。この場からの単なる脱出ではなく、二度と手が届かなくなると危機感が言った。
「……やめろ」
ヴィンセントの手は剣に伸びる。
足が床を強く蹴り、足音が大きく鳴る。
胸騒ぎはこれだ。
セナを傷つけない保証はある。セナを自分達から引き離さない保証はない。
危うい、あの白魔の全ての行動を信用するわけにはいかないと思っていた。目的のためならセナを裏切りそうだと。
セナを守る。
その意味の捉え方だ。
あの白魔はセナを守ると言ったが、ヴィンセントはその形に決して共感はしなかった。
立場が違うからか。
こちらがセナと引き離すのではなく、あちらがセナを引き離す。守ることの究極形だと言えようが、こちらから見ればそうではない。
何より、守りたいなら、なぜそんな顔をさせることをする。
セナの表情は強張り、緊張し、決して同意を得たものではないと分かりきっていた。
守りたいと思う存在の顔を曇らせることをするのは、矛盾ではないのか。
足音に気がついたか、セナの顔がこちらに動いた。氷に隠される直前、目が合った。
──連れて行かせるものか。
ああそうだ、自分は彼女を守りたいのだ。
パラディンとしてではなく、上司としてでもなく、ヴィンセント・ブラットとしてでもなく、ただヴィンセントという一個人が。
そのために命を賭けられる。
どれほど負ったことのない重い傷を負おうと、何度でも立ち上がることが出来るだろう。彼女の身が危ないのなら。守りたいという思いがあり、命が続く限り。
今度こそ、間に合わないと思うことがあってはならない。
セナを守りたいのなら、守れ。
「セナ!」
伸ばした手は、隔てる氷に届いた。
指先が触れた途端、氷が消え、弾かれることなく手がその先に伸ばせる。
足元に、淡い光が見えた気がしたが、
「──ヴィンセントさん……!?」
少なくとも彼女が振り向いたときには、消えていた。
黄色の目に自らが映り、彼女のその声がようやくはっきりと聞こえた。
隔てる壁なく伸ばせた手で、ヴィンセントはすかさずセナを掴まえる。
そして、白魔に対峙した。
「……破魔の人間か」
不可解そうにする銀の目を、ヴィンセントは睨むように見返す。
「今、セナを連れて行こうとしていたな。そして、セナはそれを望んでいなかったな」
否定はなかった。白魔からも、セナからも。
その上で、ヴィンセントは白魔に行動を問う。
「セナの意思を聞く意志があると言っただろう」
いつかも言った言葉を何度言わせる。
「意志はある」
白魔は即答する。
しかし、含みのある返し方だ。
「意思『は』とは何だ」
「全てを飲み込み、その通りに行動するかは別だ」
「なぜだ」
「『全てを思考なきまま叶えていては守れない』」
一度どこかで言った言葉を繰り返しているような言い方だ。
しかしヴィンセント自身が聞いた記憶はないので、響きは無視し、返された答えにまた口を開く。
「なぜそう考えるのか、君が白魔の例外である所以から来ているのだろうとどうでもいい。問題とする点はただ一つだ。セナを守ると言い、セナを気遣うにも関わらず、なぜセナの意思を無視する」
この白魔が例外である過去を聞いた。セナとの関係の推測も。
だが守るという言葉を使い、単に外敵を払うのではなく、セナが望まないのに何物からも離そうとするのは違うだろう。
「なぜ、今セナを連れていこうとしていた。俺達がいない隙だったからか」
「お前達がいようといなかろうと、連れて行こうと思えば連れて行ける」
そうだろう。この白魔は強い。白魔討伐の地では、交渉の末に止まっただけだ。
「単に今、人間の元に置いておくことが危険だと分かったまでだ」
「セナがここに連れて来られたからか」
白魔が微かに、冷たく嗤った。
「そのように生温いことであるものか。──人間が、天使の力を利用しこれを戦わせようと考えている」
また怒りだ。白魔は、周りに漂う冷気とは正反対の、燃える怒りを発していた。
「人間は、悪魔からすれば圧倒的な弱者に過ぎない。人間は悪魔共と戦う限り力を求め、セナがその魂を持つ限り、力を求める人間に手を伸ばされる可能性があり続ける」
だから人間も悪魔も手の届かない場所に連れて行くと白魔は言った。
「手を離せ、人間。邪魔だ」
怒りのままに、白魔の力が場に満ちた。
息が詰まりかけたのは、力の圧にか、凍えるような冷気によってか。
足元から、周りから、侵食せんとする力に、ヴィンセントは対抗する。
氷が消滅と生成を繰り返す。見えない力も後退と侵攻を繰り返す。
この白魔は、よく考えている。確かにセナのことを考えているのだ。
だが、当然ヴィンセントはそれを受け入れるわけにはいかない。
ヴィンセントは、冷たい色に激しい怒りが映る白魔の目を見返す。
こちらがいないときを狙って連れて行くのならとうにしているはずであり、今白魔にそう判断させることがこの場で何かあったか。人間の元に置いておくことが『今』危険だと分かったと言っていた。
セナに危害が加えられそうになったのかもしれない。ライナスから聞いた話を思えばあってもおかしくはない。
白魔はこの上なく怒っている。
怒りでもう何も受け付ける気がないようだ。交渉の余地がなく、絶対に連れて行くという意思を感じる。
一度退ける必要がある。
そして、あちらの主張を確認するばかりではなく、こちらも主張しておくべきだ。意思を突きつけておくべきだ。
出来る。やるしかない。
「人間の力でしかない破魔が、また私の力を消すか」
「生きている限りは抵抗し続ける。セナを連れて行かせるわけにはいかない」
「ならば命を失えよ。自惚れるな、人間が私に敵うことはない」
パキリ、足元に氷が到達した感覚がした。
下を見る前に、前にはいつの間にか出現した剣を手にした白魔がいた。
ヴィンセントの手が反応し、剣を持ち上げる。
力が凝縮した剣だ。あれは消すことはできない。体に到達すれば貫かれる代物だ。
そんな刃が振り下ろされ、本格的な争いが始まろうかと思われた──が、
「シェーザ待って!」
ヴィンセントの前に躍り出た姿があった。
髪が揺れ、ヴィンセントの視界を一瞬埋めつくした。
前に現れた背中は華奢で、後ろ姿を見るのはあまりに慣れず、誰が前に出たか理解が遅れた。
しかし誰かと認識して、ヴィンセントは目を見開いた。大地を容易に裂くだろう剣が振り下ろされている途中だ。
「──セナ」
そう、セナ。彼女である。