17 映像のない記憶
一つはその体に生まれつき入り、もう一つは天界にもこの人間世界にも魔界にもいなかったようだという、天使の言葉に実感が湧いた。
自分には二つの記憶がある。
一つは、現代日本で生きた中本千奈の記憶で、今のセナにもしっかりある記憶だ。
もう一つは、天使と悪魔が存在するこの世界での記憶で──ただし、見える光景はなく、声だけの記憶だった。
こちらの自分は、ずっと、眠っていた。
──「エルフィア」
というのが、こちらの『セナ』の名前のようだった。
だからこれは、中本千奈の記憶に対し、エルフィアの記憶だ。
エルフィアという名がつけられたこちらの『セナ』は、どうやら生まれたときから目覚めることがなかったようだ。
名前を呼ぶ人の顔は見えず、声だけが聞こえ、こちらから発する声はなかった。
──「エルフィア、今日はいい天気よ」
花が咲いたの、ここにも飾っておくわね。ほら、花のいい香りがするでしょう?
母であろう彼女は、起きない娘に毎日毎日話しかけていた。何年も何年も、欠かさず、変わらず。
部屋には、冬以外は彼女によって花が飾られ、常に花のかおりに包まれていた。優しいかおりだった。
今日はこんなことがあったのよ、あなたが起きたら一緒にしましょうね、と彼女の言葉はいつも朗らかで、希望に満ちていた。
そのはずだったのに。
──「髪が伸びたわね」
背も伸びた。
頭を撫でる手と同じように、相変わらず声は優しかったけれど、悲しさが滲んでいた。
──「あなたは奇跡のような子、エルフィア。それなのに……エド……」
どうしたの?
と言いたかった。
言えなかった。『セナ』は目覚めていなかったからだ。
そんな間に、顔に、雨が降る。
──「エルフィア、どうして目覚めないの……」
胸を抉られる思いがした。
ここにいるのは、エルフィアであって、『セナ』なのだ。この世界で、森の中で目覚める前の『わたし』。
エルフィア、エルフィア……エルフィア
嘆く声がする。『わたし』の名前を呼んで、悲しむ人がいる。
──「母さん」
『セナ』が何も出来ない内に、部屋の中に入ってきて、彼女を宥めはじめた人がいた。
彼は父であろう人ではなく、兄であろう人だった。
彼は、しばらく留守にしては、時折帰って来るのを繰り返してきたはずだ。
母である彼女は、兄である彼に謝り、『セナ』の頭を撫でて、「誕生日おめでとう、エルフィア」と微笑む声で言って部屋を去った。
──「誕生日おめでとう」
母を見送り一人部屋に残った彼も、同じ祝福の言葉を、眠り続ける『セナ』に降らせた。
傍らにあると思われる椅子に腰を下ろし、母親に負けないくらい優しい手つきで『セナ』を撫でる。
大きくなったな、と、やはり同じようなことを染々とした声色で言って。
──「母さんはお前を心配してるんだ。いつか、起きてやれよ」
ゆっくりでいい。待っているから。
囁くようなそれは、願いだった。
声が消えると、沈黙が満ちた。
彼は途切れなく喋る方ではないが、こんなに長い沈黙は初めてで、これまでにない異変を彼にも感じた。
しばらくして、彼が口を開いた気配を感じた。
──「追い出すようなことをされるよりは、親父にはそこまで関心を持たれない方がいいのかもしれないって考えるべきなのかもな。俺は、お前の側に居続けられない」
父である存在が、この部屋に来たことはない。
父である存在がどのような人なのか。少なくとも、母である彼女と兄である彼に暗い様子をさせることを述べる人であるようだった。
──「……いや、いっそ母さんと、お前を連れて、家から出ていこうか。親父はお前のことを見ないばかりか、あんなことを言う」
後のことを思えば、このときすでに彼は父に何か予感を抱いていたと言えるのかもしれない。
──「エルフィア、またしばらく俺は家を離れるが、また帰ってくる。会いに来る」
エルフィアと呼ぶこの声が誰のものか知っていた。
優しく語りかける彼の声が、誰のものか。記憶を体験するセナは知っていた。
声だけの記憶は、長く、長く続いて。『セナ』の状態は変わらずだった。
このとき、こちらの『セナ』の魂は半分で、半分だからと正常に歯止めがかかり、生命として機能していなかった。
もう半分は、現代日本で、正常でないまま不具合を起こしながら生命として機能していた。生まれたときから、脆弱だったのは身体レベルではなく、もっと深いところからどうしようもないものだったのだ。
だからこちらで『セナ』は眠り続け、周りでは何度も季節が去り、訪れ、去り。
母である彼女が何度も訪れ、兄である彼は訪れる回数が減りながらも、何も変わらなかった。
転機が訪れたのは、冬のある日だった。
──「旦那様、何を──」
父である存在が、部屋に現れた。
父であると認識したのは、そのとき居合わせた人の発言からであり、行動からではない。
父である存在は、連れてきた人手に『セナ』を外に運び出させた。
どのような道を、どのようなところに運ばれたのかは、相変わらず視界がなく見えなかった。
ただ温かな部屋とは違い、寒く、冷たい場所で、『セナ』は長く伸びた髪を切られた。首の裏に何かを焼き付けられた。
──「エド様、本当によろしいのですか」
誰かの問いに、父であろう人の声が「何がだ」と言う。母である彼女と、兄である彼のような温かさどころか、温度を欠片も感じない声だった。
──「これは上手くいくかもしれないな。天使の加護がこれまでで最も強い。適応度が高い体だ。近くにこんな掘り出し物があったとは、もっと早く気がついておくべきだった。メリアーズ家に生まれたのだ、こういう活用法があるではないか」
ああ、この人は『父であろう人』という枠を超えないのだ。母である彼女は『セナ』の母であったが、この人は父にはなり得ない。
──「これで悪魔共を打ち払える天使の力が手に入るぞ。──077番の儀式を開始しろ」
名前ではない番号で呼ばれ、ベッドとは異なる硬い石と思われる場所に横たえられた。
寒い。冷たい。
何も出来ない危機感と、もどかしさ。
それから、恐怖。後から記憶を追う身であるセナでさえ、恐怖を覚えた。
そうして『儀式』が始まった。聖獣を召喚するときのように、文言が唱えられていた。
このとき誰も予想していなかったのは、元より『セナ』の中には天使の魂が入っていたことだ。これにより、『セナ』に予想外の効果をもたらすことになった。
強制的な目覚めだ。片方欠けた魂が目覚めさせられた。
予想されない形で目覚めた力は、不完全な形だったが、人間が用意した制御を受けなかった。
目覚めた力はすぐさま翼となった。自らに何事かを起こそうとする場から離れるためだ。
その場にいた者が、目映い光に目を閉じている間に、『セナ』はその場から消えた。
至った先は、元いた温かな部屋ではなく、全てが正反対の寒い外だった。
不完全な形で無理矢理目覚めた力は歪になっており、場から離れた終え、翼は消えた。
その代わり、順番が前後し、召喚される過程にあったもう片方の魂が半分の魂と一つになった。
そして、そのときがやって来る。
儀式によって目覚めたか、魂が一つに戻った瞬間に目覚めたか。
──わたしは、雪が降って、真っ白な森の中目覚めた
片方の魂の記憶は一時的に目覚めていた力と共に再び眠り、中本千奈の記憶を持った側の魂──中本千奈改めセナの記憶の続きが始まったのだ。
*
目が覚めた。
何度も何度も瞬いて、手を見て、周りを見て、確認した。
森の中ではない。温かな場所でもない。
たった今までに体験したことは、記憶である。自分の記憶になかったが、この身が通ってきた時間。
「わたしは……」
やはり、この世界でまた生まれたのだ。
また、と言うのは違うかもしれないが。二つに割れた魂がそれぞれ別々に体を得て誕生し、中本千奈が死んで合流した。一つに、あるべき形に戻った。
想像以上で、予想外の記憶だ。捨て子ではなかった。生みの親がおり、家族がいた。
「ライナス、さん」
あの声は、ライナスだ。
『兄である彼』は、ライナスだった。自分は、彼の声を何年も、何年も、聞き続けていた。
自分は、メリアーズ家にいたのだ。
予想していても、身寄りのない身で何らかの経緯で、記憶はないがいた可能性のある、今いる意味の分からないこの場所に行き着いたとでも考えていた。
何しろこんな不穏な場所で、セナ自身が今ここにいる経緯も分からないのだ。かつてここにいた際、誘拐された過去があっても驚かない。
だから、余計に驚いた。
『兄である彼』がライナスなら、『父である存在』は、エド・メリアーズだ。
エド、と『母である彼女』が名を口にしていた。
あの台座がある部屋で、ずっと黒かった視界に初めて景色が見えた。あの短い間、上から見下ろした内の一人は、エド・メリアーズだった。
天使の言うとおり、セナはここに似た場所にいた。さっきいたあの場ではないかと思うほど同じ場所に。
天使を召喚する召喚陣はあれだ。台座に描かれていた模様だ。
天使を召喚し、人間に入れるという行為──少女がされたことを、自分もされていた事実があった。
だから首に数字があった。熱かった気がする。
見てきて明らかになったことが、頭の中でこんがらがって、順序が滅茶苦茶になって頭の中を回っている。
「人間は、愚かだ」
そんな声が、セナの思考に割って入った。
本当に、氷のような声だった。
セナが顔を上げると、表情の失せた白魔がいた。
「楽園は破綻した。お前は二度と、戦わない」
寒い、と思った。
記憶の名残か、元々この場が寒々しかったからかと思い込んでいたが、違う。
もっと寒い。
反射的に足元を見ると、氷が張っていた。
シェーザの力だ。
「シェーザ……?」
何をしているのかとまた見上げると、銀色の目が、セナを見下ろす。
「セナ、私と一緒に来い」
「え……?」
「人間は愚かだ。最早天使から加護を受け、無事に生きられているという自覚がない。お前を人間世界に置いておくことが危険だ」
「危険って、何が」
「『見た』だろう。奴等がお前に何をした。そればかりか、同じようにお前を利用しようとしていた。──お前を武器として悪魔と戦わせようと目論んでいる」
それがシェーザにとって絶対的に許せないことであることが分かった。聞いた話からではなく、現在の雰囲気からだ。
「私はお前を連れて行き、それから愚かなことをした人間を葬る」
シェーザも、セナが見たものと同じものを見ていたのだ。
「連れて行くって、どこに」
「人間も、白魔もいない場所へ」
シェーザの手が、セナに伸びる。
セナは避けなかった。けれど、首を横に振る。
「行かない」
わたしは行かない。
そんな判断がとっさに出たのは、おそらく、頭に過った顔があったから。
「葬るのも駄目」
人間を殺さないで欲しい。
セナの言葉に、シェーザは目を細める。
「お前が望むなら、叶う限りは叶えてやりたい。だが、同じ過ちを二度犯すほど愚かではない」
拒否だ。
セナの意思に対する拒否が返事として返された。
「全てを必ず叶えると言った覚えはない。優先順位というものがある。全てを思考なきまま叶えていては、守れない」
セナから僅か足りとも目を逸らさず言う彼は、いつの出来事を思って言っているのだろうか。
「言っただろう」
白魔の指が、セナの指を示す。
黒い輪、彼が作った契約書だ。
「お前に危害を加えるものは、白魔であれ、天使であれ、人間であれ等しく消えてもらう」
足元の氷が背を高くしていく。
セナを取り囲む空気が冷えていく。
「私はお前を連れていく」
周りの氷も、腕を掴む手にも、銀色の目にも、隙が感じられなかった。
このまま、全てと別れざるを得ないのか。少なくとも、今説得の余地がない。一度シェーザに連れていかれてから、説得を試みるしかないのか。
だが、それでは全てが遅い。人間を殺させてはいけない。
どうにか、今、ここで……。
ああ、この身に入るのが人の魂ではなく、人ならざる力を持つ魂が入っているのなら。白魔と対等にあれる力を持つ魂ならば。
目覚める段階で無茶をして、思うようにいかないのは承知だけれど、どうにか話し合いするために抵抗する力くらい出せないか。
人間であるままでは、人間の力では、白魔であるシェーザには抵抗できない。だから人間は聖剣を使うか、聖獣の力を借りている。その他の人間は無力でしかない。
──今、だけでいい。
ここに、留まらなければいけない。留まりたくもあるのだ。