14 前世
「──シェーザ」
そのときになって、セナは口を挟めた。
挟めたと言えど、会話に乗ったわけではない。制止の声を上げずにはいられなかった。
「手を、離して。それは人間の子の、この子の手でもあるんだよ」
シェーザの手に触れ、注意換気する。
彼が握っているのは、少女の細い手首だ。
折れてしまう。今折れていないことが不思議なくらいの力が入っていると触って分かっていた。
「落ち着いて」
凍てつく銀色の目を真っ直ぐ見て言うと、少し間を挟み、手から力が抜けた。
セナは途端に安堵した。願うような気持ちだった。
「ありがとう」
「……お前が言うのなら。『お前に危害を加える人間以外の人間を殺めない』──体は人間であり、危害を加えてはいない。だから本当に何か起こしたときには容赦しない」
天使に向け、警告する目は本気だった。
彼は本気で、セナの魂を守るために他を排除することを厭わない。しかし危害を加えない人間の命を奪わないようにと約束を取り付けて、セナはそれを受け入れることにしたのだ。
対して、
「『どこかに連れ去るつもりはありません』」
天使はより微笑んだ。
「……わざと?」
彼女の笑顔に呟くと、天使はにこりと微笑みをセナに向けたので、セナは「ええ……」となる。
天使は本当に清廉で純粋なだけの存在なのだろうか。妬みなど知らなくとも、天然であれ腹黒そうではないか……。
「『私は、単に彼女の魂の通ってきた道のりを知りたいのです』」
よろしいですか?と、聞かれた。
セナはそれはどうやるのかとか少し考えたが、さっきから理解できた試しがないので、まあ害になりはしないだろうと結局頷いた。
シェーザにも目で大丈夫だと言うと、銀色の目が一度瞬く。
視線を前に戻すと、やり取りでもう良いと判断した天使の手が再びセナに触れた。
直後、合った少女の目に金色の光がちらつき、目に引っ張られる感覚を覚えた。
「『私達も白魔に殺められたことにより、魂が砕けた状態にありますが、……あなたの魂は、二つに分かれていたようですね』」
瞬きしたと自覚したときには、金色の光は消えていた。
「『魂は天界ではなく世界の合間をさ迷い、一つはその体に生まれつき入り、もう一つは──天界にもこの人間世界にも魔界にもいなかったようですね』」
天使には何が見えているのか。
セナは、はっとした。セナが知る限りでは、この世界には、『三つの世界』がある。
天界、人間界、魔界。
しかし、人間の世界でもなく、天界でも、魔界でもない世界を、天使は示した。
「『ここから外れた世界にいたのですね』」
セナが、中本千奈としていた現代日本を示しているのか?
そんなことがあるのかという思いが浮かびながらも、可能性があるならとセナは反射的に口を開きかけた。
けれどシェーザの方を気にして、一度そちらを見て、けれど、大丈夫だと思った。
「……ここではない世界を」
改めて天使の方を見て、慎重に言葉を発していく。
この、最初は訳が分からなさすぎた世界ではない世界──セナが前世を生きた世界。
「天界でも魔界でもなく、天使も悪魔も存在しない、ここではない世界があると知っているの?」
あの世界は、確かに存在したのか。
どこかに存在しているのか、尋ねた。
「『いいえ』」
天使は首を横に振った。
「『あっても不思議ではないと思うだけです。天使が人間の世界を作ったように。天界が出来たように』」
無数の世界が存在していることはおかしくないと、天使は言う。
「『しかしながらその世界は、私達がいるはずの場所ではないことは確かです。あなたの魂は迷い込み、結果的に順応できずにこちらに戻ってきたのでしょう。二つに分かれていた魂は今一つに、完全な形に戻っています。こちらが戻る先であったということです』」
その言い方では、つまり……。
セナの頭が、考え始める。この考えは、人間でない要素があると言われたときのように、またある種自らの根幹を揺るがすものだ。
「わたしは、最初からあの世界の存在じゃ、なかったっていうこと……?」
セナの基盤は、現代日本で暮らした中本千奈の人生だ。中本千奈の人生が前世で、今が転生した後だと思ってきた。
だが今の天使の言い方では──日本にはこちらの世界から迷い込んだだけで、元々いるべきはこちらのようではないか。
「『本来であれば、存在するはずのなかった世界という意味であれば』」
存在するはずがなかった世界。
脳を直接殴られたかのような衝撃を受けた。
「『魂が半分では、生き難い面もあったでしょう』」
生き難いという指摘に、年がら年中ベッドの上の虚弱体質であったことを思い出した。
あれが、あの世界で生きた確かな記憶であり、単に体が弱かったのではなく、本来あるべきではなかった世界に生きていた証だと言うのか。
「『ただ、あなたのもう一つの生であったことは確かです。今も、異なる世界での生も、今のあなたを形作るものです』」
本来は存在するはずもなかった世界であろうと、生きたことは確か。その記憶が今あるのが、今の自分だ。
その言葉に、セナは、深呼吸する。
落ち着け。難しく考えることはない。かつての生を終え、今ここに存在する。
ただただ、自分は確かめたかったのだ。前世生きた世界はあるのか、この世界と繋がりはあるのか。
未練があるわけではない。あまりに異なる世界に来たから、記憶が幻想ではないと確かめたかったのだ。自分の基盤となっていることは間違いなかったから。
ふっ、と息を浅く吐いて、セナは難しく考えることを止めた。
かつての世界で存在したことが本当はあり得ないことであったとしても、存在した。そしてそれは過去となり、今はここにいる。
今は、ここだ。
「わたしは、わたし。今は、ここにいる」
「『そう、あなたはあなたです。あなたが持つもの、感じるもの、それら全てがあなたの一部。今度は一つに戻った魂で、その生を過ごすといいでしょう』」
天使はセナから手を離し、微笑んだ。
「『そのように全く異なる世界に迷い込んだ原因は、世界の狭間をさ迷っていたからでしょうが、あなたは、どこに行きたかったのでしょうか』」
「え?」
「『命を亡くし、体を亡くし、自由になった身で──何を探しに行ったのでしょうか』」
セナに問うているようで、彼女は答えを待っていなかった。
天使の目は、なぜかセナの隣を見て、ゆっくりと瞬いたあとにはまたセナを見ていた。
「『今日は、あなたに会いに来ました』」
「わたしに」
「『そうです。剣を使ったあなたがここに連れてこられたと知ったので、あなたの魂はどういう状態なのか見ておきたかったのです。そして、ここから出すためでもあります』」
「──ここから出してくれるの?」
何と。
思わぬ言葉に、セナは目を丸くする。
「『もちろんです。なぜ、閉じ込められなければいけないのです。さあ行きましょう』」
笑顔は全く変わらないまま、彼女は軽くドアを示した。
本当に出してくれるらしい。
シェーザの方を見ると、「私が出した方が早い」と言うが、「『行きますよ』」という声はすでにドアの外から聞こえたので慌ててセナは部屋を出た。忘れずシェーザのことも掴んで。
勢いで出た外は、石造りの廊下だった。
「うわっ」
少女の背に追い付くために、辺りをきょろきょろしながら走っていくと、人が倒れていた。
けれど天使は気にせず通りすぎていく。
「人──人、倒れてるんだけど」
「グランディーナが眠らせたのだろう」
息を確かめに行こうとするセナを、問題ないとシェーザが一蹴する。
「『その通りです。生きていますよ。害もありません、心地よく眠っているだけです。私達が人間の命を奪おうはずがないのですから』」
天使が、人に見つかるごとに眠らせてきたのだと付け加えた。
そんなことが出来るのか。あとその言い方では、忍んできたのではなく随分堂々と来たようだ。
出してくれると言うからには、出口に向かっているのだろうと思われ、出ていく前にセナは彼女に聞きたいことがあった。
「一つ、聞いてもいい?」
ですか?と今さら敬語の方がいいのか口が勝手に迷った。
しかしながら迷っている時間があるかどうかもわからないので、「『どうぞ』」と促され、周りを気にして抑えめの声で聞く。
「あなたと、わたしの状態はどうして作られたのか知っている? ただの偶然?」
本物の天使に同族として扱われたり、白魔にも魂を『そう』だと示されたりすれば、最早こちらは飲み込んでおく他ない。
その上で、天使の魂が人間に入っているのは普通ではないのでは、普通ではないのなら「なぜ」なのか。
聞いておけることは、聞いておきたい。
「『偶然である部分と偶然でない部分があります』」
天使は、まず前提としてと三本指を立てた。
「『私とあなたの状態で大きく異なる点が三つあると分かりました。一つ目、私が入るこの体にはあなたと違い、人間の魂と、天使の魂がいくつも入っていること。二つ目、その天使の魂は、別々の魂の欠片が集まったものであること。三つ目、あなたは以前の記憶を正常に亡くし、私達は覚えていること。以上です』」
列挙されると、意外とある。
「『さらにあなたは魂の馴染み具合から考えると、人間の魂のない空っぽで生まれるはずだった体に生まれつき入っていたのでしょう。ですが私達は違います。──これは人間によりされたことなのです』」
「人間に……?」
そのとき、エド・メリアーズの名前を思い出した。
エド・メリアーズは何かを隠している。その隠し事にいい予感はしてこなかった。
「何を、されたの。──ここは、何」
今脱出しようとしているここはどこで、少女もいるここは何なのか。
連れてこられたここには、エド・メリアーズの隠し事が詰まっているのではないか?
「『そうですね、あなたも知る必要があるでしょう。きっと無関係ではありません』」
天使は、不意に進行方向を変えた。
中庭の正反対の方向、おそらく出口方面から、逸れた。
人が一人、現れ、こちらを向いた瞬間にゆっくりと倒れた。
「『ここでは、とあることが人間により試みられています。私達を喚ぶことです』」
「天使を……?」
さっきまで、人が一人倒れていただけで人とすれ違わなかったのに、また人と会う。倒れる。徐々に、わずかに、人との遭遇率が高くなっているような……。
窓はなく、通路のみが繋がり、時折ドアがある道を歩いていく。
「『今、私達はとても歪な形をしています。別々の魂の欠片が、正式な一つではなく、一つ分集められ無理矢理一つにさせられているような状態なのです。もちろん自然にではありません。自然にであれば、いずれ時が経ち、白魔に殺められて砕けた魂が治ったときに完全な形で巡ったでしょう』」
天使が立ち止まった。
通路が前方に繋がり、左右にドアがあらわれるばかりだったこれまでと異なり、一つの石の扉が前方にあった。
ここに来るまでに、何人の人が倒れたか。
「『この中で、私は地上に降り立ちました』」
石の扉が、ひとりでに開く。
天使は、開いた扉の中に当然のように入っていく。彼女が開いたのか。
中は、壁はこれまでと同じく石だったが、天井は屋根の形をしたガラス張りで、太陽の光が室内に降り注いでいた。
光が十分に当たる中心に、石の台座があった。