10 約束と契約書
罪を犯し、天使の敵であり人間の敵である白魔となったはずが、守ってくれていたのなら。
ベアドの推測が正しければ。
「シェーザが、白魔なのにわたしを守ってくれてたのは、わたしの魂が『そう』だから?」
白魔は黙ったままだった。何を考えているのか。何を言うか考えているのか。
こちらを見る目から、目を離さずにじっと待ちながらも、セナは自分でも理由が分からない緊張を覚えていた。
やがて、どれくらいの時が経ったのか、シェーザが一度瞬き、口を開いた。
「お前の魂は、確かに私がかつて引き離された存在だったものだ」
肯定だった。
ベアドの推測の肯定だ。
つまり、つまり……?
簡潔な答えをもらっただけで、セナの頭がこんがらがり始める。
そもそも、魂というものに実感がないのだ。
転生は信じざるを得ないとして、その転生の仕組みは確か……外側は別で、中身、つまり魂は記憶はなくすとしても同じものだとか。
と言うことは、魂というものには前を生きた記憶、その前を生きた記憶が何度も刻まれたことがあるということだ。
だから、セナも魂というものを持っていて、それには前の記憶が存在していたことになる。
その前の記憶、生まれ変わる前の存在が、目の前にいる白魔に関わりがあった。
けれど──
「……わたしは、シェーザの記憶も何も持っていない別の存在に生まれ変わっているのに?」
セナ自身には全く身に覚えのないことだ。
自分の実感できないことに対して行われていたことに、報いることが出来るとは思えなかった。
「誤解するな。私とて分かっている。今は別の存在だ。セナ、という一見人間にしか見えない存在だ。私の知る者ではない。ただ、その魂がそうであったときがあったという事実がある」
一度だけ感じた感覚を信じ守ってきたように、その事実があるならば十分だというように。
シェーザは言ったけれど、セナが「シェーザ」と教えてもらったばかりの名前を呼んだときのような目をした。
「これは私の自己満足だ。聖獣が守れなかったように、私にも守れなかった。あれは死んだ。死んだのだから、次は守ろうと思っても本当の『次』はない。……だが、せめてその魂が生まれ変わるなら、二度と白魔が殺すことは許さない。触れさせはしない」
白魔に触れさせはしない──自らを白魔とは忘れているような言葉だった。
白魔だと肯定しながら、そのようなことを言う。だから『例外』なのだ。
手が頭に触れて、撫でるような動作に、セナは戸惑う。
ガルにされて戸惑ったことと同じではなく、別の存在だと言いながら、重ねているように思えたから。
「記憶も何も残ることはなく、生まれ変わった性格に影響はないはずなのだがな。妙なところが同じなのは残念な話だ。──お前は、危険から隠れない」
天使に対する危険なんて、セナの知識では一つしか思いつかなかった。
「危険っていうのは、白魔のこと?」
二千年前、白魔が天使を殺した。
ベアドも、白魔は天使を排除しようとしていたと言っていた。
天使にとっての危険は、天使に反感を覚える白魔だろう。
天界に入ることさえ許されなかったというのだ。
「そうだ。『あれ』は逃げず、隠れようとせず、剣を握った。戦ったこともないだろうに。隅に隠れていれば良かった。じっと隠れていれば──それならば私は間に合ったかもしれなかった」
愚かだったと呟く声には、本当に愚かだ評する感情と慈しみが混ざっていた。
「結果的に、抗う力があるくせに殺めることを躊躇し、白魔の一つも葬れずに死んだ」
「……二千年前のその日、天界に行ったの?」
「行った。他の白魔共が天界と白魔とを隔てる壁を壊したと分かった瞬間、何をするつもりか分かった。白魔がすることなど、天使を消そうとするか人間を殲滅しようとするかだ。だから白魔に堕ちる天使を魔界送りで済ませるなど生ぬるいと言う」
「……それだと、シェーザも同じ目に遭っちゃったと思うけど」
白魔になってしまったのだから。
「取り返しのつかないことが起こるくらいなら、そうなっていれば良かった。私が行ったときには楽園は崩壊していた。……足を踏み入れたすぐの場所で、私が守りたかったものは死んだと分かった」
死んでいた、ではなく、死んだと分かった。
妙な言い方だと思ったが──召喚獣が殺されても亡骸がないことを思い出した。白魔討伐の場で、単に契約が消えて天界に戻ったのではなく、召喚獣を失った召喚士がいた。
聖獣の亡骸はなかった。
そのように、遺体がないとすれば。
「私と『それ』には他の天使にはない繋がりがあった。命が消え一日と経たない場に立てば、残るものから読み取れた。その場にいた。何があったか。どのような行動をしたか。何を思ったか。どのように殺されたか。いつ消えたか。──どの白魔が殺したか」
気がつけば、怒っているのかと問うまでもないほどの怒りを感じていた。
いつから? たった今だ。
「その白魔は、 もしかしてこの前現れた炎火の白魔だったの?」
「あれはあの場でお前に手を出したから、新たに消したまでだ。二千年前に私の守るべきものを殺した白魔は二千年前に葬った」
自らが白魔となる原因であった、天使を殺そうとした天使を殺したようにだろう。
「……シェーザは、楽園を滅ぼした内の白魔ではないよね」
「天使を殺しに行ったわけではない」
「何がされるか分かってただ『その天使』を探しに行った?」
「そうだ」
「だけど、叶わなかった」
「そうだ」
ただ探しに行った。会いに行った。だけれど叶わなかった。
悲しくも、やりきれない話だ。しかし口にするべきことではないし、どちらにしろ今言おうとしていることは別のことだ。
「白魔をどうにかしようとしたとき、あなたの力は地上に及んだ?」
この問いを向けたのには、理由があった。
二千年前、天使が白魔に殺された。天界の楽園を白魔の力が蹂躙すると共に、地上にも力が及んだ。
人間世界の二分の一は滅びかけたと言われている。ある地は炎の海となり、ある地は氷漬けとなり、ある地は嵐に飲まれ……。
白魔の怒り、憎しみが反映された力が、人間世界にまで及んだのだ。
しかしそのような力を持つのは白魔全てではないとベアドが言っていた。
白魔の中にも位がある。天使の頃にあった位だ。
炎火の白魔が二千年前、世を炎に染めたほどの白魔だとすれば、その炎火の白魔を葬った白魔は当然同格以上の力を持つ。
炎火の白魔が葬られたあの場には、雪が降り、氷が地を覆っていた。
「及んだ可能性はある。私は人間世界を気にかけていなかったからな」
シェーザは否定をしなかった。
可能性があることを肯定した言い方よりも、セナはその理由の方にああ、と思った。
「だから、あなたは、白魔なんだね」
この白魔も昔は天使だったときがあった。
しかし今は間違いなく白魔なのだ。
躊躇いなく白魔を葬り、人間世界を気にしない。
それは、戦いを好まず、人間に飢えさえない地上の楽園たる世界を与えた天使には決してない性質だ。
ベアドの言う通り、この白魔は理由がありながら天使を殺したときから天使ならざる性質を得たのだ。
「そうだ、私は白魔だ。天使であった頃にはもう戻れないだろう。そのようにはいられない。最初に奪われそうになり、最後には奪われた。そのときの感情を忘れることはない」
二千年経とうと、いつまでも。
だから今、シェーザはここにいる。セナの前に現れた。
それが彼が白魔となった所以でもあるからだろう。
「私は決めた。お前がその生を終えるまで、何者からもお前を守る。殺させはしない。その魂を汚させはしない。側で。見える場所で。──隔てられることは、二度とごめんだ」
白魔は天界に入ることが許されない。
かつて彼は、大切な存在と隔てられ、それきりになった。
「当然、お前に拒絶されたくもない」
「だから猫になってたの……?」
シェーザの知る存在ではなく、別の生を生きるセナには記憶がない。
今のセナに拒絶されないように、警戒を抱かないどころか、好む姿になっていた。
「……」
彼は、魂を守りたいのだ。
かつて自分と最も繋がりのあった存在の魂を、理不尽なことに見舞われ巡ることのないように。
では、その魂を持つ自分はどうするべきか。セナは考える。
全てを知り、確かめた上で、どう関わっていくべきか。自分の答えを出せる材料は揃ったはずなのだ。
「……わたしは、あなたとどう関わるか明確な答えを出さなくちゃいけない」
「お前の思うままに答えを出せばいい」
そうはいかないのだと、セナは首を横に振る。
「あなたは白魔。わたしが他の人間と関わらない生き方をしないからには慎重に、根拠をもって答えを出す必要がある」
「他の人間のことを考えるということか」
「そう」
いくら、話に同情のようなものを覚えようと、感情だけで決めるわけにはいかない。
セナの言葉に、シェーザは少し黙してから、また口を開く。
「お前自身の答えは何だ。他の人間のことを含めず出した場合の、お前の答えは」
「……わたし、だけの答えは……」
他の環境を考えず、セナ自身一人だけの、この白魔との関わり方に対して出す答えは。
「シェーザが気が済むまでいてくれていいと思ってる。ただ、わたしはシェーザに何も返してあげられないと思う」
聖獣は、天使の加護した人間世界を守ろうとして、結果的に人間と目的が合致するので共に戦っている。
しかしシェーザの場合そうではない。セナの魂を守ることが目的で、セナは守られる。
セナ自身にシェーザの記憶がない限り、やはりシェーザの行動に対して返るものが不釣り合いではないかと感じるのだ。
「言っただろう。お前を守ることが私の目的だ。そうある事実が作られ続ければそれでいい。それで、根拠とは何がいる」
セナのみの答えを引き出し、何か満足したような白魔は、他の人間のことを考えて答えを出さなければならないと聞いて少し黙り込んだのが嘘のように先を促した。
セナは、わずかにだけ思考の間を開けた。
確かめるべきことの再確認だ。
「他の人間に危害を加えない約束が欲しい」
これがなければまず駄目だ。
「危害を加えない約束は出来ない」
「……どうして」
「お前に危害を加えるものは、白魔であれ、天使であれ、人間であれ等しく消えてもらう」
そういうことか。
シェーザは特別な理由があったから天使を殺したが、特別な理由がなければ人間を意識して殺そうともしないのだろう。
理由があれば、別だ。
「そう約束してくれる?」
人間間の戦争をしている場合ではなく、悪魔側との戦いしかないような世界だ。
そんな人間早々出てくるとは思えないし、そう約束してくれれば十分だろう。
「……その約束が必ず守られる証拠みたいなものがあれば万が一でも説得できると思うんだけど……」
「万が一?」
「万が一」
誰かに反対された場合だ。
ガルたちなり、もしもその他の人間にばれるようなことがあった先の場合だ。
「お前が目に見える証が欲しいと望むなら、契約書を作ってやる」
契約書?
とは何だと問い返す前に、シェーザの指が宙を撫でていく。撫でた先から、模様のような文字が綴られていく。
召喚陣に書かれているような文字だが、セナには読めない。
「天使が白魔になる仕組みが設けられているように、仕組みを作ればいい。『お前に危害を加える人間以外の人間を殺めない』」
記された文章が訳され、最後に短い文字が綴られ、またも訳される。シェーザ、と。
サインが記された直後、文章が曲がり、回り、小さくなる。
そして、小さくなったものは小さな輪になりセナの前に浮いた。
「お前に預ける」
指輪サイズの黒い輪には、綴られた内容が入っているらしい。
聖獣にも読める、と言われる。
中身を確かめたければ聖獣に頼めばよく、聖獣が保証すれば人間は信じるだろう。
「ありがとう」
すっと、そんなものを作ってくれてありがとう。
セナは黒いリングを手に取り、どこに仕舞うか自分を見渡す。偽の契約印があるのとは別の手首に、精霊の涙を通した鎖が目についたが、一緒にはつけずに結局形状を利用して指につけておくことにした。
精霊の涙と同じく、なくすとまずい。後で同じく鎖か何かを通そう。
「後はお父さん達に話せば完璧」
指にリングを通し、セナは顔を上げる。
セナはここで話をして結論を出したが、一人だけの納得と結論だ。まだ完了はしていない。
……が。
「……だけど、まずここから出なくちゃいけない」
話をしていて二の次になっていたが、閉じ込められていて、どうにか出ようと方法を考えていたところだったのだ。
ドアは破れそうになく、壁も無理、床は論外。
残るは窓で、割るかと考えていたのだけれど、外に見えるのは中庭のような狭いスペースと建物の向かいの壁くらい。
外に直結すると言っても、すぐに袋小路行きだと考えていたところにシェーザが現れたのだった。
「やっぱり窓か、次の食事のときを狙うかかな」
夜から朝にかけて朝ごはんを待つなら長そうだが、幸い次は昼か夜だ。
「ここから出たいなら私が出してやるが」
「えっ」
部屋から出た先のことを考えながら待つかと考えていた矢先だった。セナは弾かれたように前を見上げた。
当然、いるのはシェーザである。
「そもそも、なぜお前は急にこのようなところに来た?」
「わたしが来たんじゃなくて、連れて来られてたんだけど……」
召喚獣と思っていたときのように、身を守ってもらうことを頼むならまだしも、脱出のためにドアを破ってもらうとか何とか頼むことは思いつかなかった。
出してくれるのか。待たずにすぐ出られることになるのか……などと、自分から来たのではないと答えながら考えていたが。
まさか、食事を持ってくる時間より明らかに早く、シェーザが何かするよりも早く開くとは予想しているはずもなく、
カチャリ
鍵が開けられた音に、必要以上に驚いてドアの方を見ることとなった。
素早く見たセナとは異なり、セナの視線を追ってシェーザもゆっくりとそちらを見る。
セナの目が注視し、シェーザの目が単に見る中、ドアがキィと微かな音を立てながら開く。
ドアが動き、明らかになった向こうに見えた姿は──砦を去ってしまう前に話をしたいと思っていた少女だった。