9 唯一例外
北の砦で、ベアドはセナに何を語ったのか。
***
北の砦の部屋で、蝋燭の光に照らされた純白の毛並みは、うっすらと橙色を帯びていた。
これは、白魔という存在の正体と、唯一の例外の白魔についての話だと、ベアドルゥスは言った。
白魔は元は天使だった存在なのだと、驚愕の真実を最初に述べ、『他の人間には言うなよ』という念押しをされた。
「元天使って──でも、正反対の存在なんじゃ──悪魔の最上位なんでしょ……?」
『うーん、そもそも悪魔と白魔は呼び方が違うように、同じ存在じゃないんだ。天使の中にも位があるが、悪魔は白魔にはなれない。悪魔は魔界で自然に生まれてくるようになった存在だからな。完全に存在としての境界がある。まあ、悪魔の最上位だって人間に認識させるようにしたのはこっちなんだけどな』
「どうして、そんなこと」
『だってなぁ、元天使だって聞いたらどう思う。今は全然違う存在になってるのに、元天使である方に引っ張られる人間もいるんじゃないか?って思うわけだ。それなら元天使だっていう情報は隠す。嘘をついてるわけじゃない、認識を鈍らせないためだ。もう違う存在で、天使の敵であることに間違いはないんだからな』
確かに、そうかもしれない。
セナでさえ今聞いて、炎火の白魔が起こした惨状が甦り、「元々天使だったならなぜあんなことをするのか」という考えが過った。
それほどまでに元天使という事実は大きいと感じる。
「……天使なのに、どうして違う存在になったの? 天使は、人間に加護を与えるものなら……あんなことはしないんでしょ?」
『当然しない。だから違う存在なんだ。白魔は罪を犯した天使がなる存在だ』
「天使が犯す罪って……?」
天使という言葉と、犯罪が結びつかなさすぎる。
『天使が持つべきじゃないものを持つこと、すべきではないことを行うこと』
白魔と言うのは、天使の在り方に反感を覚えたものであり、だから天使の敵なのだと言う。
『罪の例としては、天使の在り方から外れて負の感情を得たことが一つだ。白魔は、天使が持たないものを持つ。憎しみ、妬み、嫉み、怒り。そんな感情だ』
「怒るとか、そういうのが罪なの?」
『天使にとっては相応しくないとされた』
「じゃあ、天使は怒ったりしないの?」
『しない』
憎しみや妬みはさておき、怒るだけで罪になるのか。
怒りという感情が相応しくないとされるとは、セナには理解し難い。
人間の常識では計り知れない世界が存在している。
『あとは天使としての在り方に疑問を持って、自分で望んで天使でなくなることを選んだ奴とか、人間殺しとかがほとんどだな。人間殺しが罪になったのは、当然人間界が出来てからだ。天使は人間界にあまねく祝福を与え、人間は飢えさえ知らなかった。そんな環境を人間に与えることをよしとしなかった天使がいた。今は全員元天使だけどな』
炎火の白魔は、どのような罪を犯したのだろう。あの白魔には怒りが満ちていた。
天使が人間世界を作った。
白魔が元天使であるのなら、怒った天使が天使のままなら人間世界は翻弄されるどころか当の昔に滅んでいてもおかしくなかったのだろうと、思い出して思った。
炎火の白魔は人間を滅ぼそうとしていたのだ。
人間をどうか思っていることに間違いはなく、怒りを持つあの姿こそが罪を犯した天使の果て。
では、あの白魔は。白猫の姿で側にいた白魔は、何の罪を犯したのか。怒りか。怒りを感じたような気がしたから。
でも、きっと、感情そのものが問題ではない。感情を抱く理由が問題なのではないだろうか。
『一番の重罪はどんなものか想像つくか?』
問われて、考えを一旦脇に置いたセナは考える。
一番の罪……常識で考えると、殺めることだ。命を奪うこと。
「殺す、こと」
『何を』
「人間じゃないんだよね」
今まで挙げられた中での最たる罪は何だという問い方はされなかった。
つまり人間を殺すという罪の一例がすでに出ている以上、人間ではない。
ベアドからは『そうだな』と考え方が合っている確証が得られた。
人間と天使は異なる存在だ。
人間と、天使は別として考えることができる……。
「天使」
ベアドは頷くことで、静かに正解を認めた。
『そう、天使殺し──同族殺しだ』
天使が天使を殺す。
それが、天界に置ける、天使の最たる罪。
『俺の記憶が正しければ、セナの召喚獣になってた白魔がしたのはその同族殺しだ』
そして、少し前まで最も近くにいた存在は、その最も重い罪を犯していた。
セナとしては、怒りや妬みという感情を抱く罪よりも何よりも、一番よく、重い罪だと理解できる罪を。
思わぬ罪に、一瞬、絶句した。
「天使だったときに、天使を、殺したの?」
二千年前、白魔が天使を殺したようにではなく、同族殺し。天使であったときに同じ存在だった天使を殺した。
『そうだ』
人間が人間を殺すようなものだろう。同族殺しとはそういうことだ。
『この最も重い罪を犯して白魔になった天使は他にもいた。だが、たった一度、他とは異なる経緯で天使を殺してしまった天使がいた』
その天使──元天使こそがあの白魔なのだとベアドが告げる。
「天使を殺したことは事実なんでしょ……?」
天使でありながらにして。
また、そうだとベアドが頷く。
『天使を殺そうとした天使を殺したんだ』
聞けば何とも言えない話だと、聖獣は言う。
『あの白魔が殺した天使は、放っておけば天使を殺して白魔になっただろうが、まだ天使だったって言うんだからな』
「でも、殺された天使が、他の天使を殺そうとしてたなら、そのときに罪に該当するような感情がすでにあったんじゃないの?」
『そうとは限らないってことなんだろう』
天使を殺そうとしていた天使は、白魔になっていなかった。またそれも事実なのである。
『罪と見なされた時点で天使としての名前を奪われ、翼を奪われ、白魔となる。そういう仕組みなんだ』
「……そういえば……名前、契約のときに、聞き取れなかった……」
『それは失われた天使のときの名前を名乗ったのかもしれないな。人間ならまず聞き取れないだろうが、俺が辛うじて聞き取れたように、もしかしたらセナなら天使の力を感じ取れるときになら聞き取れるのかもしれない。でも、今は白魔としての名前があるはずだぞ』
名前を奪い、翼を奪う。おそらく、天使である要素を奪ってしまう。
誰が天使を裁くというのだろう。
人間世界という、別の世界を作れてしまうほどだ。同じ天使が、そういう仕組みを作ったのだろうか。
『あの白魔は止まれなかったんだろう、その天使を絶対に失いたくなかったんだろう。だから、結果的に殺めて脅威を消し去るところまでいきながら、守ったんだろう──俺が最も側にいた天使はそう言ってた。天使を殺そうとした天使を殺した奴が守ったのは、そいつにとって特別な存在だった』
「……守った天使は、恋人か何かだったの?」
『恋人? ああ……いや、天使にはそういう関係はない』
一瞬不思議そうにしたのは、馴染みない言葉だったかららしい。天使にはない関係で、人間世界で知った関係だから。
「家族、は天使にはそういう関係あるの?」
『ない。天使には夫婦とか、親子関係とかそういうのが丸々ないからな。ただ、雰囲気としては全体が家族みたいなものだったなぁって思うぞ。互いを慈しんでいたからな』
人間のような数がいるわけではない。
互いを慈しみ、大切に思う、それが天界と天使の在り方だという。
「じゃあ……?」
家族の限りなく近い関係性が全体にある中で、より特別な関係とは何があるのだろうか。
セナにはもう思い付かない。
『自分の半身と言ってもいい存在だ』
半身、とは……?
『天使が生まれてくるとき、普通一度に一存在ずつ生まれてくる。でも稀に、一つの存在として生まれてくるはずだっただろうものが二つになって、同時に生まれてくることがある』
一卵性双生児みたいなものだろうか。
『そういう風に生まれてくると、普通の天使同士にはない繋がりがあるらしい。元は一つの存在だったのなら当然かもな。天使に家族はいない。人間世界のように血縁関係とかいうものも、戸籍もないからだ。だが、そういう風に生まれた天使は、唯一人間で言う家族のようなものなんだろう。兄妹のような──他の天使より特別な存在だったんだ』
──天使は、罪を犯し白魔となる。
昔々、また一天使が、天使を殺し、名前を奪われ、翼を奪われ、天使としての資格を剥奪された。
白魔は、各々どのような罪を犯した者であれ、通常天使の在り方に反感を覚える存在であり、だから天使の敵なのだという。
感情が罪になろうと、その感情が生まれた所以がある。天使が加護を与える人間を殺した罪、天使を殺した罪なら言わずもがな。
決して相容れない。
しかし、昔々、例外がいた。
決して天使の在り方に反感を覚えたのではなく、望んで天使から外れようとしたのではない例外が。
『魔界送りにされ、白魔となった奴等は天使に対して友好的じゃない。天使を排除しようとさえする。それもあって、白魔は天界に入れないようにされている』
ベアドはそこで顔をしかめて、『……まあ、これが二千年前に突破されたわけなんだが、そうなってたんだ』と付け加えた。
『ある白魔が天使に会わせて欲しいと請うてきた。ある日、俺が最も側にいた天使がそう溢した。もう想像がつくだろ。天使を殺した元天使が、自分の半身と言ってもいい天使との面会を望んだんだ』
それは、天使と相容れない白魔と異なると言える点だった。
「……会えたの……?」
答えは、半ば予想がついていた。
案の定、ベアドは首を振った。
『白魔は楽園に入ることを許されない。だからその白魔が会える日は来ることなく、二千年前天使が全て殺された日を迎えたはずだ』
すぐには次の言葉が出なかった。
白魔は天使を殺した存在だ。
天使は人間を加護していた。
白魔は悪魔よりもっと上の地位にいる、一番危険な存在だ。人間世界に現れれば、人間は滅びるだろう。
そんな中で現れた、天使を排除しようとしないだろうと聖獣に保証された唯一例外の白魔。
そんな、酷な事情を持って──少なくとも二千年を魔界で過ごしているはずだ。
天使が殺された後の世界を。望んで行ったわけではない魔界で。
『俺はあの白魔が天使であった頃、直接知っていた可能性もあるんだろうと思う。でも、今あるのは知識だけだ。名前を始め、白魔に堕とされると共に、存在も記憶がただの知識になってしまう。忘れやすい部類の「記憶」となって、大体天使は忘れていく』
「……それは、誰の記憶も?」
『そうだ。守られた天使も例外なく、全員だ』
楽園とはよく言ったものだ。
『悪い』ものは追放される。
記憶が経験としてではなく、知識だけになっても残るのは、唯一の救いなのか。
それにしても自分が自分であることを示す、名前までも失われるとは。
天使を殺したことは事実なのだろうと言ったけれど、これでは、あんまりではないのか。
「──一律に白魔にしなくたって、減刑とか……」
なかったのか。あるべきではないのかなど、言いたくなった。
大切なものを殺されそうになったら、守ろうとする。
セナも、白魔討伐の場で守りたいと思った。白魔を狩る力が自分にあれば、直接向かっていっただろう。その気持ちだけは欠片くらいは分かるのかもしれないから。
しかし何とも言えない経緯だと述べたはずの聖獣は同意せず、首を横に振った。
『確かに、もしも特に繋がりのある天使が殺されそうにならなければ、天使であり続けたかもしれない可能性が浮かぶ。特異な経緯で白魔になった。天使であることを受け入れなかったんじゃなく、天使を守ろうとして、天使を殺した。だから奴は白魔でありながらも俺達を欺くことができたのかもしれない。白魔に染まりきらない部分があるのかもしれない』
だが、と聖獣は否定するのだ。
『白魔になった経緯を知りながらも、俺の本能はあれを白魔と判断する。事情が知識に過ぎない部分とは別に、事実そうだからだ』
「それは、天使であることを奪われて、白魔にされたからだとは言えないの? 天使である資格はあるんじゃないの?」
仕組みによって、白魔になっただけで。本質はさほど変わらないことになるのではないか。
しかしまた聖獣は首を横に振る。
言えない、と。迷いなく。
『今のあいつを見ただろう。あれは間違っても天使じゃない。ガル達を、人間を消そうともしただろう』
確かに、そうだった。
あれは冗談ではなかった。本気だったのだ。
人間にかつて楽園のような加護を与えていた天使が、人間を殺めようとすることはないのだろう。ベアドの口ぶりからしても。
ならば、あの場でそのような発言をしたことが天使の資格がない証となる、のか。
『天使を殺めたことを後悔していなかった様子だとも以前聞いた。──つまり、後々魔界で影響されて悪化した結果もあるんだろうが、経緯はどうあれあの白魔だって天使を殺した瞬間確かに天使にあらざる性質を得たことは間違いないんだ。他の天使が、他の天使が殺されそうになっていたとして、同族を殺すまではしないだろうからな』
「……」
白魔は白魔。
今白魔であることに変わりなく、白魔である理由があり、その性質がある。
『これがあの白魔について俺が知る全てだ。どうして俺が白魔のことを保証したのか。──白魔としては例外の経緯を持っていて、その経緯ゆえにセナを守るだろう。そしてセナ以外のことは、その目的に反するか反することがないかで判断するだろうと思ったからだ』
「……どうして、わたしを」
その理由の答えをもらった覚えはない。それにも関わらず、ベアドは当然のように言う。
すると、ベアドはわずかに首を傾げた。
『話聞いて、薄々想像はつくだろ。その白魔の判断基準の中心は一つ。白魔になってもなお、気にかける唯一の存在がいた』
天使から守った天使。
『あの白魔が、どうしてセナの召喚獣になってたか。セナを守るため。どうして守るのか。──あの白魔がセナを守る理由は、「そういうこと」なのかもしれないって考えられる。それしか思いつかないんだ』
「そういう、こと」
薄々、ベアドが何を言いたいかは分かっていた。情報過多であろうと、この流れで察せないはずがない。
『その魂が天使のものなら』
──この世界での常識がある。
セナが明らかに転生したと思い、ベアドに生まれ変わりを信じるかと尋ねたことがある。
この世のものは全て魂を持っている。人間と聖獣や精霊とは体と魂の在り方と関係が異なろうと、共通のことがある。転生だ。
死ねば体はなくなるが、魂は巡り、記憶は受け継がないがまた生まれる。
『あいつが白魔に堕ちても気にかけた天使のものだった可能性は、十分にある』
セナは、こちらを見るベアドを見つめ返すことしかできなかった。