5 部屋の中
セナは、相変わらず知らない部屋に一人だった。
ただ、変化はあった。
目の前に食事がある。
一体全体、これはどういう状況なのか。セナは首を捻った。
少し前、突然ドアが開いて、人が入ってきて食事と服を置いていった。
声をかけられることなく、セナも不意を突かれて出ていく様子を見たところで、聞かなければと我に返ったが、寸前で間に合った問いに答えは返らずドアは閉められた。
「……貴重な機会逃した気がする……」
気がするのではなく、実際逃したのである。
小さな机の上に置かれた食事をちらりと見て、次にベッドに置かれた服を見る。着替えのつもりなのか。
服は教会の制服ではない。簡単な作りの、上下の灰色の服だ。
セナが今身に付けているのも教会の制服ではない。寝る用の、けれど非常時にもまあ外には出られる服だったが、着替える気にはならなかった。
自分を閉じ込めている人物が用意したと思うと、得体が知れないと感じるのである。
「さすがにこんな体験は初……」
閉じ込められているが、食事が運ばれてくるし、服ももらえたし。
囚人とは、こういう感じの生活を送っているのだろうかなどと遠いところを見るような目にならざるを得なかった。
誘拐、という言葉がさっきからちらちら頭の中で存在を主張してくる。
「でも心当たりがなさすぎるんだよね……」
どうしたものか。
はぁぁと息を吐いて、手で顔を覆う。
何だってこんなことになっているのか、訳が分からなさすぎて。最近意味が分からないことばかり起きて、頭の中はとうにいっぱいいっぱいで、悲観を通り越してなぜか怒りでも湧いてきそうだ。
その一方で、やはり、
「……」
この状況が不安なのである。
犯人を知っていようと、知らなかろうと、閉じ込められているという状況で楽観視していられる性格にはなっていない。
セナは、腰かけたベッドでしばらく前屈みで顔を覆ったままだった。
『どうして食べない』
びくりと、派手に体が跳ねた。
直後に手を顔から外し、辺りを見渡──たそうとしたが、見渡すまでもなく目の前に現れていた存在があった。
「聖、獣……?」
聖獣である。
真っ白な獣が鎮座していた。
雪豹ではなく、白い猫でもなく、狼に酷似した姿でもなく。
聖獣がこの場に現れたことに、セナの頭が反射的に考える。
聖獣がいるなら、当然召喚士がいる。
誘拐犯は、召喚士? 教会の人間?
それなら、これは誘拐では……ない? いや、でも閉じ込められているこの状況は……。
「な、なに」
知らない獣が触れて、前屈みになっていた背が伸びた。
そんなセナに構うことなく、獣はふんふんとセナを嗅ぎ回る。
『何ともないようだ。我々の道を通れるということは、やはり……』
ベアドとも、ラヴィアとも異なる色合いの目がセナを映した。
綺麗な色の聖獣の目と合うと、不思議と少し落ち着きが戻ってきた。少しだけだけれど。
見知らぬ人間だったなら警戒しただろうに、聖獣となると警戒心が激減するのは、聖獣という生き物に抱いているイメージが大きいのだろうか。清廉である、と。
「……つかぬことをお伺いしますが」
『何だ』
セナを注意深く観察するように見ていた聖獣は、すんなりとセナの呼びかけに応じた。
さっきここに来た人とは違い、声も出すし、こちらを見るし、すぐに出ていこうとしないし、話が出来そうだと思った。
「あなたは、誰……誰と契約してる召喚獣なの?」
聖獣自身に誰だと問おうとしたが、聖獣に聞いたところでこの質問をして得られるのは聖獣の名前くらいだろう。
聖獣の名前を聞いても、セナにはそれ以上の情報は得られない。
ならば、人間の方の名前を聞いた方がいいと方向転換した。
答えが返ってきたら、それよりも聞かなければならないこの状況は何かという問いをしなければ。
……その前に、誰だと聞いてから、この聖獣に見覚えがあるような気がしてきた。そうだ、この聖獣、どこかで……。
多くが狼によく似た姿をした聖獣だ。そうでない時点で、記憶に残るには十分であるはずなのだけれど……。
『エド』
召喚士の名前を聞いたとしても、誰だと分からない可能性は十分にあった。
セナが知っている召喚士の名前など、一部も一部になるだろうからだ。
しかし、言われた名前はセナの頭に引っかかった。
エド。エド……? エド──エド・メリアーズ!
合致した名前は一つだった。
「ライナスさんのお父さん……?」
『ライナス? ……ああ、エドがよく言う「何も分かっていない息子」か。──そして、一度全てを無に帰そうとした忌々しい人間』
「……?」
発言すべてに気にかかるところがあったような気がするが、全部すぎて、結局何が気にかかったのかが分からなくなってしまった。
気になったという事実だけが残りながらも、セナはまずは状況の打開だと、気を取り直す。
「ここは北の砦?」
『否。しかしどこだかは言えない』
会話が出来そうだと油断していた矢先だった。
『お前が私が望む存在かどうか。それが重要だ』
「……どういうこと?」
『お前が天に戻ることの出来る天使であることを願う』
「あ、ちょっと、待っ」
伸ばした手は、毛先にさえ触れなかった。
聖獣は、床にふわっと表れた模様に消えてしまった。
「なんで、ライナスさんのお父さんの聖獣がいるの……」
声は、また一人に戻った部屋で、他の誰に届くこともなく消えていく。
ここは、北の砦ではない。
単純に考えると、ライナスの父親がここに連れてきたのか。もしそうだとすれば、何のために。
頭が回り始める。
エド・メリアーズとセナの直接の接点は皆無だ。直接話したことすらない。
そしてセナがエド・メリアーズについて知っていることも少ない。限られている。
ライナスの父親、元帥、ということを除いてしまえば後はたかが知れている。
──天使の剣を使った少女、エド・メリアーズが連れ来られた彼女、天使の剣を使った自分──
「あの聖獣」
──『お前が天に戻ることの出来る天使であることを願う』
天使だと言った。
セナに天使だとかいう理解できない疑惑が出てきたタイミングは、一度だ。白魔討伐の地で、少女が倒れ、自分が天使の剣を握った。
天使の剣を使ったところを、見られていた。
そこまで考え、セナはさっと青ざめる。
この件は、最早自分一人のことではなくなっていた。四人で隠蔽を行ったのだ。
隠蔽を行うからには、こちらが言う前に隠していたという形でばれることはあってはならないはず。
エド・メリアーズも知っている。
セナが天使の剣を使ったから、ここに……?
少女と自分には、きっと何らかの関係があるとは明白だった。
その少女は、エド・メリアーズに連れてこられていた。
セナの手は、無意識にうなじを触る。
ライナスにまだ聞けていないが、天使の剣を使えることの理由がある。
その理由は何なのか。メリアーズ家は何を知っているのか。
──あの召喚陣のようなものは何なのか。
一番、長く考えていることかもしれない。
少女の背に人にはない翼が生え、雰囲気が一変し、天使の剣が目覚めた。
彼女においての全ての境はあの模様だ。セナはあの上に立った覚えはないが、あの召喚陣のようなものを思い出すと、胸がざわざわした。
エド・メリアーズはあのとき笑っていた。あの笑みに背筋に震えが走ったことを覚えている。
思い出したことで、実際にもぶるりと震えが体に起こった。
肩書きとは、大きな影響を持つ。
自らの側にいた白猫が、聖獣ではなく白魔であると分かった瞬間に、接する意識が一変した。この世界では白魔が、最も警戒されるべき存在だからだ。
ならば今。元帥という、人間としては完璧な身分証明になる地位を持つ人がいる。
元帥だ、ライナスの父親だという意識を持っていると、きっとこうなのだと意識が持って行かれようとする無意識がある。
しかし今、元帥という地位を抜きで考えてみれば。
閉じ込められている状況、自分で来た記憶がなく、誘拐という言葉が浮かんだ状態だ。
最初に何者の仕業か分かっていないときに感じたように、危機的なのだ。
「出なきゃ」
閉じ込められているなら、脱出する努力をしなければならない。
相手が元帥だとしても、この状況はおかしい。その元帥がエド・メリアーズであることも、危機感の一部となろうとしている。
エド・メリアーズはかの少女についての何かを隠している人物だ。
ベッドから立ち上がり、セナはドアをもう一度ガチャガチャしにいく。
ドアノブが、滅茶苦茶に捻ろうと壊れない強度だと知り、壁を触る。壁は机で殴ろうと穴なんて開けられないだろうと一瞬で判断するくらいには固い。
床は石だ。
早くも残るは窓だった。
窓、割るか。
触る前に考える。
何しろ一番壊せそうで、一番外に直結する道だ。
細かな強度など、計れるはずもなく、計れなかったところでやることは変わらないのに一応窓に触れる。
外を見ると、ここは一階のようだった。地面が近い。
けれども景色は、中庭のような狭いスペースと建物の向かいの壁が見えるくらいだ。
外に直結すると言っても、すぐに袋小路行きではないか……。
「何がしたい」
一人の部屋が、また一人ではなくなった。
さっき聞いた声ではなく、ここしばらく聞かなかった声がした。
「──ギンジ」
とっさに呼んで、振り返ってから動揺した。
白い髪の白魔が立っていたからだ。
白猫の姿ではなく、人に限りなく近い姿で。
慣れない姿に、とっさに呼んでしまったものの白魔だとまた改めて知らされる。
「どうして、ここに」
しばらく離れておいて欲しいとセナが言ったから、あれ以来姿を見なかった。
呼んで出てきてくれるものなのかと考えてはいたものの、セナは呼んだ記憶がない。
完全に不意討ちだ。
「お前が急にどこかに行くからだ」
北の砦から急に消えたらしく、それで追ってきたと言う。
動揺をさておき、セナは違和感を覚えた。
「……この契約印、偽物で効力ないんじゃないの?」
窓ガラスから手のひらを離し、ゆっくりと手首を挙げ、問うた。
普通、召喚獣と契約して刻まれる契約印は、召喚獣がどこに行っても契約主の元に現れられる目印となる。
しかし、セナの手首にあるこれは違う。
召喚獣は、通常呼ばれる聖獣ではなかった。
この印自体、何の効力も持たないと言われた。聖獣に擬態するためのもので、居場所も分からなければ、当然契約内容の影響も受けていない代物だと。
「それは偽物だ」
白い白魔は肯定した。
「以前、私が獣を排除している間に、お前がどこに行ったのか分からなくなったときがあった。あまつさえ、怪我を負っていた。そのときに別の手段で目印をつけた。今回はそれを辿ってきたまでだ」
冷たい色合いの目で、しばらくセナの全身を映してから、白魔は一度頷く。
「お前がまだ離れていろと言うなら、消えておく。……ただ、焦るような行動はあまりしてくれるな」
焦る?
白い白魔の姿が揺らぐ。衣服が揺れたのではなく、存在そのものが。
消える。また、セナの言葉通りに姿を消してしまう。
「待って」
気がつけば、服を掴んでいた。
揺らぎが止まり、白い白魔がセナを見下ろす。若干、驚いた表情だった。
銀色の目と目が合って、セナは反射的に手を離しそうになって、反対に意識して握り締める。
「話が、したい」
白い髪の白魔は、首を傾げた。