23 心当たり
「セナは天使の剣を使った。白魔がセナを天使だと言った」
忘れていたわけではないが、頭の隅に追いやられざるを得なかった記憶が戻ってきた。
この手で天使の剣を握った。
「……そうでしたね」
ガルの目がセナに向く。
勝手に緊張した。自分でも訳が分かっていないことだからこそ、緊張した。
「ベアドルゥス」
ガルは、セナを見たまま聖獣に呼びかけた。
「君は、天使の剣を使ったセナを天使だと感じたのですか」
『そうだな』
セナが自分にされたのではない問いの内容に戸惑う間もなく、聖獣は迷いなく肯定を返した。
『懐かしい──懐かしすぎる、気配がした』
セナの手に、頭を擦り付けるように聖獣が体を触れさせた。
まるで単なる動物が甘えるかのような動きで、いつもなら撫で返すが、セナは動けなかった。
養父の言葉と、聖獣の言葉が頭の中で反響し、危機が今度こそ欠片もなくなった今、何も握っていない手の中に剣の柄の感触が甦る。
飲み込めない。一連の流れを頭が受容できない。
「で、だ。セナ、悪い」
「ぅえ?」
無意識に下を見たまま視線が固定されていたセナは、大いに驚いた。
急に軽く喉が圧迫されたのである。
「ライナス、何をする」
視線を上げると、ヴィンセントも驚いたようにライナスの手を止めた。セナの喉元が窮屈になったのは、ライナスの手によるものだったようだ。服の襟首を後に引っ張られている。
しかしライナスは襟首を後ろに引っ張っただけで苦しさはそれ以上にはならず、露にされたうなじに冷気が触れる。
「……ねぇな」
何がですか。
「セナ、急に悪かったな」
「い、いえ」
襟を引っ張り露にした首にじっと視線を注いでいたライナスがぱっと指を離した。
襟を直されながら返事しつつ、セナは目を白黒させる。
「ライナス、今そこに、何があると思いましたか」
セナはいきなりに見舞われ、行動の意味が全く分からなかったのだが、ガルが問うた。
見ると、大変真剣な目付きだ。さっきまでと比べると、厳しさが加わった。
「……その問いはどういう意味ですか」
考える仕草をしていたライナスが、ガルを見て、ガルが反対に返された問いに口を開く。
「精霊がとうの昔に消しましたが、そこには数字が並んでいました」
首裏の数字とは、久しぶりに思い出された。
実は首裏にあった数字は、セナが時々気にしていると、精霊が消してくれていた。だから、多少はもやもやが残りつつ、もう記憶の彼方に飛び立っていた。
セナには何てことのない、ただの事実でしかないことだった。
しかしガルの回答を聞いた瞬間だ。「まさか」とライナスが呟き、それから、橙色の目に宿る感情が沸騰した。
「──あの親父……!!」
目と、声は、明らかな苛立ちと怒りを帯びていた。
彼が彼自身に怒っていたときが静かな怒りだったなら、今の怒りは激しかった。怒気が肌に感じられそうでさえあった。
「数字について心当たりがあるのですね」
「ありますよ」
ガルへの食い気味の返答の声には、まだ欠片も抑えられない怒りが満ちていて、セナはまたも何が何だか分からず、戸惑う他ない。
「何なら、そっちの親父が連れてきた方にもある可能性が高い」
ライナスが吐き捨てるように付け加え、視線をやった方には、一人の少女がいた。
一度は目が合っていた少女は地面に横たわっていた。目は閉じられている。
ガルが少女の元へ行き、衣服の首を緩め、ライナスがセナにしたように首の後ろを確かめたと後ろ姿でも見てとれた。
「……081」
三つの数字の呟きが耳に入ると、セナは足が動き、ガルの元へ行く。
後ろから覗き込んだ少女の首には……081。
勘違いか否か、かつて鏡越しに見たものと同じ字体、大きさの数字が並んでいた。
手が無意識に首を押さえた。
数字。
あることも知らず、知ったのはガルに会った日、ノアエデンに行った日だったか。
なぜあるのか、何なのか。──この身は何なのかと思ったことがある。
生まれ変わったにしては、身体年齢は十を越え、赤ん坊などではなかった。しかしそれまでこの世界で生きた記憶もなかった。
「セナ」
ヴィンセントの声だった。
首を押さえ、少女を凝視するセナが我に返ると、ヴィンセントがセナを見ていた。
彼は、セナの内心の動揺が収まったことを見てとったように、それからガルの肩越しに見える少女を一瞥し、
「話が読めない」
説明してくれる気はあるのかと言いたげにガルとライナスにそれぞれ目を向けた。
「……私がセナと出会ったとき」
回答を始めたのは、こちらに背を向けるガルだった。
少女の傍らに膝をついたまま、話し始める。
「セナのうなじには077という数字がありました」
「077……」
「数字で管理される存在の心当たりは二つ、罪人か奴隷でした。しかし罪人の数字のつけられ方には法則があり、当てはまりませんでした。一方でセナには奴隷であった記憶はありませんでした。不幸な記憶がないのであればいいことですが、結局分からないまま精霊が数字を消しました。……ですが、今」
ガルが、心なしかセナを少女から軽く離すように押しながら立ち上がり、真っ直ぐライナスを捉える。
セナもつられるようにライナスを見た。
ライナスは、セナを見ていた。
「ライナス、君はセナの首を確認し、そちらの彼女にも同じような数字がある可能性が高いと迷いなく言いました。共通点は、どちらも人間が使えるはずのない天使の剣を使ったことですね」
ライナスが、ゆっくりと視線をガルに移す。
「エドが連れてきた彼女がなぜ天使の剣を使えたのか、君は理由の一部くらいは知っていると思っていましたが、それがセナが使えた理由にも当てはまると君は思っているのですね」
「……そうです」
「ではその理由と、数字がなぜ刻まれているのか教えてもらいましょうか」
ライナスは口を開いたが、すぐに答えは発されなかった。
視線が一瞬セナを掠め、橙の目が辺りを見た。
「ここで話しますか。砦には親父がいるが、この状況でここでこのまま話し込むのも良くないでしょう」
この状況、と示されたのは戦場だったこの場だった。
白魔は去ったが、全てがなかったことにはならない。白魔が及ぼした影響──死傷者がいるはずだ。
「……それに、一度確かめてからにしたい」
視線を感じて、セナがそちらを見ると、ライナスがこちらを見ていた。
エド・メリアーズに連れてこられた少女を見ていたような目ではなく、その目に含まれる感情、思考が何なのかセナには分からない。
「確かに。生存者と怪我人の把握をしなければなりません」
状況が状況だけに、ガルは話よりも場の把握を行うことに同意した。
「では最初にライナス」
呼びかけられて、ライナスの目がセナから逸れる。
彼は最初に、と言われたことに訝しげになった。
「君は大丈夫ですか?」
「は? なんで俺なんですか」
「おや。聖剣を解放したでしょう」
ちょうどのタイミングだった。
「っ」
ライナスの口から、突如、赤いものが出た。
──血だ
「ライナスさん!?」
血を吐いたと同時にライナスがよろけたが、ヴィンセントが支え、事なきを得る。
白魔がいなくなったのに、なぜ。何が起こったというのか。
「聖剣の制限解放をしたためです」
冷静な答えが寄越された。
ガルだ。養父はライナスの様子を動じることなく見ていた。予想していたようだ。
「聖剣の、制限解放……?」
「元々高位の聖剣には、人間には扱い切れないほどの力が収まっているようなのです。白魔に勝つには通常ではまず不可能ですから、今回聖剣の力の解放は必須条件のようなものでした」
ライナスが手にしていた聖剣が、明らかに変化していたことを思い出した。
あれが、聖剣の制限解放か。
「ただ制限を無くした力は人間には大きすぎ、扱うだけで生命力を大いに消費します。生命力とは命と同義です。短時間で命が一気に削られれば、目に見えてこのような不調も起こるのは当然というわけです」
このように、と示されたライナスは、ヴィンセントの支えを問題ないと言うように手で押し自力で立ったところだった。
「今となっては、白魔に殺される前に聖剣を人間に与えていたのは、まるで天使が人間がいずれ白魔と戦うことを予期していたようだとさえ思いますよ。──ライナス、死にそうですか?」
「いいえ。思ったより早く戦闘が打ち切られることになって、第二戦目に入ることもなかったですし。あなたの方はどうなんですか、聖剣解放していたでしょう」
ガルも。
即座に養父を見ると、ガルはにこりと微笑んだ。
「短時間で、力も奮うことがなかったので君と比べると微々たるものですよ」
と、養父も言い、ライナスもさらりと質問を流したが。
つまりは二人とも、戦い白魔に命を奪われる以外に、命を失いかねないことをしたということだ。
「それ以外の傷も大変ですが、そちらが原因でも死にそうではないですか?」
これは、ライナス、ヴィンセント両方に向けられた質問だった。
白魔と戦っていた二人は、見るからに重傷だ。
服が血に染まっている。
「止血すれば、万が一にも死ぬ可能性は感じません」
出血多量で死にそうな血を止めればと来た。
ライナスも同意だと頷いている。
「大丈夫なんですか……?」
彼らの大丈夫の度合いはセナとはずれているようだが、あまりの状態だ。尋ねずにはいられなかった。
聖剣のことも含め、三人全員に聞いた。
「問題ありません」
「問題ない」
「問題ねぇ──」
ガルが微笑み迷いなく言いきり、ヴィンセントも言い切り、ライナスも同時に言い切るかと思われた勢いだったが、途中で途切れた。
「腕がどうかしたか」
セナには分からなかったが、ヴィンセントにはライナスが気にしたところが分かったらしい。
「ああ……ラヴィアが天界に帰ったからか」
ラヴィアが。
「天界に、帰ったんですか?」
どうして。
「結果的に言えば契約が消滅した。……あいつと契約して十年くらいか」
契約印があったと思われる位置を見下ろし、ライナスはふっと笑った。
「いなくなると寂しいもんだな」
『ラヴィアは寂しいとか思ってないと思うぞ』
ベアドである。
ばっさり否定した。
「分かってるさ」
『ただ白魔を自分で葬れなかったことに悔しいとは思ってるだろうな』
それも分かっていると、ライナスは言った。
「怪我は問題ない。前と比べりゃ良い方だしな」
ライナスがセナの質問への答えを示し、全員から回答を得たわけだが。
懸念は大きくなるばかりだ。早く完全に手当てしなければ倒れてしまわないか、死んでしまわないかとはらはらする。
「セナ、君は?」
「え」
本当かと、大怪我も大怪我の人たちを見ていたら、ヴィンセントに話の矛先を向けられた。
君はと言われても、問いの内容が分からずに首を傾げると、「鳥ごと落とされただろう」と言われる。
そういえば。
「大丈夫です。ふらつかず歩けますし、大怪我でもないです」
少女一人背負っても歩けた。
さすがに怪我はしているが、それこそ、ヴィンセントたちと比べると死ぬ可能性が全く感じられない程度の怪我だ。
「さて。ではどれほど生存者がいるか、確かめましょうか」
怪我をしたのは、ここに集まる者だけではない。
ここにいないからこそ、怪我をしている者もいるだろう。
白い白魔がいなくなると共に吹雪はなくなり、景色が開けていた。
雪に覆われた地は、静かだった。