16 命を賭けられる
ヴィンセント視点。
炎が鳥を撃ち落とし、地が炎に飲み込まれるのは一瞬で、白魔に向かっていった聖獣が炎に飲み込まれ、人が屠られるのも、どれくらいの時間がかかったか。
一瞬だったかもしれない。
少なくとも今白魔と戦っているのは、ヴィンセントとライナスだけだった。
襲いかかってくる炎が勝手に消えるより先に切り裂き、白魔も同じく切り裂こうとするが、届かない。
「ラヴィア!!」
ライナスの声に、素早く現れた聖獣が襲いかかる。聖獣は心なしか、視界に入る度、見たことのある姿から変化していた。
その変化によるものか、いつもの倍以上の力を感じる。
だがそのような力を発する聖獣の力も及ばないようだった。
ラヴィアを腕一本で止めた白魔は、一歩足りとも動かされたように見えなかった。ただ、牙が貫かんとしている腕からは一滴、血のようなものが流れた。
瞬間、白魔の腕が激しく炎に包まれ、腕がぶれんばかりに速く一振りされると、聖獣が飛ばされた。
「『聖獣』と呼ばれる獣が人間に使われるようになったか。嘆かわしい獣よなぁ」
ラヴィアが吹き飛ばされた直後には、ライナスが踏み込み、聖剣を振るう。
そのライナスにも、白魔の予備動作なしの炎が襲いかかり、ヴィンセントがライナスに迫る炎を切り裂く。
炎を帯びた大地に立つ分にはライナスは聖獣か、聖剣の影響によって燃やされずに立てているが、それ以上の威力を持った炎は論外だ。普通の火傷でも済まない。
炎を切り裂いたついでに、ヴィンセントは白魔に肉薄する。またも迫った炎には今度は目もくれず、白魔を狙って剣を振るう。
この距離では視界を確保しなくともいい。とにかく刃を届かせる。別の攻撃があったときは、あったときだ。
視界を炎に塗り潰されながらも真っ直ぐに突き出した刃は──音が鳴って、硬いものにぶつかった感覚が腕に伝わってきた。
受け止められた。白魔の肉体の感触がどうかは未だに分からないが、肉を断った感覚ではない。
案の定、自分に触れるぎりぎりで消えていく炎の向こうに目を凝らせば、白魔が手にする炎そのもの──炎に包まれた剣に受け止められていた。
いつものようにこのまま押し通せる気がしない。それどころか、あちらの力に押されていく慣れない感覚がする。
これが白魔か。
「奇妙な人間だな」
一旦離れざるを得なかったヴィンセントを追撃することはなく、白魔はあくまでゆったりとした様子でヴィンセントを見やる。
「聖獣の力に守られているわけではなさそうだが、燃えないとは……。ああ、破魔というやつか」
白魔も破魔というものを知っているらしい。
しかしながら、「なるほどな」と白魔はふっと笑うばかりで、何も不利などは感じていない様子だ。
白魔の毒々しくも鮮やかすぎる赤い髪が揺れる。激しい炎が上がったためだ。
目が、炎と同じ色に移り変わりする。
炎の瞳に映ったのは、ヴィンセントだった。
「どこまで燃やせば燃えるのか、多少の興味はある。天使の取り零しごときが及ぼせる大きさには限度がある。無論、人間ごとき。私には到底及ばぬ程度の限界がな」
ヴィンセントは無言で柄を握り直した。
この身は、異端ながら人間ではある。天使ではなく、悪魔でもなく、獣でもないのだから。
人間が、悪魔なら未だしも人間に加護を与える天使と同格の白魔に敵うことはあり得ない。
ならば、白魔が言った通り、人間特有だろう破魔にもおそらく限界がある。
それはヴィンセント自身、常々思っていたことではあった。
限界がないものはないと自覚していた。
自分の限界はどこなのか。
破魔は自分以外に見たことがなく教会にいた前例も聞いたことがなかったから手探り状態で、敵が強くなる度に実際に戦い、限度かどうかを更新して探ってきた。
そして、おそらく数分白魔との攻防を経て感じ、下した判断は『厳しい』だ。
いつものように刃を押し通せる気がせず、あちらの力に押されていく慣れない感覚がした。
魔を無効化する効果の上を白魔の力がいこうとしている。
まず無傷ではいられないだろう。死ぬ可能性さえある。この白魔はまだ本気を出していない。余裕さえ感じる。どれほどの力が出せるのか。
そのようなことを感じるのは、当然初めてだった。
敵わないかもしれないと感じる敵にとうとう会った。感じてしまった。
だが白魔に関しての感覚には、想像以上に心は落ち着いていた。
ヴィンセントは白魔を見据え返す。
「俺もどこまで自分の破魔が効くのか興味がある」
剣を握り、刃を構える。
「魔獣の首を切り飛ばせるこの『普通の刃』は、白魔の首をはね飛ばせるのか」
ヴィンセントの挑発のごとき言葉に、白魔は不快そうにした。
ゆらりと揺れる炎に、濃度が増した気がする。
結果的に焚き付けた結果にも、ヴィンセントは焦らなかった。あのような言い方をすれば、気分を害する者は害する。人間での統計に白魔が当てはまっただけの話で、予期していなかった状態ではない。仕方がない手段だ。
後方にいる天使の剣を扱う少女から気を逸らせ。
この白魔は、完全に天使の剣かそれを使う少女を狙っている。
思えば、進行方向が砦の方に定まったように思えたのは、天使の剣が使われた頃だった。
定まったと確信した時と微妙にずれていたから気がつくのが遅れたが、ついさっき確信がもたらされた。
天使の剣が発動された直後に現れ、今空から撃ち落とし、真っ直ぐに向かっている。
天敵である天使の力そのものの剣を使われるのがまずいからかもしれない。
ヴィンセントが後方を見たのは、一瞬だった。
天使の剣の少女の側にいたセナは頷いた。
今どの距離にいるかは分からない。安全圏にいるか──いや、もはやこの地に安全圏などないか。
白魔がいなくならない限り。
「人間はやはり傲慢だ」
白魔から笑みが失せた。
「天使の祝福を得て、何の苦しみのない生を得るべき生き物ではなかった。今もまた天使の力の名残を使い、まるで自らの力かのように振る舞う傲慢よ」
「俺は人生で一度も天使の力を使ったと実感できたことなどないが」
「人間であることに変わりはあるまい」
「人間であると白魔から証を得られるのも変な話だな」
ヴィンセントが淡々と言葉を返したこと自体が気にくわなかったのか、内容が気にくわなかったのか。
白魔が出す炎の濃度と大きさが変わった。地面を這う炎もだった。
ヴィンセントは熱を感じて、眉を若干動かす。熱を感じるようになった。これは良くない。
「人間と獣ごときが、対等を演じられると思うなよ?」
言葉に反抗するように、激しく反応したものがあった。
どこかからか獣の咆哮が響き、ヴィンセントの鼓膜を揺さぶり、地を揺らす錯覚を覚えた。
大音量にヴィンセントがさすがに顔をしかめていると、一瞬の隙に白魔の横から何かが突っ込んだ。
大きな、『何か』だった。
その何かによって、白魔が初めて立ち位置から強制的に動かされた。
「あれは駄目だな。もう呼びかけても聞こえねえだろうな」
「──ライナス」
ライナスが、ヴィンセントの隣に歩いてきた。
「あれは君の契約獣か」
「そうだ。白魔を前にとうとう理性がぶっ飛び始めたらしい」
白魔に突っ込んだ塊──ラヴィアは様相を平素に見ていたものと明らかに違えていた。
「だがあれで上手く巻き込まれないように追撃できたら望みが見えそうだ」
ラヴィアの力が増している。
咆哮にさえ、力が宿っているようだ。
そのような力の塊が出てきてもなお、勝利の確信ではなく、望みが見えそうだとライナスがしたのは、白魔が聖獣の力をまともに受けているようには見えないからだ。
「どうせならここで力全集中させてやろうぜ、ヴィンセント」
「何をするつもりだ」
「出せる限りの戦力出すんだよ」
まずはと、ライナスが袖を軽く捲ると、露になった契約印が浮かび上がった。模様のごとき文字が変化する。
直後のこと、地が揺れた錯覚を覚えた。急激に感じる力が増幅し、凄まじいまでになったからだ。
「これでどれだけラヴィアがここにいられるかは知らねえ」
「何をした」
「ラヴィアの制限を無くした。あいつあれで律儀に我慢してたからな。あとは俺も聖剣の制限を無くす」
「……それは、大丈夫なのか」
「大丈夫か大丈夫じゃないかと言えば、後々響いてくるものはもちろんある。長時間になれば殺されなくとも死ぬしな。けど今自分の命惜しんでる場合じゃねぇだろうよ」
新たに火傷を負った姿は、揺らぐことなく白魔の方を見据えていた。
「それに、命を賭ける価値があるもの持ってるからな」
ライナス・メリアーズは笑みを浮かべた。
この状況で笑うかと、ちらっと見ていたヴィンセントはふっと息を吐いた。
この男のこういうところが、時に呆れもするが頼もしい。
そしてライナスがこの状況で何を思い浮かべ言うのか、微かに分かった。
彼も、この状況下では万人を守ることを思い浮かべやしないのだ。彼には、命を賭けられるものがある。
「しっかし開始数分で陣形が跡形もなくなったのは笑えたなぁ、ヴィンセント」
「俺に同意を求めるな。塵ほども笑っていない。笑えない。共感できない」
明確に確認してはいないが、死人は出ている。
ライナスのこのような状況に置いてものいつもの調子の言に、ヴィンセントもいつも通りに返した。
ライナスとて、言葉通り笑っているのではない。
「人には敵わない、か」
白魔が現れ、人間を滅ぼそうとしたならば、人間世界は滅びる。
有名な話だ。
天使が殺されたのだから、むしろ人間が敵う道理はないという考えは自然すぎる。
「おい、諦めてんのか?」
呟きを拾われ、橙の目に凶悪なほどに睨まれる。
対して、ヴィンセントは首を横に振る。
「まさか。──絶対に後ろに通せないと思っている」
いつも悪魔を相手をしているときのような勝てる確信はない。
だが敗北する気はない。
負けず嫌いだったのかとこの状況で思うが、違う。そんな性格ではないのは自分がよく知っている。
かと言ってパラディンだから白魔を倒さなければならないという気持ちが、今自らを動かしているかと言えばそうではなかった。
では、何か。
絶対に後ろには通せない。通さない。
『今』、ヴィンセントを突き動かすものはそれだった。
「怪我は正直どうなんだ、ライナス」
「まずまずだな。まあ、気合いでどうにかなる程度だ。お前はどうだ。破魔はどこまで効きそうだ?」
「さあ」
「さあってお前」
「想像以上には効いた印象ではある。どのみちやるしかない。そう先に言ったのは君だぞ」
ちらりと見てやれば、ライナスが「確かに」とまた微かに笑った。
「でもなぁヴィンセント、考えてもみろよ。白魔は二千年出てこなかった。人間と直接戦うこともなかった。白魔に絶対に敵わないなんて憶測に過ぎねえよな」
そんな風にヴィンセントに言いながら、目はもう前しか見ていない。意識もだ。
ヴィンセントもまた、意識を研ぎ澄ませる。
白魔を目に捉え、力を感じながらも、この身がすくむ理由はありはしない。
絶対に通さない。そう思う限り。
ヴィンセントが思った瞬間、直近の炎だけではなく、周囲の炎がふっと消えた。
「たった一体だ」
その後にはされど一体、という言葉ももれなく付く。
だが、確かにたった一体なのだ。
「聖剣の制限外すの、ちょっと面倒なんだが時間稼いでくれる気あるか?」
「ああ。盾にくらいなろう」
「そりゃあ贅沢な盾だな」
飛んできた火を切ると同時に、ヴィンセントは地を蹴り、前に飛び出していた。
「『我が命と引き換えに──」
背後からは、この状況では恐ろしく静かな声音が聞こえ始めていた。
益々様相を変えつつあるラヴィアが動き、襲いかかり、咆哮を上げるたび、地が捲れ上がる。
それに巻き込まれないように、ヴィンセントは白魔を追撃しに行く。
第三第四の手のように向かってくる炎の触手を排除し、ラヴィアの攻撃の合間を縫い、距離を詰め刃を直接叩き込みに行く。
しかし白魔の目が左右を見て──聖獣が炎そのものの刃で貫かれた。ラヴィアの血が飛ぶ。ラヴィアはそのまま突っ込む。
ヴィンセントは攻撃の先をとっさに炎の刃に変え、白魔への攻撃が一旦逸れるが、そのまま白魔に向かって剣を振り抜きにかかる。
次に迫ってくる炎は異に介さなかった。
この状況において無傷など不可能、自分の身を守るのは最低限でいい。全ての攻撃から身を守ろうとするなら勝機はない。
白魔の一撃は消え去り、白魔の目が、この瞬間に唯一自らに迫る人間を捉えた。
炎が地面から噴き出すように生じ、ヴィンセントの身をあっという間に飲んだ。
さすがに熱いが、やれないことはない。
ヴィンセントの目は、炎の向こうの白魔を見ていた。
もしもこの身に僅かでもある加護を引き換えに、破魔の効力が引き上げられるならば、一生加護などなくていい。
気にかけてくれた精霊には悪いが、心の底から思った。
元よりヴィンセントがこれまで自らの力としてきたのはこの破魔だ。どのような目で見られ、言われようと、ヴィンセントの確かな力となってきたのはこの力だった。
ならば今一番後ろには引けないと思う状況で、信じる力もそれだけだ。
剣が、何重にも重なる炎を切り裂き、わずかに白魔の顔に傷が入った。
「小賢しい」
「それは正直こっちが言いたくもあるんだけどな」
ヴィンセントの視界が白い光に染められかけると共に、凄まじい力を感じたが先か、声が聞こえたのが先か。
光を凝縮した色で光った聖剣が、通常にはない大きさの力を宿し、振るわれる。
人間には似つかわしくない大きすぎる力は、炎を丸ごと一撃で排除し、斬撃がそのまま白魔に向かう。
白い軌跡を描く聖剣の力は大きな炎に相殺されなかったものの炎の剣に払われたが、そこに聖獣の、地を割りながら迫る攻撃が追撃した。契約関係の成せる技か。
白魔がわずかに瞠目したかに見え、隙が出来た瞬間となった。
「ヴィンセント!」
分かっている。
一度引いていたヴィンセントは、すかさず白魔に肉薄する。聖剣によるものか、後方にいたと思われたライナスもほぼ同時に白魔の元に到達した。
斬れるという確信があった。
──いいや、斬る。ここで仕留める。
意思を持つ炎が肌を舐めるが、その先に剣を突き出した。
そして、二本の刃が白魔の体に及ぶ。
「──馬鹿な」
白魔が目を歪める。
「そのまま、その首取ってやるよ!!」
ライナスが吠え、ヴィンセントも白魔を断つべく力を込める。
聖剣と、ただの刃が白魔の体を裂こうとする。
白魔が、新たに力の籠った真っ赤な炎が生む。
炎が先か、人間が先か。または人間が焼かれても白魔の命を断つか。
死ぬなら死ぬで構わない。この場の脅威を滅ぼせるなら。
ただの刃が白魔の体に沈んでいく。このまま心臓を貫く。
そうして、白魔一体。されど一体──取ったと思った。
だが。
「この身にあるのは怒り」
白魔が発した声には、怒りが煮詰まっていた。
目は、ヴィンセントを射ぬいてあるようで、この地全てを映しているように思えてならない目付きだった。
全てを、標的に、手中に収められているような。
このときヴィンセントは確かな焦りを覚えた。
「天使に対してであり、人間に対しての怒りだ。本来は我々に通じる言葉さえ話すべきではないものであるべきはずの人間を滅ぼそう。そして、不快なものも消そう。──戯れは終わりだ」
完全に、唐突に思えた。
ヴィンセントの体を、熱せられた剣よりも熱い火が貫いた。前からではない。足元からでも。──背後から。
思わぬ衝撃に、体が傾ぎ、膝をつきそうになる。
「ヴィンセントさん!!」
振り返るな。
頼むから、出来るだけ離れてくれるようにと心のどこかが思ったことに、なぜそのように祈りにも近く思ったのかと疑問を持つ余裕はヴィンセントにはなかった。