10 剣、少女、謎
朝起きて、窓から入ってきた風は冷たくなくなってきていた。
雪が溶け、空気の温度もそれに応じてきている。
単に春が近づいてきているのか、炎火の白魔とやらの影響を受けているのか。
この地の通常を知らないセナには、どちらか判断できない。
「ギンジは、どっちか分かる?」
『炎が近づいて来ているのは事実だな』
悪魔の力を感じ取れるのか、さらっと答えた猫は、『熱いのは好かん』とか言ってマイペースだ。
熱いのは好きではないと言いつつ、ずっとポケットに入っているのはやっぱり寒いのだろうかとか思ってしまう。暑いのも嫌だけど、寒いのも嫌。分かる。
セナは、そんな猫を視界に捉えつつ廊下を歩く。
ライナスの聖獣は、ライナスの体の年齢に影響を与えるほどの聖獣だ。ベアドと同じく。
しかし、パラディン級の召喚士、聖剣士を持ってしても白魔に勝てると誰も言わない。
前に、ガルが唯一白魔と相対したライナスに、パラディンが五人いるが白魔に対抗できる気はするかどうか尋ねた。
それに対し、ライナスはやるしかないのだろうと言った。
勝てると断言しなかった。パラディン五人でもなお、だ。
ライナスが相対した白魔とは、どのような悪魔だったのか。
普通の悪魔でさえ、身に感じる異様さが肌に突き刺さるようだと言うのに、想像がつかない。
「ギンジは、白魔が来るのに危機感とかないの?」
『危機感?』
妙な言葉でも聞いた反応だった。
「危機感」
と、セナは繰り返す。
もしかして、敵わない相手を相手にしなければならなくとも、聖獣は危機感を抱かないのだろうか。
ベアドも危機感という言葉は似合いそうにない。
『嫌ではあるな』
「嫌かぁ」
他の聖獣はさておき、ギンジにとっては危機感の代わりがそういう感覚なのかもしれない。
「嫌ではあるんだ」
『何だ?』
撫で撫ですると、猫は不思議そうにこちらを見上げた。
聞いたのはこっちだけれど、嫌なのに下げてあげられなさそうでごめんねと思ったのである。
「どうして今、出てきちゃったんだろうねぇ」
伝説上の悪魔。今まで出て来なかったという白魔が出てきた。
二千年出てこなかったその存在が出てくる世に生まれるなんて、運が悪いでは言い表せない。
平穏なんて、ほど遠い。通常召喚士として生きていくより、何倍どころか何億倍もの危機がやってこようとしている。
自らの人生への心からの嘆きと、共にここにいるしかない聖獣への撫で撫でが止まらない。
『お前は……』
「……あれ?」
急に、自分と契約した聖獣に対しての申し訳なさが積もっていたとき、セナは足を止めた。
それまで考えていたことが、一旦ぽんと飛ぶような存在を見つけたのである。
「あの人」
例の少女だ。
セナより少し年下かなと思うくらいの少女だ。制服を着てしまえば、特別目立つ外見はしていない。
だけれど「あ」と気がつけたのは、彼女以外に人がいなかったからだ。
一人の少女は、窓の外を見ているようだった。
じーっと、外に何かあるのかというくらい見ていたが、セナの視線を感じたのか、顔が動きこちらを向く。
そして、目が合った。
ここで、一人で何をしているのだろう。
道に迷ってしまったのだろうかなどと具体的な思考は二の次で、何だか単純に話してみたくなって、セナは止めていた足を動かした。
『……セナ、近づこうとするな』
ポケットから思わぬ注意が飛ばされて、目を向けると、小さな猫が三角の耳から目までだけを覗かせる形で顔を出しているではないか。
「どうして?」
『得体の知れないものには無防備に近づくべきではない。どうかなるかもしれないだろう』
「どうかなるって」
とても漠然としている。
大体、この猫はそんなことを気にするような性格だったろうか。
でもそういえば、天使の剣が使用された場にいた聖獣がギンジ含め、それぞれあの少女に反応していた。ベアドはもぞもぞすると言っていた。
セナ自身も、未だに謎に満ちた光景を始めとし、覚えている感覚がある。
彼女に直接聞けば、何か答えてくれて、何かすっきりするのだろうか。
しかし聞くと言って、どう、何を聞くというのだろう。
「……あれ……?」
考えながら前方に向き直ったら、少女はいなくなっていた。
「行っちゃった」
いつの間に。
彼女がまだいたとして、すぐに話しかける具体的な文言が思い浮かんでいたわけではなかったのだが、ああ……、と思った。
「……」
ギンジが炎が近づいてきているのは事実だと、炎火の白魔を言い表していると思われるように、彼女も何か感じ取ってでもいるのだろうかと、なぜか、そんなことを思った。
「……そんなこと、あるわけないか」
ギンジやベアドは聖獣だから、悪魔の類いに敏感なのだろうし。
そんな聖獣が、少女に反応していた事実がある。
「ギンジは、あの人に何かを感じたの?」
『何かはな』
「何かって何?」
『私にも分からん』
分からないときた。
「ベアドにも聞いたら、分かるかなぁ」
見つめる廊下の先には、少女の影さえない。
何気なく、彼女が見ていた外の方を見ると、白魔が近づいてきているとは思えないほど穏やかな空模様が広がっていた。
「セナ」
春色の穏やかな空模様を見上げ続けてしまっていたら、名前を呼ばれた。
「ヴィンセントさん」
振り向くと、ヴィンセントが思ったよりも近くにいた。
「あ。戻るの遅くてすみません」
立ち止まって、呑気に外を眺めている場合ではなかった。
「いや、それは構わない。俺は単に通りかかっただけであるし。ただ……君があまりに微動だにしていなかったから、立ったままどうかなっているかと思って声をかけた」
「どうかなって……?」
状況は違うが、さっき、ポケットの中からかけられた言葉に似ているような。
妙な気に仕方をするなぁと思うと共に、ヴィンセントにはそう思われる様子に見えたのだろうかと思ったので。心配されるようなことではない、ただこうしていたのだと伝えておくことにする。
「風が温いのは、こんな北の地にも春が来たのか、白魔の影響なのかどっちなのかなぁって話してました」
元々は、そんな話をしていた。
それを聞いたヴィンセントが、窓の外を見る。
「春であればいいな」
この言い方は。
ヴィンセントも異なる方だという見解なのだ。
だからセナは「そうですか」と言った。
建物の中にいて、特に今いる場所は知らせがもたらされる会議室ではないから、とても静かだ。
未知の危機が近づいているなんて、実感という実感が湧かない。それでも、白魔が近づいてきているのは事実なのだ。
「そろそろこちらから出るかもしれない」
「白魔を探しにですか」
「そうだ」
ここで迎え撃つとは言うが、実際現れるのを待っているわけではないようだった。それではどうしても万全の体勢で臨めないからだろう。
万全に、自分たちのタイミングで仕掛けるのなら最後はこちらから出向いていくのが良い。
「そのときになっても、君は従者を辞めないのか」
窓ガラス越しに空を見上げていた目を、室内に戻した。横に。
「このタイミングで辞めたら、完全に逃げてますよね」
「君はそれが悪いと思うのか」
悪いかどうかは分からない。
「さすがに白魔ともなれば、家柄関係なしに新人が関わる域を越えすぎている。有すると思われる力からして、パラディン以外が近づくのは妥当ではないのは明らかなことだ。だから離れることも離すこともどちらも常識と言える」
やはり彼は、客観的に見た判断の適当さを口にした。
「ヴィンセントさんは、白魔でも怖くないんですか?」
セナは尋ねた。
セナ自身が離れるかどうかは、ヴィンセントがそうは言ってもセナが決めることではないだろう。指示があれば、それに従う。
魔獣でさえ恐怖の対象なのに、白魔に近づきにいくかもしれない今、妙に落ち着いている。怖くないわけではない。怖い。だけれど、具体的な恐怖の大きさが定まっていない。
「今のところは」
返された言葉に、さすがとしか思いようがなかった。ライナスと言い、パラディン級になると恐怖という感覚がそもそもないのではという疑惑さえ生まれてくる。
けれど、続きがあった。
「だが、もしも白魔に自分が敵わないという事実が出来てしまったら。俺は、どう感じるのかは分からない」
悪い方の未来予測を語りつつも、言葉に淀みがない。
「危機的状況に陥って、俺が君を気にかけられる余裕があるかも分からない」
「──いやいや、そのときは白魔にだけ集中しててください。パラディンの仕事は悪魔対処じゃないですか」
意識を裂かせるのは、完全なる足手まといだ。
慌てて言うと、ヴィンセントが何度か瞬いた。そして、「……確かに」と言う。
何やら首を傾げているヴィンセントを、セナはじっと見つめる。
様子に変化はないとは言え、これまでの情報から総合的に判断したことかもしれないが、ヴィンセントもそんな万が一を考えるのだなぁ。
「天使の剣の使用って、まだ明言されてませんよね」
「そうだな。メリアーズ元帥は提案者だから推しているのは当たり前として、エベアータ元帥は賛成を口にしていない。……現時点でエベアータ元帥は、どのようにするつもりなのだろうか」
「ヴィンセントさんも賛成はしていないですよね」
セナの記憶が正しければ。
「ああ。賛成してしまうには、開示されている情報があまりに少ない。例えば、あの少女はどういう経緯で見つけ出されたのか。今の状況でも、天使の剣を使用できる事実だけがあればいいのではないだろう。情報を渋っている気がする」
そう感じることがよくない予感を含んでいるのだと、ヴィンセントは言う。
「ライナスが口を開かないのも気になる」
何か思うことがあればズバズバ言ってのけそうなライナスが口を開いていない。
あの日以降、会議以外でもそうで、その話題には特に何も言わない。笑顔も見ていない気がする。
「ライナスさんも、賛成はしてなかった……ですよね?」
「していないな。ライナスは何か知っているのだろう。メリアーズ家の人間であることもそうだが、知らなければ最初の段階であれは何だと問うような性格だ。知っていて、賛成しないのであれば当然何かライナスが賛成しない理由が存在することになる」
なぜ、ライナスは話さないのか。
話せない、のか。
「大事なことなら、情報開示の義務とか、そういうのないんですか?」
「通常ならそういう圧力もかけられるだろうが、現状ではメリアーズ元帥の方が──メリアーズ家の方が有利だからな」
「有利……」
「天使の剣は現状白魔と対等であれる唯一の武器だ。白魔が迫る今、謎な部分が多くとも使わない方向には行かないだろう」
確かに。
白魔に対等であれるのは、天使だけだということを最近よく聞く。
最高戦力であるパラディンをこの場に五人集め、ガルは、エド・メリアーズが持ってくる武器の内容次第では全員集めることを考えていた。
教会の通常の戦力では白魔と対等に戦えない。だから白魔が出てこれば人間世界は滅びるという言葉があるのだ。
そこに、白魔と対等であれる天使の剣を扱える者が現れたとしたら、使わないわけにはいかない。不確定な勝利を、確定に大いに傾ける。情報が開示されなくとも、だ。
有利とはそういうことか。
何だかきな臭いような、随分厄介そうな雰囲気を感じた。
「天使の剣を使おうが使わまいが発つ時に変わりはないだろうが、もう時間がどれほどあるかも分からない。そろそろ決められるだろう。──仕事に戻るか」
「はい」
今話したこと全て、どうにか手を加えて変化させられるものはほとんどないに等しい。セナにも、ヴィンセントにもだ。
白魔は来る。天使の剣はほぼ100%使われる。情報の開示は強制できない。
春を、迎えられるのだろうか。
この地は、自分は、そして全ての地はこれからの季節を迎えられるのか。全てはこの地で決まり、自分はその渦中にいる。
横を向くと、ヴィンセントの背中が見えた。白魔に敵わない事実が出来てしまったなら、どう感じるか分からないと言っていたが、現在はやはり揺るぎない背中だ。
自分も怪我をしないようにと思い、願うけれど、ヴィンセントも怪我をしないで済めばと思う。想像が出来ないこと以上に、ライナスの重傷の姿が頭を過った。
「セナ?」
ヴィンセントの背中を見ていると、彼が振り返った。
「どうした」
言われて、返事したくせに歩き出していなくて、ヴィンセントが意外と遠くにいることに気がついた。
「何もないです。今行きます」
すみません、と慌ててヴィンセントに追い付くべく走っていく。
「セナっ」
走り出したセナの背に、大きな声がかかった。
女の子の声だ。幼い、通りのいい、可愛い声。
思わず足が止まって、振り向いた。聞いた声に、頭が追い付かなかったから、
「……え?」
振り向いて見た光景にも、頭が追いつかなかった。