2 彼は怒っていた
ひらひら、と、一時なくなっていた右腕を振って去っていくライナスの姿が見えなくなった。
「ライナスさん、強すぎる……」
歩き出しながら、セナは呟いた。
あの人は、強すぎる……。
片方の腕がなくなり、酷い火傷を負い、全て含めてあれほどの血が出るほどの深手を負っていた。
痛みがどれほどか想像がつかない。
精神力の強靭さの想像がつかない。
怪我が治ったとしても、どのように考えればあのように笑えるのか。
彼と比べるのはおこがましいとは思うけれど、自分があまりに情けない気がした。
「……ギンジも腕くっつけられるの?」
『出来ない』
召喚獣が常に側にいることを失念して声に出していたため、誤魔化すようにした質問には即答が返ってきた。
『だが私なら、そもそもお前の腕が飛ぶなどという事態にはしない』
会議室に戻ると、ヴィンセントにライナスと会ったことを伝えた。
「部屋から出歩いていたのか」
「はい。従者の方に連れ戻されて行きましたけど」
セナはライナスと会ったときのことを話した。
「……なんて言い方するんですよ」
最後に火傷が残ることについてのライナスの言い方を話した。
「わざとだろうな。ライナスも責任を感じているのだろう」
「責任、ですか?」
ヴィンセントが頷く。
「ライナスはパラディンだ。パラディンは前線に出る身としては最高戦力、負けてはならない壁だ」
どのような悪魔であれ倒すのが当然だと、同じようなことを聞いたのはライナスからだったか。ヴィンセントからも聞いていたか。
最高階級の中での地位としてはパラディンの上にまだ一つあるけれど、パラディンとは前線に出る最高戦力だ。
今回ライナスに起こったことは、前代未聞なのである。
「悔しくもあり、憤りさえありながら、情けなくもある。情けなくもある、はライナスの性格上限りなく怒りに近いものになっていそうだがな」
彼は、笑う裏で自らに怒っていたのだろうか。
敵わなかった敵に途方に暮れるでも、恐怖するのでもなく、敵わなかった自分にただ怒っているのか。
ライナス・メリアーズはそのような人なのだ。
「ライナスさんが敵わなかった悪魔、白魔だって考えられているんですよね」
「ああ。ライナスと契約している聖獣が肯定したようだ」
いつにも増して姿を消して沈黙している獣が肯定したと言う。
「……白魔って、伝説上の悪魔なんですよね」
「そうだ。だがいない存在ではなく、これまで出てきていなかったという存在だ」
「その悪魔が、なぜ今になって出てきたんでしょう」
「なぜ今になって出てくるのかは考えても仕方ないが、今まで出てこなかっただけ、と言えるものなのかもしれない。存在自体は伝説上であっても、聖獣が肯定し、ライナスがあれほどやられたという事実がある今疑いようがない」
そう、そんな悪魔をどうやって倒すのだろう。パラディン級が何人か集まれば、可能なのだろうか。
でも倒せるのかなんて聞くのは憚られて、口にはできなかった。
「しかし……ライナスがやられて大人しくしているはずがない。元々大人しくしている方ではないからな。怪我があらかた治ったとなれば、第一線に出せと騒ぎ出しそうだ」
ヴィンセントの予想は、早くも翌日当たった。
会議室にてヴィンセントは本部からの急ぎの知らせに目を通していた。
本部からの荷物、封書は人によって運ばれることもあるが、馬よりも早く届けたい場合は鳥が使われる。
今回のものは、鳥によって届けられていた。一体何が書かれているのか。
セナが傍らにいながら気になっていると、医務室から人がやって来たのである。
「ライナス」
ライナスの部屋に向かうと、彼は制服を着て、聖剣を抜いていた。抜き身の刃を見ていた目が、ヴィンセントの方を見る。
「君はまだ出るべきではないだろう」
「それを今ここで決められるのは俺自身だ」
「怪我は」
「治った」
「骨もか」
「腕が繋がったんだぜ?」
右腕を上げて、ライナスが笑う。
「繋がった原理は分からないが、聖獣の力を借りたと言うのなら腕のみ重点的に治したということもあり得る。君の召喚獣もまた怪我をしていたと聞いた。その状態ならなおさらだ」
ヴィンセントは誤魔化されなさった。
同僚であり友人の言葉に、ライナスは「面倒だな」とでも言いそうな表情をした。
ふっと息を吐いてからの表情は、凪いでいた。
「完治はまだだ。だが治りは早い。動ける。戦える」
「それでもまだ、少しだけ安静にしているといい」
「俺が動ける状態の方が助かるだろ。追加の人員が来るまで、上位の悪魔を警戒できる人間はまだ足りてないはずだ」
それは正論だった。
ヴィンセントは数秒黙し、「分かった」と言った。ライナスの考えが揺るがないからだろう。
そしてライナスの言った通り、彼の行動を決められるのは今ライナス自身しかいない。
本部からはライナスがまた件の悪魔を見つけに行くことはないようにとされているが、ライナスに絶対安静との指示は出ていない。
傍らで聞いていたセナは、いいのか、と思ってヴィンセントを見た。途中の言い方では、ライナスの怪我は完治していない。当たり前と言えば当たり前だ。まだ、一週間程度しか経っていない。
だが、ヴィンセントの目は真っ直ぐ迷いなかった。
「……なまじ理解があると、止めてくれませんか」というぼやきが、ライナスの従者から聞こえた。
「自己責任だぞ」
「ああ。……元々俺はじっとしてられねえ質だが、今はもっとじっといてられねぇ。俺は負けた──それが腹立たしくて仕方ねえんだよ」
あ、と思った。
ライナスの橙の瞳に、静かに怒りが宿っていたのが今はっきりと分かったのだ。
「本当、腹が立つ。一刻も早くまたあの悪魔を探しにいきたいが、腕を吹っ飛ばされた俺が一人でどうにか出来るかと言えば怪しい。怪しいと言うより、現状無理だ」
怒ってはいるが、自分と自分がやられた悪魔について客観的に見ている。
「一応聞くが、落ち着いているな? くれぐれも魔獣や魔物退治に無闇な八つ当たりはなしにしてくれ」
「分かってる。俺はガキか。……俺としては、ラヴィアが大人しくしているようで、落ち着きがねえのが気になるけどな」
「聖獣がか」
「ああ。今相手がいねえから、仕方なく大人しくしてるみたいな感じだな」
「君と同じだな」
「うるせえ」
しかしライナスは気がかりそうな目をしていて、ヴィンセントも言ったものの思考するように目を細めた。
「あと一番真剣な話、あの悪魔をどう倒すかは問題だぞ」
「これから戦力が集められる。数ではない。質だ。他のパラディンも来る。その上で考えることになるだろう。指揮のため、元帥も来ることになったようだ」
ヴィンセントが、ライナスに一枚の紙を差し出した。今日さっき届いたばかりの本部からの知らせとセナには分かった。
今、本部がどのような動きになっているか分からないけれど、早急に戦力が投入されることになっているように深刻視はしているはずだ。
そしてその深刻視の度合いはかなり高いと、今のヴィンセントの発言からも改めて分かった。
元帥とは、最高階級の最高位だ。つまり、実質教会トップの人たち。
パラディンと違って、元帥は本当に本部にしかいないはずが、派遣されてくるという異例の事態をヴィンセントは口にしたのだ。
「政府で政治が仕事になったおっさんと爺共が腰を上げるか」
「君もいずれそうなるんだぞ」
「はははっ、確かに!」
声を上げて笑ったのは一瞬で、ライナスは紙に視線を落としながら「で? 誰が来るんだ」と問うた。
そこでなぜかヴィンセントがちらりとセナの方を見たので、セナは首を傾げる。
「ガル・エベアータ」
「え」
耳にした名前は、この世界でセナが最も聞きなれたと言ってもよい人の名前だった。
しかし、元帥?
──どうやら、今度はいつ会えるか分からなかった養父との再会は、意外と早くやって来るらしかった。