24 雪の中
落ちている最中も、落ちるのが終わった後も、死ぬのかなと思った。
何しろ体を何度も打って、最後に仕上げみたいに全身を打ったのだ。
衝撃と痛みのせいで、落下が止まったと認識するのにしばらくかかった。
空が遠い。
景色がぼやけている。
起き上がれる気がしない。
腕が折れている、脚が折れている、全身の骨が粉々になっている……絶対にそうだと思えるくらい体中が痛い。
意識が痛みに染められながらも、どこかぼんやりとしている中、おかしいなぁと思った。
土の塊だか石だかが降ってきて、地面にぶつかる光景の中にいつからか、白いものが混じってきたのだ。
白いものは石と違って止まらない。
雪だ。春に向かっていく季節で、ここのところ雪は止んでいたから、もう降らないのだと思っていたのに。
幻覚かな。
極め付きに大きなものが降ってきたので、これは幻覚であってくれた方がいい……。
「生きているか!」
落石だと思われた『大きなもの』は、人だった。
その人は、倒れているセナから少し離れたところに着地し、駆け寄った。
「無事か」
「ヴィンセント、さん……?」
「そうだ。分かるか」
声と、ぼんやり見える顔で何とか。
あの左右色違いの目が見える気がして、自分の声を認識すると、靄がかかかっていた頭が晴れてきた気もした。
「無事で良かった。落ちたときにはどうなったかと──いや、怪我の有無から言えば無事とは言えないか。……この分では体中打っているだろうが、頭も打っているな」
ヴィンセントが、セナを支え、ゆっくりと身を起こさせる。
その拍子に、つー、と何かが額から垂れ、ぽとりと落ちる。
落ちた先を何気なく視線で追った先で、片方の脚が血まみれで目を疑った。
瞬間、頭と視界がぐるぐるして、ぽろりと目から何か落ちた。
「どうした」
ヴィンセントが制止したのが分かった。それどころか、こちらを凝視する。
「どうしたって……?」
「君は──泣いている」
自分は泣いているのか。
これは、涙だったのか。
目から出てくるものなんて、一つしかない。言われて気がつくのは遅すぎた。
自覚すると、焦る。
「す、すみません。びっくりして。それ、だけで」
こんなに血を見るのは初めてで、痛くて痛くて、だから。
「大丈夫、です」
自覚した涙をぐっと堪えて、それ以上流れるのを強制的に止めるために拳で拭おうとする。
「いっ──」
腕を動かすと、奥まで響く痛みが走った。
「……ひとまず、怪我の手当てをする」
ヴィンセントは、セナをもたれさせ、頭の具合から診始めた。
「いえ、それより……」
それより、何か、忘れているような。ここでこうしている場合ではないような。
痛みを伴う頭を回していると、そんなに考えなくても思い出せという事項を思い出した。
「悪魔は」
「問題ない。倒した」
当然のように言われて、さすがとしか言いようがない。
どれだけ自分はここで動けずにいたのか。単にヴィンセントが倒すのが早すぎたのか。
「……あ、馬……」
馬に乗っていたはずだ、と、時系列ばらばらにも記憶の断片を思い出した。
「あちらに倒れているのが見えた。おそらく運良く生きていたとしても、死なせてやった方がいい怪我をしているだろう。君がこれだけで済んでいるのが奇跡だ」
研修からの相棒だった馬が……。申し訳ない気持ちが満ちる。
セナが俯きかけたとき、ふと、ヴィンセントの動きが鈍る。
「雪か……?」
今、降っているのに気がついたらしい。
そして幻覚ではなかったようだ。
「少し移動する」
「ある、歩きます」
「俺が運んだ方が早い」
たぶん脚は骨折していないことは感覚で分かったから、歩こうと思えば歩けるはずだが、そう言ってヴィンセントはセナを抱き上げて場所を移動した。
岩が突き出て、雪を遮ることのできる場所があったらしい。
「すみません、手間、かけて」
「怪我をした人間を手当てするのは当然だ。戦闘中であれば無理を強いるかもしれないが、今大きな影響を与える悪魔は対処した後だ」
「意識ははっきりしているか?」と聞かれて、頷いた。大分はっきりしてきた。
「……ここ、悪魔の力で出来たんですか?」
こんな落ちる場所なかったはずだ。
今の状態に至るまでの全ての記憶がやっと甦ってきて、呟くように尋ねた。
「そうなる。……確か、悪魔を見たことはないと言っていたな」
「はい」
初めて見た。その『異形』の姿を思い出す。
「腕は折れるまではいっていないが……怪しいな」
そう言い、ヴィンセントは手早く取り出した布で腕を吊るす。頭はとうに止血がされていた。
「新人の場合は確率が高くなるが、魔獣に殺される聖剣士や召喚士は少ない。余程の群れに不意討ちされたときくらいだ。魔物に殺される人数は当然魔獣と比べると増える。そこから死亡数が格段に跳ね上がるのが、悪魔の出現時だ」
頭から、異常が見えた腕。今は脚の具合を確かめながら淡々と語られる。
「悪魔には階級があり、力は様々だ。だが必ず全てが魔物よりも強い。こういう風に地面を容易に深く抉る悪魔は珍しくない」
忠告だと思った。
事実を語る忠告。だが決して辞めた方がいいとか、この前のように辞めるのも一つの手だということは言われなかった。
「……以前に、ヴィンセントさん言ったじゃないですか? 辞めるのも一つの道だって」
「君は辞めないと言った」
「はい」
きっと、向いていないと思われているんだろうと思う。
さっきは不覚にも泣いてしまったし。そもそも自分でも向いているとは思っていない。
「魔獣は怖いです。魔物も怖いです。さっき初めて悪魔を見て、怖いって思いました」
怖い。怖いとも。怖すぎる。魔獣とか、魔物とか何だあの生き物は。悪魔は何だ、あの発している空気は。
人間に武器を向けられるのもきっと怖いだろうけど、そんな経験はない。
見た目から怖い生き物に襲いかかられるのはかなり怖い。
「でも、魔獣達に抗う方法がわたしにはあります。いくら怖くても」
わざわざ前線に出るのだとしても。
「わたしは、現在の父と取引をしました」
「エベアータ家の当主とか」
「はい。わたしが生きるための取引です。わたしは現在の父に引き取られるまで孤児院にいて、生きていく術を持たない子どもでした」
魔獣に襲われることなく、普通に暮らせたとしても、将来生きていける光景が見えなかった。
「父はわたしに生きるための術を与えることを約束し、約束は果たされました。もしも、エベアータ家の跡継ぎの問題がなくなり、ガル・エベアータという人がわたしに用がなくなっても、わたしはこの仕事を続けていくのだと思います」
「君が、生きるために唯一知っている方法だから?」
「はい。……散々弱いことを言っておいて何を言っているのかと思うかもしれませんけど、わたしは将来安泰が欲しいんですよ」
この世界で。
「死にたくないっていう思いもあって、自分でこの仕事を選んだんです」
それなのに今は前線にいるという矛盾が起こっていそうで、起こらないのだ。
魔獣の出る可能性のある町に居続けて、魔獣に襲われて死ぬ可能性を考えると、抗う方法を手に入れている今の方がずっと強い。
セナの言葉を聞き、少しヴィンセントは黙った。
「……それにしても、パラディンの従者になるのは、新人のうちでは危険度が高すぎないか?」
「それは、まあ……」
「結局俺が続投させているせいもあるか」
「何言ってるんですか。ヴィンセントさんは外れるかって聞いてくれて、わたしがやらせてくださいって言ったんじゃないですか」
おかしなことを言う人だ。
笑うと、ヴィンセントは一瞬手を止めた。
「君は、それでも笑えるんだな」
「あ、すみません」
こんな状況で。
ヴィンセントはそこを気にしたようではなかった。
しばらく黙々とセナの体の残りの状態を確かめ、「とりあえずはこれでいいだろう」と言った。
「ありがとうございます」
「当然のことだと言っただろう」
それならお礼も当然のことである。
「立てるか」
「はい」
慎重に立ち上がって、軽く足踏みをして脚の感覚の具合を確かめてみる。
大丈夫そう。
「セナ・エベアータ」
「──はい」
急にフルネームで呼ばれて、背筋が伸びた。
足元を見下ろしていた目を上げると、ヴィンセントが色違いの目で真っ直ぐにこちらを見ていた。
「君は、俺やライナスのようにはなれそうにないと言った」
「はい」
「それが新人である現状から生じる感覚だという可能性を抜きにしても、なれなくともいいだろう」
「え……?」
セナがわずかに戸惑う声を出すが、ヴィンセントは発言を撤回しなかった。
「俺とライナスだって、戦う術が異なる。強さが異なる。そもそも君は召喚士だ。召喚獣が強ければいい。それでも君自身が強くなければいけないと言うのなら、君はもう十分に強いと俺は思う」
どこが、とセナ自身は思う。
「怖がりながらも、絶対に逃げてはならないと覚悟し、断言する人間は中々いないだろう。……それが君を追い込むことにならないようにと願うが」
後半は小さく呟くように言ったヴィンセントは、真っ直ぐにセナを見て最後にこう言った。
「死にたくないなら喜ぶといい。少なくともここでは死なない。俺が死なせない」
その言葉を最後に、目が離れた。
セナはその横顔を見たままだった。
不思議な人だ。
進んで従者となった新人なんて、その内慣れると放っておいてもよさそうなものなのに。
ヴィンセントは全ての言葉を本気で言っている。元々冗談を言う性格ではないようで、こんな状況ではなおさら冗談を言えるような人ではない。
率直な言葉の数々が、単に淡々と客観的な観点からの事実を述べているように感じさせられる雰囲気を持つ一方で、不思議な心地を抱かせてくる。
真面目に頷き返したくなる心地があって、でもパラディンという人が不思議だなぁとふっと笑みが零れそうな心地があって。
それからこういう人になりたいなぁと漠然と思う心地があるのは、悪魔の前でさえ毅然と立つ、常人と一線を画する背中を一番見てくることになったからかもしれない。
そのどの心地に身を委ねれば分からなくて、率直な言葉が少し照れ臭くて。
セナは、ヴィンセントの横顔から視線を外して、彼が見ている方と同じ方向を見て、笑ってみた。
「じゃあ死なないように頑張って……頑張ってもらうのは召喚獣ですけど、わたしも動じないようになって、満を持してパラディンを目指そうと思います」
「パラディンか。──そうやって、すぐに前を見据えられるところが、失礼だが見た目からは想像外の君の強さだと言うんだ」
「え、見た目弱そうに見えてるってことですか?」
「失礼なのは重々承知だが」
「えぇ……やっぱり筋トレするべきかな……」
前にも、ギンジに似たようなことを言われた気がする。
弱々しいとか。何でだ。今転げ落ちてボロボロだから余計に?
「……まず肉体改造から始めることにします」
「体が頑丈であると便利だからな。……しかし雪が酷いな」
「確かに酷いですね」
少しの間に、世界は真っ白くなっていた。
雪が尋常ではないくらいに降っている。
「ここに留まっている選択肢はない。降りるときには特に使わなかったが、ロープを下ろしてある」
それで上がるらしい。
「妙な雪だな……」
「異常気象ですね」
「そうではなく……感覚的な話だ」
そうして、いざ酷くなるばかりの吹雪の中へ……という前に、ヴィンセントがまさに一歩出ようとした足を止めた。
「そういえば、聖獣はどうした」
「結局呼ぶ前に落とされてしまったので、呼べず終いでした」
「そうだったな。それにしても、他に指示がなければ敵がいなくなれば自主的に戻って来るのだと聞くが……」
戻ってきていない。まだ戦っているのか、それとも……。
「召喚獣なら、呼び掛ければ契約者の元に出てくると聞く。呼んでみるのが早い」
「呼んで、みます」
まさかを頭から振り払って岩陰から出た。
崖の上を仰ぎ、思いっきり叫ぶ。
「ギンジー!」
「いや、実際の声を届ける要領ではないから、そこまで声を張らなくともいいと思うが」
そうなのか。恥ずかしいことをした。
召喚士であるセナより、年数の功でヴィンセントの方が色々知っているようで、初めて知ったのだ。
今まで真っ直ぐ帰って来ていたので、こういう事態に見舞われたことがなかった。
では今ので出来ているのか。ベアドのように、召喚陣が生じてそこから出てくるのかな、と周囲を見る。
そういえば、ギンジはいつもポケットの中に入っていたりと側にいるから、そういう風に出てきたところを見たことがない……。
吹き付けてきていた雪の動きが、ふっと緩んだ。
あまりに突然弱まって、雪のスピードも格段に弱まって、一瞬時間が止まったかと思った。
おや?と思って空を見上げていたら、
『セナ』
「──ギンジ!」
猫が降ってきた。
慌てて手を差し出して、受け止めた猫は雪のように重さを感じず、軽かった。
「良かった、戻って来ないから何かあったかと思った」
急いで小さな体を確認するが、白い毛並みには汚れ一つなく、怪我もなさそうだ。
『それはこちらの台詞だ。どこを見ても姿がなかった』
「ごめん」
『──セナ』
猫のつぶらな瞳が、セナを見上げる。
『随分……汚いな』
「ここに落ちちゃって」
その過程で。
『落ちた』
猫は復唱したかと思えば、手からするりと抜け出して、肩に乗って、セナのことをじろじろ見る。
『死にそうではないな?』
「全く」
『そうか。それならいい』
気が済んだらしく、猫は肩から、ポケットの中に飛び込んだ。
「あれ? 雪、降ってない」
雪は、いつの間にかやんでいた。