4 旅立ち
半月後から新しい生活が始まる。ノアエデンからも出ていく。
それらのことに実感は湧かず、見知らぬ場所での召喚の儀式という非日常を挟み、セナはノアエデンで変わらぬ生活を再開する。
いや、召喚の儀式を経て、明確に変わったことがあった。
『召喚した聖獣はどうしたんだ?』
「ギンジはいいって」
『へぇ』
どこからどう見ても白猫の聖獣は、セナの部屋のベッドで丸くなっている。
無理矢理連れてくるのはよくないので、セナはベアドと精霊の森に来た。
森にある特別な泉の周りは、いつでも花で満ちている。
「セナがいなくなるなんて嫌!」
のどかな花園に、悲痛な声が響き渡った。
エデである。
彼女に、半月後にはノアエデンを出ることになりそうだと話したところの第一声だった。
「領主に直談判してやるんだからっ」
直談判なんて難しい言葉知ってるねぇ、となるが、精霊はかなり長生きだそうなので、本当に子ども扱いは駄目である。
それはそうと、今にもガルの元に飛んでいきそう。
「エデ、決まっていたことなんだから」
しかし、こんなときには必ず彼女を嗜める存在がいる。ノエルだ。
少年の姿の精霊は、淡々と、諭す口調で少女に言う。
「セナと領主との問題でもある」
とか何とか、いつものごとくノエルがエデを納得させようとしている傍ら。
『俺も、行かせたくない気がするなぁ』
予想外の声が言った。
「ベアド?」
ベアドが言ったの?と、白い獣をまじまじと見ると、ベアドは目を閉じる。
『俺はセナが魔獣に襲われかけてるところしか見たことがないからかなぁ』
「嫌なこと思い出させないで」
『事実だぞ』
その通りなのだが。
『心配だなぁ』
「親みたいだな」
『親? ああ、セナにとってのガルの位置だな』
こちらはこちらでそんなやり取りをしていると、近くの精霊同士のやり取りも、ノエルさすがの手腕で幕が閉じそうだった。
「……酷い。結局一日五時間なんていう制限もずーっと取れなかったのに」
「エデが家に押しかけていたじゃないか」
「遊びに行っていたの! もうっ、領主なんて、領主なんて、嫌いになれないけど、色んな意味で大嫌い!!」
「エデ。残念ながら、忘れてはならないことがある。そもそもセナを連れてきてくれたのは、領主だ」
「……っ。──!」
「まあまあエデ」
本日、いつにも増してエデの感情の起伏が大きくなっている。
まあまあと言って、ベアドがいるのとは反対の隣を叩いてみると、何か爆発しそうだったエデが素直に座る。
「あのね、エデ。ここに来るたびに綺麗な花が咲いてて、わたし嬉しかったよ。ノエルが、エデがわたしのために毎日咲かせてくれてるって聞いて、もっと嬉しかったよ」
「……やだ、セナ、お別れみたいなこと言わないで」
おっと。日常的に言うべきだったか。
ノエルから、エデがこっそり準備していると聞いていたから、この機会にでもと思ったのだけれど。
怒っていたエデが、今度は泣きそうになって、セナはうろたえる。
違う話題、違う話題。これは自分でまいた種なので、ノエルに頼らず自分で回収するべきだ。
「……ずっと思ってたんだけど、この花、もしかして食べられたりする?」
食卓に出ることの多い、食べられる花を思い出してのことだった。
我ながらひどい話題推移だったが、エデが機敏に反応する。
「食べたいなら、とびきり甘い花を咲かせてあげる!」
「いや、そうではないんだけど」
一言遅く、エデがぽんっと花を出して、こちらに差し出す。
見事な花は、話題上完全に食べられるらしい。せっかくなので、もらって食べてみた。飴のように甘かった。
美味しいと言うと、エデがぱあっと笑顔を咲かせたから、結果的に良かった。
こうしてここで、精霊とのんびり休憩できるのもあと少し。ふと、そんなことを思ったけれど、エデの手前口にはしなかった。
花びらの甘さは、森から出るまで舌に残っていた。
*
四年お世話になった家を出ることは、寂しくないと言えば嘘になる。
この世界に来て、初めて、何の危機にも怯えなくていい場所だったからだ。
けれど、この世界に来た当初厳しい環境に置かれていたから、ずるずると引きずるような過剰な寂しさも感じなかった。
ああ、今度は一人暮らしか、なんて。
自分でも意外だった。
「よく似合っています」
制服を身につけたセナに、ガルは少し目を細めた。心なしか、学校の入学式で、新たな制服を身につけた子どもを見るように。
半月は、いつもよりあっという間だった。
「お父さん」
「何ですか」
「もしも今度外でお父さんに会った場合、わたしはお父さんを何て呼ぶべき?」
「『お父さん』では?」
「いや、駄目でしょ」
辿っていくと上司になる可能性もあったり、そもそも階級の差があるはずだ。
ガルは首を傾げた。
「そうですね、ここは妥協して『ガル』と呼んでもいいですよ」
「じゃなくて……」
「冗談です。そうですね……。私はセナの父であり、先生にもなりましたから、『先生』でどうですか?」
なるほど。
「先生」
「少し、くすぐったいですね」
そうかな、とセナは思った。
セナには、ガルはお父さんよりは先生の方が合っている気がしなくもなかった。外見が若々しいからか。
「忘れ物はありませんか?」
「ないとは思う」
「服は充分に?」
「うん。まあ、なくても制服があるから何とかなるでしょ」
ガルが片眉を上げた。
「ハンカチは?」
「あ、持ってない。けど、たぶん荷物の中に入れたと思う」
服とか下着とか一式放り込んだから、入っているのではないかな。
と、言うと、ガルが上着の中に手を入れて、内ポケットから何かを取り出した。
「ハンカチくらい持っていなさい」
「おわ、ありがとう」
高そうなハンカチを渡された。エベアータ家の紋章がしっかり縫われたハンカチ。
『ガル、お前、セナが家を出るときになるとそれかよ。召喚に行かせたときはさっさと行かせて、召喚成功も喜んでたくせに。大体、お前そんなに心配性だったか?』
「心配性? いえ、そんなことはありませんよ。今こうして問うているのは、忘れ物をしても取りに帰ることが出来ないからです」
『いや、それ完全に…………無意識かよ』
ベアドは息をついて、地面にゆったりと座った。
ガルも不思議そうだったが、セナもベアドの様子に首を傾げていた。
『困ったことがあれば、ガルに手紙でも送り付ければいいさ』
「そうですね。何かあれば手紙でも書いてきて下さい。些細なことでもいいですよ」
「分かった」
しかし手紙とはどう書くものだったかな、と何気無く思うが、思い当たらない。
当たり前だ。書いたことがない。
「……」
「セナ?」
「何でもない。じゃ、そろそろ行くね」
「……ええ」
改めて、ガルに向き合う。
──四年前、わたしを拾い、環境を与え、育ててくれた恩人。そして、養父。
時が止まったように、老いが見られない彼は、出会ったときのまま。
対して、セナは背が伸びて、髪も伸ばした。
『セナ、気いつけてな』
そして喋る動物もとい、聖獣の豹。
「お父さん、ベアド、行ってきます」
「いってらっしゃい、セナ」
彼にはやっぱり寂しそうな素振りはなかった。
途中からお父さんと呼んできたけど、親子の関係にはほど遠かっただろう。
彼は子育てなんてしたことがなかっただろうし、セナはかつての家族の記憶があって父と接するには違和感があった。
だから、距離感的にも、先生と生徒のほうがずっと合っていたのかもしれない。
そのことに気がつき、ちょっぴり寂しさを感じながら、セナは聖獣を連れて、エベアータ家を出た。
「そういえば、寂しい、とはこのようなものでしたか」
セナの背を向けた方では、ぽつりと呟く声があった。