11 戦えない者、戦える者
泉に揺らいでいた足が地を踏みしめた。
「……セ、ナ……?」
突然のことに呆然と動けずにいると、誰かがセナの名を呼んだ。
誰か、ではない。
この声は。
「ルース!」
さっきまで泉越しに見ていたルースがいた。
彼の水色の瞳から、涙が一粒零れ落ちた。
「大丈夫!?」
安否確認をしながらも、正直状況を飲み込めていない。
ぱっと見た限り、森だ。だが精霊がいるノアエデンの森ではない。
森から森へ。どういう理屈か、ルースの元に瞬間移動したらしい。
泉に落ちた記憶はあるが、衣服は濡れておらず、足だけが濡れて、裸足のまま。あの泉も、不思議な力でも宿っていた可能性が大いにある。
「そうだ、魔獣は」
その存在を思い出して周囲を見渡すと、闇に限りなく近い黒の獣がいた。
思ったより距離がある。
「ルース、逃げるよ」
幸い囲まれていない。
前に獣の姿はなし。後方に獣の姿が見えるが、まだ追い付かれそうな様子はない。
とにかく逃げるしかない。
ルースの手を引っ張って、駆け出した。
冷たい空気を切り、頬が冷え、体も冷えていく。裸足の足裏に冷たい地面を感じる。
寒い。世は冬、ノアエデンが特別。息が白くなるのも時間の問題だろう。
そんなことはいい。
何より、逃げ切ることを考えなければ。如何にして、逃げるか。
隠れる場所を探して、獣をやり過ごせるか、その内に森の出口を……。
ここ、もしかして知っている森では。
森は森。目印も何もない。
けれど、そう思った。
セナが世界に迷い混んだ森であり、孤児院生活のときにきのこ狩りに通っていた森。
この森でセナも魔獣に襲われそうになった。
そうであれば、ルースが森にいるのも少しは納得できそうな気がする。少しだけ。
でも、ガルが魔獣に対処する人員を送ると言っていたのに、どうしてまだ魔獣がいるというのか。
完全なる退治はまだとか。
では、退治要員がいる可能性が高いと考えると、森の出口を目指すべきだ。
「ルース、頑張──」
ルースに声をかけながら、ここは森のどの地点だと、炙り出せそうにないことを考えていた。
その考えが吹き飛ばされた。
足を止めた。ルースが背にぶつかった、軽い衝撃が加わったけど、一歩足りとも進まないように足を踏ん張る。
前方に、黒い獣を見つけた。
一部の他の獣が前に回り込んでいたのか。姿は一つだけではなく、複数に及ぶ。はぐれ獣などではなく、十中八九先程の獣の仲間と考えた方がいい。
どのみち獲物対象になることは変わらないだろうし。
「……セナ」
「ルース、大丈夫」
「セナ、あれ」
大丈夫だと、確信も自信もないことを言っていたら、震える声が言った。
ルースが指をさしている。魔獣の方だ。けれど、地にいる魔獣を示しているには、高い。
獣、だけではなかった。
何か、獣より無視できない気配を感じて、セナはゆっくりと、上の方を見た。本当は見たくなかったけれど、無意識に見てしまった。
『それ』は、黒い羽を持っていた。
コウモリのような羽だった。決してエデやノエルの背に出現したような可愛らしさはない。
羽を持つもの自体、異様な外見をしていた。大まかに言えば人の形をしているけれど、角が生え、口が裂け、肌も人間の色ではない。
あれは何だと答えを求める頭が、無理やり出した答えは、『典型的な悪魔のよう』な生物だった。
いつどこで見たかも分からない、とりあえず前世の記憶から引っ張り出されたものだ。
この世界には、天使と悪魔が存在する。あれが悪魔?
──逃げなければならない。
とにかく逃げなければならない。
あれが天使なら未だしも、敵だという悪魔と魔獣なら逃げる選択肢しかない。
だがどうしたことか、前方は見ての通り、後方からも魔獣が迫っているはずで……いや、追い付かれた。
気配というのは、こんなに感じるものだったかと思うくらい、背で退路がないと感じさせられた。
前に魔獣。後ろにも魔獣。前にはついでに悪魔っぽい生き物。
頭がパンクして、どうすればいいのか判断がつけられずにいると、とうとう魔獣が動いた。
動けない獲物目掛けて、一直線。
セナがとっさに出来たのは、ルースを庇うように一歩彼の前に移動したことのみ。
きっとそんなの意味がなかっただろう。早くて数秒後には、どちらも魔獣の手にかかっていて、結末は変えられないことは明らかだった。
だが、少なくとも数秒後に、魔獣の手にかかっている状況は作られなかった。セナもルースも、だ。
視界の端に花が咲いた。
蔓が木に這い、地面に草が生い茂った。
木の枝が伸び、木の根が地面を割りながら伸び、それらはセナの前方を過った。
魔獣が見えなくなる障害物となった。
「……なに?」
植物全てが活性化しているがごとき現象は数秒で止まり、植物たちのいきなりの成長が止まっていた。
つい少し前に、ここではない場所で似ているかもしれない現象だと気がつくほど、呆気に取られている時間はなかった。
ミシ、と音がする。ボキボキ、ボキボキと不吉な音がして。
黒い獣が、枝や葉の間から頭を出した。
『 』
獣が鳴いた。
白さを持ち喋る聖獣とは異なり、こちらが理解できる言葉ではない。
ただ、鳴いた。
そして、足で枝を踏み締め、体で枝を折り、口を開いて飛び出してくる──。
その最初の黒い獣から、飛沫が上がった。
黒い液体に見え、宙に飛び散ったそれらごと、獣が見えなくなる。
目の前を遮ったのは、植物の緑や茶色ではなく、純白の衣服の背中だった。
突然現れた背中を知っていた。
「──ガル、さん?」
服装と、背丈、髪の色からして、セナの中で当てはまる人は一人しかいなかった。
ガルを見ていた視界の両端で、また変化が起こった。
ぱっと、植物が消えたのだ。いきなり成長したときより、急に。跡形もなく。
「……これは」
植物が消えたことに怪訝そうにしたガルだったが、遮っていたものがなくなったことによって見えたものに気がついた。
「魔物ですか」
魔獣の他にいる『もの』を見て、言っているようだった。
「魔獣もそれなりにいますね。……よくこんなところに飛び込んだものです」
淡い茶の目が、ちらりとセナを一瞥した。
「セナ、君はまだ戦い方も知らず、戦う術も持たないと自覚していますか」
「す、みません」
「無茶をするものです」
ため息をつくように言い、ガルはセナの側にいる少年を見て、周りを見渡した。
「まず片付けることが先ですね。セナ、そこから動かないように」
「はい」
ガルが軽く右腕を振って、彼が剣を持っていることに気がついた。
稽古のときの模造剣ではなく、本物の剣だ。刃を見て、触れれば切れると感じたから瞬時に悟った。
模造剣のときに、ティーカップの方が似合いそうなのに不思議だとか思っていたのが馬鹿らしいくらい、本物の剣を持つガルは模造剣を持っているときより自然に見えた。
「イルティナ、起きなさい」
ガルが誰かに対して言った。
聞いたことの名前だ。
セナでなければ、もちろんルースではないし、ベアドでもない。
一体誰に、話しかけているのか。
「起きなさい」
二度目の言葉と共に、ガルの腕が素早く振られた。
凄まじい音が鳴って剣が木とぶつかり、木が、折れた。
切ったのではない。剣の腹の部分が叩きつけられたので……つまり、腕力で木を折った……?
木とはそんなに簡単に折れるものなのかと、助けにきてくれている人に対して若干戦いてしまう。
「ただの剣と成り果てるなら捨てますよ」
ガルが妙な脅し文句を口にした直後、剣がカッ、と一瞬強烈な光を放った。
「もしかして……」
セナの口が、ほぼ無意識に動いた。
「あれが、聖剣……?」
『そうだぞ』
びっくりした。
いつ現れていたのか、聖獣がすぐ近くにいた。
『最近使ってなかったから、寝てたんだろうなぁ』
「ベアド、君はセナたちを守ることを最優先で、後方の魔獣をお願いします」
『了解』