20 案内
「他の誰かに見えるか?」
と、セナが見上げた人は首を傾げた。
いいや、彼に違いない。
「盗られたんだろう?」
「え、──はい」
そこでようやく、ヴィンセントが差し出しているものが財布だとまともに認識した。
セナのものも混ざっている。
「ありそうですか?」
「あるようです」
側に来た警らに答え、ヴィンセントはセナに財布の中身を確かめさせてから、残りの財布を警らの手に渡した。
どうやら、持ち物を持ち主に返したら終わりらしい。警らはセナに何か聞くこともなく、男を連れて去っていった。
騒ぎに集まっていた人々も徐々に散り、ただの通行人と化す。
そんな中、セナはヴィンセントを見上げた。
「ヴィンセントさん、ありがとうございます」
「ん? ああ、偶然見かけて良かった」
そう言ってから、ヴィンセントはセナの周囲を見るようにしてからセナに視線を戻す。
「一人か?」
二匹、二体と言うべきか、一人と一体と言うべきかという存在は近くにいるのだけれど。
『セナ、あれはそのまま行かせるのか』
鞄の方から、剣呑さを帯びた不服そうな声が言った。白猫が鞄から顔を出している。
「怪我してないよ」
『……む』
頭を出していた白猫は黙って引っ込んだ。
セナが許可しないと分かったのだろう。
「一緒か。なるほど」
一方、白猫が鞄から顔を覗かせたことから、ヴィンセントは厳密には一人ではないと理解したようだ。
「よそ見をして歩いていると目をつけられることがあるから気を付けた方がいい。目をつけられないに越したことはないからな。首都の治安はかなりいいが、それは大きく目立つような深刻な犯罪がそれほど起こっていないからそう見えるだけだ。こういう軽めの犯罪はそれなりに起こる」
身をもって知りましたとも。
「首都の街は初めてで、見るのに夢中になってました」
気を付けます、とセナは神妙に頷いた。
この先完全に一人で出歩く機会があるのかは分からないけれど、今日一人だったら、あのまま逃げられていてもおかしくなかった。
お金、大事。
戻ってきた財布を鞄に戻すと、前は財布と横並びになっていた白猫が、財布を尻に敷いてこう言う。『盗られたくないものなのであれば、私が見ておいてやる』と。態度はどうあれ、ありがたい。
「初めて……」
何だか呟きが聞こえて顔を上げると、ヴィンセントが思案する様子になっていた。
「案内しようか」
「えっ」
案内。
思わぬ申し出が降ってきた。
首都の街は初めてだと言ったから?
つまり、この街を?
本当ですか!と言いかけて、いやいやいやと我に返る。
「いえ、いえいえいえヴィンセントさんお休みなのに、というかそんなガイドみたいなことさせられません」
せっかくの休暇に!
「俺は構わない。が、休日と言うのなら君の方もそうで、直属の上司だった俺が案内するのは落ち着かないか」
「そんな! 案内していただけるならすごく助かります!」
誰も道を知ってるひとがいないんだから!
心の叫びをうっかり洩らしてしまった。
我に返り、ぱっと口を手のひらで覆ってヴィンセントを見上げると、彼はセナを待つようにこちらを見ていた。
セナは、そっと手のひらを外す。
「……あの」
「うん」
「目的のものが具体的に決まっていないんです」
「そうか」
渋い顔もせず、そうか、とだけ。
「それでもいいんですか?」
「構わない」
「すごく長くなるかも……」
「構わないが?」
この人こそ、天使の類いではないのだろうか。
悩む様子もなく、むしろ何を気にしているのかといった風な即答が返ってくるので、セナはとうとう「じゃあ」と言う。
「教えていただいていいですか?」
「ああ」
ヴィンセントはあっさり頷いた。
休暇なのに本当にいいのかとセナはまだ思うのだが、ヴィンセントから言ってくれたのではいいのだろう。
セナには得しかないけれど、ヴィンセントは時間を食うばかりとしか思えないのに。
優しい人だなぁと思う。
「早速だがどんな類いの店に行きたいという希望は──」
「ヴィンセント」
誰かがヴィンセントを呼んだ。
ヴィンセントが後ろを振り向いて、セナもひょっこりそちらを覗く。
声は女性の声で、立っていたのは身なりの良い女性だった。しかしその女性の雰囲気、と言うか顔立ちを見たことがあるような……?
「おまえにアドバイスをと思って来たのだけれど……」
「アドバイス?」
女性の目がちらりと、セナを見た。
おっと、ヴィンセントの後ろから覗いていたからか。不躾な真似をしたかもしれない。
今さらながら引っ込むべきか、潔く全身出るべきか。
「彼女は少し前まで俺の従者をしていた人だ。セナ、俺の母だ」
ヴィンセントの母!?
まさかそんな人物と会うとは思ってもいなかったセナは瞬時に緊張した。
ヴィンセントの母!
「首都に明るくないらしいので、これから案内をしてくる。それからさっきは突然で言い損ねたが、俺は別で帰るから待っていてもらわなくていい」
ヴィンセントの母は話す息子は見ず、なぜかセナをじっと見ている。
その影響でセナは背筋をぴんと伸ばしたまま、微動だにできない。やっぱり、軽率にも覗くような形で見たのが失礼だったのか。
「なるほど」
何がなるほどなのか、ヴィンセントの母が一言発した。
「あなた」
「は、はい」
なぜか話しかけられた。
ヴィンセントの母は、セナに向かって歩いてくる。
「この日傘をお持ちなさい」
「え」
セナはぽかんとした。
ぽかんとして、自分に彼女が持つ白い日傘を差し出されていることに気がついた。
この日傘をお持ちなさい、と言われた。
この、日傘。
「今日は天気が良いわ。帽子もなくては、顔と手が焼けてしまうわよ」
「──いえ、日焼けは気にしない方なのでお気遣いなく! お母さんこそそのままお使いください!」
セナは慌てて首を横に振った。
日差しのことを気にしたことがなく、そんな習慣がないのは本当だし、受けとるわけにはいかない。
「職業柄なのかしら。グレースも気にしないけれど、女の子なのだから肌は大事にしなければ。手が塞がるのが不便であれば、日傘はヴィンセントが持てばいいのだし」
そっちの方が絶対にさせられないのだが。
「母さん、初対面で何を言っているんだ」
「ヴィンセント、おまえこそレディの扱いを心得るべきよ」
「そういう話ではなく……とにかく彼女が日傘をささなかろうと、帽子を被らなかろうと彼女の勝手であるし。初対面の人間に日傘を勧められるのは唐突すぎる」
「まあ、それもそうかしら。つい、ね。わたくしは去るとするわ」
「俺への用は」
「ああ──そうね。本当は贈り物のアドバイスでも、と思ったのだけれど」
そのとき、一瞬ヴィンセントの動きが鈍った気がした。
ヴィンセントの母がそんなヴィンセントの肩に手を置く。
「いいこと、ヴィンセント。女の中でもグレースの生態は例外よ。参考にしては駄目」
そう言い残して、ヴィンセントの母は去っていった。
「生態……? 何だったんだ」
残されたセナも同じようなことを思っていたが、息子であるヴィンセントが呟いた。
「姉と違って、母は初対面であれほど強引なことをする人ではなかったはずなのだが」
その言葉を聞いて、セナは納得する。
一度だけ見たことのある、ヴィンセントの姉に雰囲気が似ていたのだ。いや、姉であるグレースが、母である彼女に似ているのか。
「ヴィンセントさん、お母様はいいんですか?」
「ん? ああ、母の用に俺が必要なわけではない。休暇なのに俺がぼんやりしていたから、連れ出されただけだ。俺も用はあったので同行して、一緒に街に来たというわけだ。そしてさっき別行動になった」
休暇なのにぼんやり?
休暇だからぼんやりするのではないのだろうか……?
言い方に少々引っ掛かったものの、その『ぼんやり』にセナは「そうですよね」と思わず言っていた。
「? 何がだ」
「さすがに休暇は休みますよね。仕事はされていなかったみたいで安心しました」
きちんと休んでいるのだろうかとか、ノアエデンでちらっと考えていたから。
「…………まあ、そうだな」
「え、してたんですか」
「家の仕事だ。教会のじゃない」
「そういう問題ではないような」
この人、砦で夜に眠れないからと言って仕事をしていたような人だから、休み中に仕事をしていることが簡単に想像ができるのである。
いっそ、今日連れ回すとかした方がいいのでは?と謎の考えが出てきてしまう。いやいや、それこそ休息にならない。
「ヴィンセントさん、用があったから同行したって仰いましたよね」
そういえば、今、そう言ったのでは?
ぼんやりに気を取られたけれど。
この場でもっと重要なことを言っていた。
「ああ──便箋を買おうと思っていたくらいだ」
「お手紙ですか。もう見られたんですか?」
「いいや」
「えっ、じゃあ先に行きましょうよ!」
セナの用事より、そっちを先にしてもらうべきだ。
「便箋を売っているお店、わたしも知っておきたいです。北の砦で父からもらったのが初めての手紙だったんですけど、そのときは便箋がなくて教会のものを使うしかなかったので」
次書くときは、教会の備品でないもので書きたいと思っていた。
だから便箋がある店も教えていただけると嬉しい。
「それなら、案内がてら行こうか」
はい、とセナはヴィンセントと歩き始めた。