10 噂の森
ノアエデン領は広大である。
家々が並ぶ町の風景というものがないから、余計に広く感じるのだろうと思う。
セナは、例の森に来ていた。
草原の先にある、先日エデに誘われた森だ。
森は、一見すると普通の森だった。
生える木々の緑が全て鮮やかで、気持ちのよい雰囲気を感じるものの、そこまで特別な感じはしない。
と、思っていたら。
気がつくと、周りに浮かぶ光が増えていた。
案内役を勤めてくれているエデやノエルの周りに、いつもふわふわと浮かんでいる光や、草原で見かける光の量の倍。
「うわぁ……」
昼間で十分に明るい中光が浮かぶ光景は、現実感を遠ざける。
この世ならざる場所に迷い混んでしまったかのよう。
「ほら、こっちよ、セナ!」
「エデ、セナが前を見ていない。転んでしまう」
「セナ、そんなに見るところなんてないでしょ」
「いや、綺麗だから」
「わたしたちの森だから!」
見るところなんてないでしょと言いつつ、エデはぱっと笑顔を咲かせて、得意気に言った。
「もっと綺麗な場所見せてあげるの」
「あっ」
繋がれた手を引かれた。
エデは、少女の姿からは想像が出来ない力を時々出す。背丈からしても外見年齢からしてもセナに対して、エデは幼い姿そのものなのに、セナをぐいぐいと引っ張っていく。
「いっそ飛んじゃうわ」
「え」
エデが言った途端だった。
足が地面を踏みしめる感覚がなくなり、体が平衡感覚を失う。
視界が上に動き、ふわりと体が……浮いた。
「え、ぇぇ? エデ?」
何事と、繋がっている手が命綱とばかりに握り、手の主を見て、セナは目を見開いた。
こちらを見て楽しげに笑う少女の背に、光る羽が生えていたのだ。
半透明で、触れると消えてしまいそうな色味のそれは、美しい少女と合いすぎた。
精霊と言うより、妖精みたいだと変なことを思った。
笑う少女を見ていたら、何だか不思議と驚きは収まっていって、されるがまま連れていかれるがままに宙を移動した。
「到着っ」
やがて半透明の羽が消え、体が地面に近づく。足が地につく感覚に、ちょっぴりほっとした。
やっぱり人間、地に足をつけるべき。
ついた場所が、森のどの位置にあるのかはさっぱり分からない。
とりあえず、エデが到着と言ったからには、ここが目的地で間違いないのだろう。
その場所は木々に周りを囲まれ、大きな木と、泉があった。
「大きい木」
大きな木は、大きかった。草原にぽつんと一本生えている大きな木より大きい。
見たこともないくらい背が高くて、幹が太く、しっかりと地に根が張っている。
「その木は、精霊王が寝ている特別な木なんだ」
木に気を引かれ、見上げていると、ノエルの声が言った。彼の背からも、妖精を連想させる羽が消える。
「精霊王……精霊の、王様?」
が、寝ている木?
「寝てるって、……他の地上にいる精霊たちが眠ってるみたいに?」
「違うよ。彼は、ただ彼の気分で寝ているだけ。彼が眠らなくてはならない事態になるとすれば、この楽園さえ滅びて、地上がひっくり返る日かな」
外にいても眠ることを余儀なくされているらしい精霊のようではなく、つまりはただ単に自分の意思で寝ているだけ。
どことなく虚しさが漂う状態ではないと分かり、セナはふーんと木を見上げ続ける。
精霊の王様とは、どんな姿なのだろう。
王様と言うからには、王冠でもつけているとか。そもそも、精霊に王様がいるのだなぁ。
「セナ、セナ」
「ん?」
くいくいっと服を引っ張られて、 声の方を見るとエデが服から手を離した。
「いくわよ」
どこに?
と思ったことをそのまま口に出していたとすれば、大層とんちんかんな言葉だっただろう。
セナが見ていることを確認したエデが、
「えいっ」
と、腕を水平に一振りした。
何をしているの?と思うと同時に、セナは腕の動きに目がつられる。
エデが手を向けた先は、泉があり、他は地面があるばかりの光景で……。
ぱっと、花が咲いた。
はじめは、白い花だった。
一輪だけではない。
その隣、隣、周り。
花が咲く。
花が咲く。
「──」
あっという間に、辺り一面花畑になっていた。足元にまで咲いていて、驚きのあまり声も出なかった。
「ほらっ」
さらっと頬を撫でた感触があって、足元を凝視していた目を上げると、花が降ってきた。
咲いた花が散ったのではない。受けてみると、茎のない新種の花のように、花だけが降っていた。
何事。
ただの茶色の地面が一面の花に変わり、空から花が降る光景に頭がついていかず、何度も瞬いてしまう。
「セナ、綺麗でしょ?」
弾んだ声がそう言った。
エデが笑っていた。
降る花も、まるで冬に雪が降ってきたように当然と受け止め──いや、彼女がこうした。
花を咲かせ、花を降らせている。
「エデ、泉を隠すのはよくない」
ノエルがそう言って、手をちょいと動かすと、泉を覆う花がふわっと浮いて飛んでいった。
エデが、むぅと頬を膨らませて「別にいいじゃない」と言い、ノエルが「良くはない」と言い返す。
──ああ、彼らは精霊なのだ。
一気に花が咲く。花が降る。花が浮く。
種や仕掛けがあったという発想は微塵も生まれて来なかった。
いつもの調子のやり取りをしているエデとノエルは、周りに光がきらきらし、花が降る不思議な光景の一部だった。
──地上の楽園
今まで、容貌や雰囲気などからどこか人間とは異なると認識してきたけれど。
摩訶不思議な力を見せられた今、明確に『精霊』という認識が頭でされたような気分だった。
「いやぁ、でも、ファンタジーすぎるな……」
天使とか悪魔とか聖獣とか精霊とか、聞いているだけでは実感が薄かったところ、喋る動物に加えて、魔法のような力ときた。
「なぁに?」
「ん、うん、二人とも精霊なんだなあって」
小首を傾げるエデにそう返事すると、ノエルが首を傾げる。
「今まで何だと思っていたのかが知りたくなる」
「教えてもらってたから、精霊だって思ってたはずだよ。ただ、二人とも外見は子どもそのものだから……」
確かに人とは一線を画す容貌だとは思うし、感じるけれど、特にエデは行動が子どもそのものだから。
たった今、魔法とでも思う力を見て本当に認識できた。
言い表そうとすると難しいそれを、出来る限り言葉にすると、ノエルはもう一度わずかに首を傾げて、
「セナは、おかしなことを言う」
彼にしては子どもっぽく笑った。
花を踏まないようにして、泉まで行った。
泉の水は澄んでいて、中が見通せる。
けれど底は見えなくて不思議で。
一見すると普通の森と変わらないように見えて、細かなところが不思議に満ちているのだと思った。
この森は、精霊にとっても特別な領域なのだとガルが言っていた。
精霊の王様が眠っている木があったり、もしかすると、精霊が『唯一存在する地』としてここが残っているのには、そういう理由があるのかもしれない。
精霊にとって特別な領域がある地が残ったと思うと、最後の楽園という呼び方が、前よりしっくりきた。
「セナ、ここ気に入ったでしょ?」
「うん」
綺麗だし、全体的に好きだと思う場所であり、心なしか空気が美味しい場所である。気分の問題か。
「毎日来てもいいんだから。いつもしてる勉強?とか、剣を振り回すことなんて止めてここでわたしとのんびりすればいいの」
精霊は、そんな甘々なことを言った。
今日は稽古はなかった。ランニングも。
ガル曰く、一日体を休める日は大事なのだと。
聖剣とは伝説染みているけど、ガルの口振りでは聖剣は何本もあるのだろうか。でなければ、ガルが聖剣士であると言っている以上、一本では勧める職業に入らないか。
とかちょっと考えている内に、
「駄目だよエデ。セナは精霊じゃない。人間だ。セナとガルとの間のことだから、そんなに簡単に言っちゃいけない」
「ノエルはいっつもそんなことばっかり言うの。ベアドだって言ってたもん」
「ベアドが言ってても駄目。ベアドと僕たちの位置も似ているようで違うんだから」
「むぅ」
セナは「まぁまぁ」と間に入る。
自分がちゃんと答えるから、そんなに言い合いに発展しそうなやり取りはしなくてもいい。
「エデ、休憩のときはここに来てもいいかなぁ」
「もちろん!」
エデがふわぁと笑うから、セナもありがとうとつられて笑う。
「そうだ!」
「?」
「ディーナーっ」
いきなり、エデが泉に向かって大声を出した。
「泉に住んでる精霊がいるんだ。『僕たちくらい』の精霊」
僕たちくらいの精霊……?
言い方に微妙に引っかかったような気がした。そういえば、人間みたいな姿をしている精霊を、ノエルやエデ以外に見ていない。この森には他にいっぱいいたりするのだろうか。
聞き返す前に「寝てるみたい」とエデが振り向く。
「彼女も単に気分で寝てるだけ。そのうち起きる」
泉に入ってもいいと言うので、足だけをちゃぷちゃぷ浸けさせてもらう。
気持ちいい。
「この泉はね、地上全部と繋がってるの」
「繋がってる……って?」
どういうこと?
「えぇっとね、例えば地上ならどこでも見られるの。見たい場所が見れちゃう」
見たい場所、と言われて、考えてみた。
この世界は一年分の記憶がないし、一ところにしかいなかった。その場所は孤児院で、孤児院を見たいかと言えばそうはならない。
だけれど、見たい場所が、『人』のいる場所なら。
ぽつん、と思った。思い浮かんだことがあった。
ルースは、どうしているだろう。
この世界で唯一親しかった少年。
孤児院で出会って、一緒に過ごすようになって、彼が引き取られることになって別れが訪れた。
彼は今幸せだろうか。
幸せに違いない。そうであるといい。ルースを引き取ったのは身なりのいい紳士と婦人だった。
ガルみたいにいい家を持っている、裕福な人であることは間違いないはずだから……。
「あ」
ノエルの声が、一音溢した。
「何か、映った」
泉は様子を変えていた。
透き通る水に色がついていた。
色がついているという表現は誤解を招きかねないけれど、透き通っていた水に色がついた風景が映っていたのだ。
木が見えたから、一瞬、周りの木々が映っていると思ったけど、木々は映るには遠い。そして、映るなら今までも映っていたはずだ。
では、この木々は──
「──ルース」
一人の少年を見つけた。
淡い金色の髪をした少年は、まさに今その後を気にかけていたルースだった。
ルースは、森の中と思われる木々がたくさん生える中を歩いている。
泉に映るのは静止画ではなく、動く映像だったのだ。
「これ、リアルタイム……今の様子なの?」
「そうだよ」
一人のルースはきょろきょろ辺りを見回している。泣きそうな顔だ。
「ルース、何してるの」
彼は引き取られた。身なりのいい紳士に引き取られていったから、どこの森かは知らないけれど、そんなところにいるはずがない。
いや、自分だって森の中にいるから引き取られた先に森がある可能性はある、か。
でも、何にしろどうしてそんな顔で一人で歩いているのか。
「まずい」
「まずいって」
何が。
ノエルの呟きに不安が過った。
何が、と聞く前に、セナの目が原因を捉えた。
「──魔獣」
黒い獣がいた。
黒い中に光る目が、いくつもある。赤い目が見ている先が何なのか自ずと分かる。
ルースだ。
ルースが獣に気がつく。逃げる。獣の黒は見えなくなる。ルースが転んだ。
獣は見えない。だけれど、都合よくいなくなってくれたなんてことはないだろう。
自分が、魔獣に囲まれたときのことを思い出した。食べられる寸前、死を覚悟した──。
──セナっ
泣きそうな少年が、小さく呼んだ声が聞こえた。
他ならぬ、セナのことを。
次の瞬間、セナは泉に落ちていた。