10 ヴィンセントの休日
「ヴィンセント!!」
休日、ヴィンセントは騒音で起床を余儀なくされた。
ヴィンセントは眠気を押し退け、仕方なく起き上がった。
「……なんだ、姉さん」
姉、グレースの襲来である。
ここしばらく北の砦に派遣されていて不在にしていたが、ヴィンセントは基本的に首都のブラット家から教会本部に出勤している。
ということで、休日に久しぶりに家に帰ってきたのだが、結婚している姉も居住はここだ。
と言うより、姉が跡取りなので、出ていくとすればヴィンセントの方になる。
そろそろ出ていくか、と仕事が入るとすぐに忘れてしまうことをちらりと考えた。
「休日だからと言ってだらだら過ごすな! 起きろ!」
休日だからゆっくり過ごすのだろう。
結局叩き起こされて、朝稽古に付き合わされることになった。
外はよく晴れていた。
屋内にも専用のスペースがあると言うのに、姉は晴れていれば外で稽古したがるので、ヴィンセントは土を踏みしめた。
「……姉さん、真剣はさすがに置いてもらおう」
自分が持ってきたのは模造剣である。
それに、どちらともが真剣を持てばいいという話でもない。
負けるつもりはない。子どもの頃の、剣を持ちはじめたときのように一方的に傷だらけになるつもりもない。
だが、姉の性格上、一つ些細なミスでもすれば大怪我の未来が待っている。そんな危険な賭けをするつもりは毛頭ない。
「模造剣で稽古をすることに何の意味があるんだ」
姉は胡乱げにした。
「真剣でならない意味も大してないだろう」
「模造剣より意味はある。そんな玩具を今さら使ってどうする」
確かに一理はあるのだが、なぜ訓練ではなく休日に怪我を追加しなければならないのか。
……模造剣であれ怪我はする。斬れず、多量の血が出ないだけだ。そしてどちらであれ、剣を吹き飛ばせば勝つ。
姉の強く、譲る気のない主張を幼少の頃から聞き続けてきたヴィンセントは、別に絶対的に譲れない話でもなかったので、これ以上の無駄な抵抗をやめることにした。
「分かった。俺も取ってくる」
「ヴィンセント、その必要はない」
踵を返した先から、やって来る人がいた。
ロイ・ブラット。義兄だ。姉の夫である彼も、当然ブラット家にいる。
外で会うときの隙のない格好ではなく、起きてきたばかりだと窺えるような格好で、歩いてくる。
ヴィンセントの「義兄さん、おはようございます」という挨拶に挨拶を返し、彼は姉の方に歩いていく。
「起きていなかったから、もしかしてとは思ったが。ヴィンセントは任務から帰ってきたばかりだぞ。怪我もしていたのだから、休日くらい休ませてあげたらどうだ」
「関係あるか」
「ある」
姉も間髪入れず返答したが、義兄も即答した。
「ヴィンセントが応じると言っているんだ。止める理由はない」
「ヴィンセントは君の無茶な要求に慣れすぎているだけだ。諦めと言っても過言ではないだろう。──そもそも」
姉が反論しようと口を開いたところで、言わせず押し留めたのは、さすがとしか言いようがない。
「ヴィンセントの元気具合を手合わせで計ろうとするのは止めた方がいい。心配なら、素直に怪我の具合を聞いた方が」
「ロイ!」
姉が遮った。
義兄はその反応を予想していたように、続きを言わず、代わりに持ってきていたものを差し出した。
「どうしてもすると言うのなら、せめて模造剣にするべきだ。以前、ヴィンセントの腹を刺したと聞いているが?」
ああ、そんなこともあったな。
腹どころか、腕やら斬られた記憶は山ほどある。
姉は手加減知らずであり、自分も手加減してくれとは言わなかったからだ。
いつでも姉は全力だ。
「はい」
「……」
姉は、ロイを睨むように見てから、差し出された模造剣を奪うようにして受け取った。
放られた真剣を難なく受け取り、義兄はその場から離れていった。
「ヴィンセント! 始めるぞ!」
「ああ」
自分の意見を通したがる姉。
そんな姉に良くも悪くも慣れてしまった家族。
そんな姉を、あの義兄は高い確率で制することのできる。姉の口を閉ざすことができる。
義兄により模造剣で始めた模擬戦は、模造剣にヒビが入り、またも義兄の制止で終えることになった。
「これだから模造剣は嫌なんだ」
「いい終わり時になっていいだろう。グレースは模造剣が壊れても肉弾戦に入ろうとするからな」
「剣が壊れなければ、そんなことになりはしない」
「少なくとも今日は、壊れるくらいのものでちょうどいい」
姉はふん、と鼻をならしたが、終了を受け入れることにしたらしい。
紫の目がヴィンセントを見る。
「少し手合わせしない内にそれなりになったようだが、次はわたしが圧倒的にぶちのめす」
姉も戦場で笑っているタイプなのだろうなと、ライナスを思い出した。
手合わせしているとき、好感触だったときに限って姉は笑っている。
姉とは戦場を共にしたことはない。ただ、どことなくライナスと同様の性質を持つので、想像はつく。
「グレース、寝ては駄目だからな」
「お前はわたしの母か?」
「夫だ。時間が時間だ。着替えてくれ」
「お前もな、ロイ」
ひらひらと手を振り、姉はさっさと家の方に行く。
「ヴィンセント、お疲れ様」
姉の夫は、妻を追いかけることはなくヴィンセントに声をかけた。
自分たちも戻ろうかと言われて、ヴィンセントは義兄と家へ歩いていく。ずっと先には姉の後ろ姿がある。
「義兄さん」
「ん?」
「義兄さんは、姉さんのどこを好きになったんだ」
姉には元々決められていた婚約者がいたが、従者のクビを切るように、婚約を破棄した。
堂々となぜその相手と結婚するのが嫌だとか言う人でもあり、あの気性なので結婚しないのかもしれないと思っていた。
しかし彼女は、今ヴィンセントの横にいる男と結婚した。
彼女の意志で。そして、彼の意志でもある。ロイが先にそうなりたいと望んだ。
義兄はあの姉のどこが好きになったというのか、今さら気になった。
姉の後ろ姿から、隣の義兄に視線を移すと、彼は目を少し丸くしてこちらを見ていた。
だがその様子は瞬きと共に消え、義兄の灰色の目は前方に向けられる。
「その強さに。それは剣の腕であり、性格であり、彼女の意志に宿るものであり──強烈なまでのあらゆる強さだ」
その言葉を聞き、ヴィンセントはならば自分はきっと、と思う。
『彼女』の強くあろうと立つ姿に惹かれたことは間違いない。
「そして共にいるにつれて知った、不器用で可愛いところでさらに好きになった」
「……可愛い?」
何だと?
姉の姿を見ていたら、すんなり飲み込めない形容が聞こえて横を見た。
義兄は微笑するばかりでそれ以上を語らなかった。
「お節介を焼くようだが、ヴィンセント」
「はい」
「手紙は効果的だぞ」
手紙?
唐突に何のことかと首を傾げる。
「ヴィンセントがこれだけ分かりやすいのは初めてだな」
「?」
「今まで聞いてこなかったことを聞くことには理由があるだろう」
単に思い出したからという性格ではないだろうと、言われて、手紙が何を示すのか、義兄が汲み取った理由も理解した。
手紙……ヴィンセントは少し考えてから疑問を投げ掛ける。
「上司でもなくなった男から来て不思議ではないだろうか?」
「上司でなくなったから書くんだろう」
距離があるから、思うように会えないから手紙を書くのだろう。毎日会えていれば必要ない。
そう言われ、確かにそうだと同意する。
「彼女は、ヴィンセントの従者でなくなったんだろう? そしてヴィンセントは従者に戻すつもりはない。となれば、仕事上で私とグレースのような距離になることはもうない。ヴィンセント、不意に機会が来たなら逃すなよ」
義弟の肩を叩き、義兄は姉と出勤していった。
早朝に起こされたヴィンセントは、時間をもて余していた。
趣味はないし、やるべきこともない。自分から計画的に取得した休日ではないので、何も予定していない。
「……手紙」
何気なく、机の引き出しを開けると、至ってシンプルな紙がある。
確かに義兄が言った通り、仕事上でさえセナに次に会えるのはいつになるのか分からない。
そして休暇中である今が手紙を出す機会であるのだろうと思うが、彼女の中で自分は直属の上司であった男だろう。
内容に仕事の要素が含まれなくても、休暇の邪魔になるのではないか。
「俺は、とんでもなくタイミングが悪いな」
気がつくのが遅すぎた。
とは言っても、早く気がついていたとしてきっと北の砦にいたときには違いない。あの状況下で何か出来たとは思えない。
かといって、従者期間を長引かせておけばであるとか従者に戻そうとか、そんなことは絶対に思わない。
ひとまず今回はやめておこう。どうせ書こうとしても、書く内容に見当がつかなくなって止まる。
しかし……閉じる前に、引き出しの中の簡素な便箋を見る。
教会の執務室の引き出しの中の便箋も同じようなものだ。教会の印が入ったものか、真っ白なもの。
久しぶりに街に下りて、ついでに書こうと思ったときに備えて、便箋くらい見繕っておいてもいいだろう。
「ヴィンセント」
外に出ようと廊下を歩いていると、呼び止められた。
呼んだのは母で、ヴィンセントの様子を見て「出掛けるの?」と問いかけた。
「やることがないので、街に下りてみようかと」
「やることがない……」
息子の言葉をなぜか繰り返してから、少し沈黙し、母はヴィンセントを見据えた。
「わたくしと来なさい」
「え?」
「やることがないだなんて悲しい。どうせ街に行っても目的もなくぼんやりして帰ってくるのでしょう。それなら、たまには親孝行しなさい」
「親孝行ならいくらでもするが」
目的は一応便箋がある。
だがあの姉にして、この母だ。姉の気性の源は父と母どちらかと見比べると、完全に母である。姉自身の性格で倍に強烈になってはいるようだが……。
あまり人の話に耳を貸さない。
「目で目立つからと、『行こうと思っていたが止めた』と言わないだけいいものの、休日に目的もなくぼんやりするなんて」
「休日なのだからぼんやり休んでもいいだろう」
「今日は街に行くと言ったでしょう!」
「言った」
「休むなら休む。行くなら目的を持って行きなさい!」
なるほど。未だに期せずして母の逆鱗に触れることになったようだ。
そこで待っていなさいと、母は身支度をしに行った。
ヴィンセントはその場から動くわけにはいかなくなり、一人、中途半端な場所で立ち尽くす。
一緒に街に出ることが親孝行になるというなら、そうしよう。親には感謝している。
便箋は隙を見て買えるはずだ。
「ヴィンセント、どうしてそんな中途半端なところに突っ立っている?」
ヴィンセントがいるのは玄関近くであり、いつかは帰ってきた誰かに遭遇するのは当然だった。
ただしこの時間では姉ではない。
「父さん」
父だった。
「俺がここにいるのは、母さんにここで待っているように言われたからだ」
「ほう?」
近づいてくる父が辺りを見ても、おそらく探している母はいない。
そんなことより、順番が逆になったが「お帰り」と言うと、「ただいま」と父が言う。
「しかし父さんこそ、中途半端な時間に帰ってきたな」
「まあそうだな。帰れるときに帰っておこうと思ってな。──ヴィンセント、よく帰った」
砦から帰還後、父に会ったのは初めてだった。
にわかに父が腕を広げ、ヴィンセントを一瞬抱きしめる。
「今日は休みか。それと、ここにいるように言われたということは用があるのか」
「何か俺に言いたいことが?」
父の様子にそうであると察する。
「ああ。メリアーズ家のことを聞きたいのではないかと思ってな」
メリアーズ家のこれからが決まったのだと瞬時に理解した。