9 親子
セナは大きく瞬く。自分に話が向くとは予想していなかったからだ。
「不思議ですよ。君に出会った日、いやに距離の近いベアドを見て君ならばノアエデンにと思い、私があのような条件であの日君に取引を持ちかけたのに。今、そのように思うのですよ」
セナは衣食住と生きていく術を得て、ガルはエベアータ家の跡継ぎを得る。その取引の中身の一つとしてセナは召喚士になり、この世界での前線に立つことになった。
「怪我をしないか、それどころか死んでしまう可能性さえあります」
「それは、仕事上誰にでもある可能性で……」
ガルが首を横に振る。
「実は、白魔が出たとき白魔との戦いの前線から離れるかどうか聞こうか迷いました。しかし、君は精霊に迷いなく帰らないと言いました。迷いがなさすぎました。結果私は聞きませんでした」
そんなことを思われていたとは知らなかった。
「白魔討伐の地で、炎火の白魔を前に退きませんでしたね。怯まないことはいいことです。強くなることはいいことです。覚悟が出来ることは大事です。素質です」
褒める言葉を口にしているはずなのに、ガルは嬉しそうではなかった。
「ですが逃げてもいいのですよ、セナ。──いいえ、あのとき、私がセナに逃げて欲しかったのでしょう」
死んでもおかしくありませんでした。ガルは呟く。
「かつて君は魔獣にさえ臆していましたね。そんな少女をあの場に留まるようにしたのは私ではないのかと苦々しく思いました」
逃げないことはこの職では良い資質の一つであり、間違っていたなどということではない。そうではないが、と付け加えるガルの様子は平素と異なるように感じられた。
「最後まで逃げてはいけない立場の人間はいますが、少なくとも今セナはそうではありません。今さら私からこんなことを言うのは何だと思うかもしれませんが」
彼らしくないと思えるような前置きをして、ガルは言う。
「平穏な暮らしをしてもいいのですよ」
「平穏な暮らし、って……?」
「教会から離れ、戦うことなくここで暮らすことです」
白魔を召喚したりとセナが持つ問題を受け入れてくれたときよりびっくりしたかもしれない。
「……パラディンになるのが、当然じゃないの?」
「言ったでしょう。エベアータ家はノアエデンにいることが最も重要なのです。伝統はただの伝統であり、必須ではありません。それを一度求めた私が言うのも何ですが」
かつて、ベアドが『今してることが嫌になったら、普通に暮らせばいいと思うぞ』と言った。
非現実的だと思っていた。だって、ガルとの取引違反だ。
「君のことが心配です」
きっと、彼の父が過去に彼に言ったことを、ガルは今セナに言った。
「戦いの場での光景を経て、私は今、君に戦いを抜きにした普通の生活を送って欲しいとさえ思います」
この穏やかな雰囲気を知っている。
声は違ってもこの声の雰囲気を知っている。
今日、精霊王が邸の玄関でガルを抱き締めた。言葉を抜きにしてもその動作と目で分かる。ガルを慈しむ精霊王。母であると分かったシアン。
そして今、セナに対するガルの目と声音もまた同じ雰囲気を帯びていた。
メリアーズ家で受けた言葉と合わせて、この人が自分を慈しんでくれているとありありと感じるのだ。
「セナ?」
ガルにどうしたのかと覗き込まれて、涙が流れていると自覚した。
セナは驚きつつも「何でもない」と言う。
「何でもないことはないでしょう」
「あー……だよね」
泣いておいて何でもないとは説得力がないのか。
前にも似たようなことがあったような……ヴィンセントに対してのときだった。
でも、あのときとは全然違う感情だ。状況が違う。
「お父さんってこんななんだなぁって思って」
セナは笑った。
記憶の中で、母はいつも温かかった。前世でも、エルフィアの記憶でも。
しかし父と関わった記憶は、前世でもエルフィアとしてでもあまりない。父はいた。けれど接することがなかった。
今、温かかった。実際に触れているのではないのに、温かい心地で心がいっぱいになった。
「セナ」
四角に折り畳まれたハンカチが目の前に差し出された。
これで涙を拭いてもいいということだろう。お礼を口にしつつ、セナはハンカチに手を伸ばす。
「私が父で良いですか?」
ハンカチに触れたまま、セナは前を見上げた。
今さら何をと思って、そういえばそんなことを言われていた気がしたのと同時に、考えることもないのだと分かってセナは笑った。
「わたしのお父さんの心当たり、今目の前にいるお父さんしかいないなぁ」
セナの父は彼だ。
今日出た答えではなかったのだろう。きっと今日は何も知らない父のことを知りたかっただけに過ぎない。
セナのことを考えてくれ、守ってくれ、案じてくれるこの人が父親でなくて、どんな存在だと言うのだろう。
セナはガルと家族でありたい。父であって欲しい。
「そうですか」
微笑んだガルからハンカチを受け取り、涙を拭う。
ああ、自分は幸せ者だ。
「お父さん、心配してくれてありがとう」
涙を拭い終えて、セナはガルの考えに対して答えを返す。
「わたし、続けられるところまで続けたいな」
「どうしてですか?」
「仕事せずに生きていくのは気が引けるし……」
「領主の仕事は手伝ってもらいますよ。ノアエデンは運営しているとは言い難いですが、実際に運営している別に管理する外の領地がありますからね。そちらの仕事があります」
ノアエデンは領地として『運営』はしていない。ここは精霊の土地だ。人間が手を出すところはありはしない。精霊の思うように維持され、または変化していく土地だ。
エベアータ家はノアエデンの外に領民がいる領地を持っている。
「そういう風にセナに果たしてもらうエベアータ家の責務はあります。それは避けられないことになります」
「それは当然だよ」
「それでも、続けますか」
「うん」
軽い気持ちで出来る仕事ではないが、何だか心が軽くなった気がした。現金なものである。
でも不思議と、じゃあ辞めよう、さっさと安全地に引っ込もうという気持ちにはならなかった。
将来的に安全な暮らしを求めて、危険な時期を乗り切ろうと考えていたはずなのに。
教会に属して、この短期間で心境に変化が生じたのか。何かで、誰かで。
「分かりました。一生の選択としなければならないというわけではないと覚えておいてください」
「うん」
ガルはセナの選択を受け入れた。彼の経験によって、反対はしないと決めていたのかもしれない。
「私の話を聞くために来たのなら、精霊の森に戻りますか?」
「あ、そうだった。エデまだ寝てるかな……」
「では戻りましょう。──話を聞いて少しはすっきりしましたか?」
「すっきり……はしてないけど、何も知らないから何か聞きたくなる感覚はなくなった。お祖母ちゃんたちとはわたしはわたしで、自然の成り行きで接していくことにする」
「それでいいと思いますよ。私と両親の関係とセナの関係は別です。……しかし、精霊王はおそらくセナのことも心配しますから、その辺りは一度話しておく必要があるかもしれません……」
別です、の後から声が小さくなってあまり聞こえなかったので首を傾げていると、「何でもありません」と言われる。
「途中まで一緒に行きましょう」
「お父さんはいつまでノアエデンにいられるの? 今日はいるの?」
「せっかくなので今日はいます。明日教会に戻ります。私の予定がどうかしましたか?」
どう、ということでもないのだけれど。
「親子らしいことしたいなぁって思って」
ノアエデンにずっといた頃ではなく、教会に所属してたまの休暇のときにしか帰って来なくなってからこうなるなんて。
「親子らしいこと……例えば?」
「……え、何だろ」
自分で言い出しておいて、そんな反応になってしまった。
よく考えてみると親子らしいとは何だ。他人と異なる点は……一緒に暮らす家があるし、暮らしていたし、食事だって一緒だったし、お父さんって呼んでるし……。
ああ、なるほど。
「大事なのは気持ちだったみたい」
形式的にはもう親子だったので、親子らしい暮らしをしていたのは当然だ。
問題は当人たちが親子だと思っていたかで、今さら変わることと言えば──外見が若すぎてお父さんと呼ぶのにあった抵抗はもうない。
だってガルは父だ。
「四年越しに正式に親子ですか」
ガルは笑って、「嬉しいです」と言った。
「以前の時間にはしなかったこととして、精霊の森まで一緒に散歩でもしましょうか」
「うん。──あ、お父さん」
精霊の森に向かって、同じ方向に歩き始めた一歩目。
「聞きたいことできた」
「おや、何ですか」
「昔は『私』じゃなくて『俺』って言ってたの?」
「……若いときの話です」
あとは質問はないけど、お父さんの話聞きたいなぁと言ったら、ガルは少し考えて、道すがら話してくれた。
「精霊の道があるでしょう」
「うん」
「あれを、私も開こうと思えば開けます」
「えっ、そうなの?」
実際の道のりを遥かに短縮する例の便利道だ。
魔法のような特殊な力を持たない人間は歩くか馬か鳥かと、相応の道のりを行く手段しか持たない。
「精霊になることを選ばず人間として生きていくとしても、私に精霊の血が流れていることに変わりはありません。そして精霊の中で最も力が強い精霊王の血なので、影響が濃く、私は精霊の性質をいくらか持っています」
美形なのもその一つ?と聞きたくなるがさすがにあまりな質問だ。やめておいた。
「その一つが、これは精霊自身にはないのですが、聖剣の力を他の人間より多めに引き出せます。精霊は聖剣を使いませんが、力の相性が良いらしく、そういう意味では私にとって聖剣士は天職と言えるのですよ」
「……思ったんだけど」
「はい」
「お父さんの外見の若さって、もしかしてベアドとの契約の影響だけじゃない……?」
精霊たちを思い出すと、年寄りの外見をした精霊は一人も見た覚えがない。
「そうだともそうでないとも言えません。何しろベアドとの契約は若い頃にしてここまで来ているので、契約がなかった場合私がどうであったかは当然分かりません。もう一つ、実はどれだけ生きるかもそのときにならないと分かりません」
「あっ、精霊って長生きだもんね」
ノエルやエデは外見通りの年齢ではないし、そもそも現在精霊は死んでしまったら新たに生まれてくることの出来ない状態だ。原因は天使がいないからで、天使がいなくなったのは二千年前。
つまり、彼らは全員もれなく二千歳オーバーということになる……。
「お父さん、すごく長生きする可能性ある……?」
「精霊ほどにはありませんとは断言できます。精霊と人間の間に子どもが生まれたのは私が初めてではないようで、過去に私と同じような存在がいたと聞きました。しかし少なくとも人間側を選んだ存在で今生きている者はいません。寿命は選んだ方に影響されるようです。つまり、私の場合人間の方にです」
だが人間の平均寿命を越えるとしてどれだけ越えるのかは予測できないらしい。
だからセナという養子を取ったのだ。
「長生きするのならそれはそれで、私がエベアータ家の当主としていられるのでいいことではあります。そうでなかった場合は、セナはゆくゆくいい人がいれば結婚するもよし、跡継ぎは養子を迎えるもよしです。自由にしてください」
「う、うん」
そこに話が飛ぶとは思わなかった。
しかし結婚とは、十代ではセナには中々遠い話に思える。この世界の婚期はいつなのだろう。
ガルは結婚していない。理由は聞かなくとも今なら大まかに分かる。精霊の血を継いでいることが関係しているのだろう。
ちらりとガルを見ると、ガルは「そういえば」と言った。
「……ヴィンセントの従者は終わりでしたね」
「うん。今日で」
この流れでそれを思い出すのか。
「ヴィンセントと何か話しましたか?」
「話……今までありがとうございましたって話はしたかな」
「そうですか」
「?」
ガルには珍しい脈略のない流れは短く終わったので、単に本当に突然思い出しただけだったのだろう。
森の入り口まで来て、ガルとの散歩は終わった。
「日が暮れるまでには戻るように。行ってらっしゃい」
「行ってきます」
森に近づくにつれ出会った精霊たちと、森の中へ足を向ける。
「そうでした。セナ」
呼ばれて、振り返る。
「まだ頭に余裕はありますか?」
「? うん」
何か話し忘れ?
「ライナスのことです」
さっきの話題での話し忘れかと思っていたら違った。
ライナス。
「彼の処遇が九割方確定しました。気にしているのではないかと思ったので教えておきます」
メリアーズ家の一件で、北の砦に戻って来なかったライナスの処遇が決まった。