8 ガル・エベアータ
邸の外に出てから少し歩いた。
「セナは、ノアエデンは好きですか」
「うん」
「そうですか」
セナはガルを見上げた。
淡い茶の目は邸の反対側を見ていた。
ノアエデンの邸には塀がなく、明確に引かれた境界線はないが、ぼんやりと認識できる境はある。ノアエデンの邸はノアエデンにありながら人間の住みかだ。
ならば、ガルは精霊の住みかの方を見ていた。
「お父さんは?」
尋ねると、視線が一瞬こちらに下りて、また同じ方を見た。
「私もこの地が好きですよ。ここで生まれました。父と母の関係で、生まれたときから精霊が周りにおり接してきました。彼らがいるこの土地が大切です」
「質問があれば都度言ってください」ガルはそう前置きをし、話をはじめた。
「まずは私という存在の産みの親である母について話しておきます」
セナに何から聞きたいかという希望がない結果、彼は順を追って説明することにしたようだ。
「私の母は元々精霊の愛し子と呼ばれる人間でした。そうです、セナがそうであると思っていた存在です。彼女もまたエベアータ家に生まれこの地に生まれたわけですが、エベアータ家に生まれたから精霊に好まれるわけではなく、母が精霊に愛される存在であったのはただの偶然でした」
「そうなの?」
ガルはセナを見て、首を傾げた。
「好かれるから、ノアエデンを領地にしていられるんだと思ってた」
そういう血筋だから特別な土地を任されているのかと。
ああ、なるほど、とガルはセナの考えを理解した。
「この地を任されることになったときのエベアータ家の人間が好かれたがゆえに任された可能性もありますが、別にエベアータ家の血筋に特別精霊に好かれるものが宿っているわけではありません。好かれることも必須ではありません」
もちろん好まれた方がどちらかと言えばいいだろうが、必須ではないという。
「エベアータ家がこの地にいてする役割を覚えていますか?」
「ノアエデンに異常がないか把握すること」
「そうです」
「こんな世ですからね」とガルは頷いた。
人間にとって精霊は大切で、偉大な存在だ。彼ら含めノアエデンを守ることも、教会の目的に掲げられている。
「目に見えて精霊がいるのは、通常ノアエデンのみになりました。エベアータ家は、そのノアエデンと外界の橋渡しをする役割を担っています」
ここも一つの世界と言えるのだ。天界や人間世界と呼ばれるものがあるのなら、ここは精霊の世界と言える。
「精霊と円滑な関係を結べる人間であれば勤まります。異常がないか精霊と会話して確認できれば問題ないのです。どうせ最も精霊が集まっている森には立ち入りが限られます」
母と自分、そしてセナと続いて立ち入りが許されている存在であるのは偶然であり必然で、どのみち稀な確率で成り立っている。普通ではないとガルは言う。
「特別な土地と言われ、実際特別な土地なのですが、ノアエデン自体を領地運営しているわけではありません。彼らは管理されるものではないからです。──しかし過去、エベアータ家の者の中には、彼らを管理しようとして嫌われてさえいた者がいたそうです」
エベアータ家の人間も他の人間と変わらない。重要なのは人間性だ。
「現在は言わば特別なのです。特に母は精霊の愛し子という特別な存在でありながら、これまでの精霊の愛し子の誰より特別だったのでしょう。精霊王に気に入られたのですから」
特別な存在の中で、さらに特別な存在。
それがガルの母だった。
「現在彼女は精霊に限りなく近い存在となっていますが、私が生まれたのは母がまだ人間だった頃でした」
ガルは森の方を真っ直ぐに示した。
「私はあの森で生まれました」
「精霊の森で?」
「そうです。精霊と人間の間に生まれるわけなので、人間が取り上げるより精霊の領分であったというわけです。邸の方にも出入りはしていましたが、幼少期はほとんど精霊と森にいました。精霊王とは──父とは、幼い頃は普通の親子でしたよ。普通に仲の良好な親子だったと思います」
その言い方では、今、違うと自覚していると言っているようだと思った。
そう思うとは分かっていたのだろう、ガルは「今は違います」と言った。
「……お父さんがした『選択』の影響?」
「それは間違いなく関係あります。まず、母が精霊になることを選んだように、私も選ばなければなりませんでした。精霊として精霊の森で暮らすか、人間としてエベアータ家を継ぐか、です」
「選ばなくちゃいけなかったの?」
「選ぶべきでした。確かに、精霊になってしまえば人間に戻ることは出来ないようですが、精霊になる選択は人生のどこでしても可能ではあります。今からでも。ですが私は曖昧なまま生きていこうとは思いませんでした。この身が曖昧であるからこそ生き方は定めたかったのです」
ガルの性格だ。きっと、彼がいずれどこかで決めればいいという性格であれば違う未来があったかもしれない、今からでもあるのかもしれないが、違った。
ガルには今からでも精霊になるという選択も未来も、もうありはしないのだ。彼はすでに選択を終えている。
分かっていたことであり、今の言い方で確信した。
「人間として生きる道を選んだとき、父は元々精霊なので論外でしたが、母もその道の先にはいないことが見えていました。母はもう選択していたのです。完全に人間を辞め、精霊となったのは私がある程度成長するのを待ってからでしたが、少なくとも私という子どもが生まれる関係を精霊王と結ぶときに選択など終えていたでしょう」
「どうして、」
人間としての道を選んだら、この先に彼らはいないの?
「異なる存在だからです」
そういう感覚があるのですよ、とガルはわずかに目を伏せた。
「歳を重ねるごとに父の子どもである実感が薄くなっていく感覚を覚えることがありました。過ごす時間を積み重ねているはずなのにどうしてなのか。それは彼は他の精霊を子どものように称しますから、むしろ精霊とは異なると自分の性質に気がついていたがために、精霊たちの方が余程彼の子供のように感じることがあったからです。──だから、私が両方の親を得ること、そして父と同じ存在になると考えると選択肢は一つしかないように見えました」
「でも」
「ええ。私はその道を選びませんでした」
そう感じておきながら、ガルはその道を選ばなかった。
彼は微笑し、「別に親を得たくなかったとか、嫌いだったとか、決別したかったというわけでは全くありません」と付け加えた。
「事の判別がつく歳の頃、そういう話になりました。どちらを選ぶかという話です。その過程でエベアータ家についてと母が聖剣士であったということを聞き、ノアエデンの外に出てセントリア学園に通いはじめました。外のことを知るためと、人間として生きる場合どのような生き方をするか知るためでした」
その頃、エベアータ家当主の座は空だった。元々若くしてエベアータ家の当主となっていたシアンが精霊の側の存在となったからだ。
「本当に外に出ることは大切ですよ。当時私はノアエデンの外に出ることがろくになく、泉で外を見ていたくらいだった上に、ここには人間の世の話が入ってこないので、外でこの地の扱いの難しさも知りました」
エベアータ家の当主が不在となり、しばらくしてもノアエデンの領主が新しく着任しなかったのは、それまでエベアータ家がノアエデンの領主であり続けたためだ。
そして、そう簡単に地上最後の楽園の領主は新しく決められなかった。
「外で母の噂を聞きました。精霊に嫁いだという話の類いは真実でしたが、無責任だという声も聞きました。母のことを悪く言われることに不快さを覚える一方で、母に反感を抱きました。確かに彼女は無責任と言えたからです。彼女は精霊となることを選ぶと同時に剣を捨て、エベアータ家の当主としての責務を捨てました。精霊となるというのはそういうことです。精霊は魔獣の類いと戦うわけにはいきませんし、人間の生活に関わっても、政には関わりません」
当時シアンと懇意にしていた人に話を聞く機会があったそうだ。
当時、彼女がそのまま精霊にならず、ノアエデンの領主であり続けるべきだという考えが続出し、話に進展が見られなかったらしい。だが過程はどうあれ、全てを放棄していったという事実になってしまったのは最悪の結果だろうとガルは評した。
「そんな風なことを含め、ノアエデンとノアエデンの外、どちらもの環境を知り、現在の通り私は人間を選ぶことにしました」
「どうして」
何を知り、何を理由に決めたのか。
「戦えるのなら戦おうと思った結果であり、当時ただの反感の結果でもありました」
「ただの反感……?」
「母が辞めたのなら、私がそのようになればいいのです。それで周囲に文句はないでしょう。そういう反感です。……それに当時、別の家の人間がノアエデンの管理を申し出ていたところでした。善意であればどうだったかは分かりませんが、特別な土地を手に入れたいという目的が透けた人物でしてね、ノアエデンに入れたくないと思いました。そういう思惑でノアエデンが見られてしまうことがあるのだと学び、同時にまた母に反感を覚えることになります。母は折角精霊と良好な関係を築けるのですから、精霊にならずに領主としてだけでもいてくれたなら良かったのに、なぜ、と思ったことがありました」
とても複雑で特殊な状況ながら、反発自体は思春期の子どものようでガルには意外に思えたが──ガルは当時その年頃だったのだ。
「思えば、私はエベアータ家の人間であろうとしていたのでしょう。精霊と人間の子であるからこそ。当主となり、聖剣士と召喚士にもなり、エベアータ家の人間として文句がつけられないようにしました。そして結婚はせずとも、エベアータ家を続けていくために君という跡継ぎを迎えました」
呟くように、独り言のように、ガルはそう言った。
「そのように自分の在り方を決めた私ですが、簡単にはいきませんでした」
「何が?」
「選択の完了がです」
選択の完了?
首をかしげるセナに、「最後の最後にあることが起こりました」とガルは言った。
「学園の長期休みのことでした。私は人間として生きる自分の選択を父と母に話しました。反対されましたよ。精霊王は私に精霊側を選んで欲しがっていましたから、元々学園に行く際も反対されていました。最も安全なこの地で暮らせばいいと言われました」
なるほど、簡単にはいかない。親の反対である。
と、セナが思っていたら、違った。事は想像の倍を行く。
「その日のことです。精霊王が私を無断で精霊にしようとしました」
「えっ」
大いに驚いた。
えっ、とガルを見るが、ガルは過去のことだからか何でもなさそうに僅かに笑っていた。
「それはもう反発しましたよ。母の次は父です。初めて彼に怒ったときでしたね。それまで怒ることなど起こりませんでした」
「無断で精霊にされかけるのは怒ってもおかしくない……」
それは完全に精霊王が悪いのでは。大問題では。
セナでも取り返しのつかないことをしかけたことが分かる。だってさっき、精霊になってしまえば、人間には戻れないと話の中で聞かなかっただろうか。
「もちろん、無断で精霊にされかけたことに対してもありましたが」
「えっ、違うの?」
「怒った理由の一つです。当たり前です、自分の選択を丸ごとなかったことにされるところでした。……ですが、一番感情が昂る引き金になったのはそのとき言われた言葉です」
笑っていたのは、やはりさすがに本当の感情ではなかったと分かった。
精霊の森の方を見るガルの目は笑っていなかった。
「『そんなことをしなくてもいい。戦わず、この地で暮らしてくれ』と言われました。その言葉で、残っていた良心と言いますか、理性と言いますか。全て吹き飛ぶ感覚がしました」
口元だけは微笑んだままだ。ぱっと見ただけでは、穏やかに話しているように見える。
セナはガルの横顔を見上げ続ける。
「私はこの地が好きです。愛しています。領主としていながらに戦う術を持っていたなら、精霊を守れるでしょう。この地を。生まれたときから慈しんでくれた精霊を守る力があり、そうしようと思う心があるのなら、そちらを選ばない道はありません」
だから、彼は怒った。
「こちらの気も知らずに、『そんなこと』とは何だ」
強い目が見る先は、精霊の森でも、その中の何に向けられようとしているのか。そこであった過去か。
──知らないガルがそこにいた
「母は精霊と生きることを選んだ。母がそうしたように、『俺』がどういう生き方を選ぼうと勝手だ。権利がある。『俺』は──」
ふっと、目から強い感情が緩む。
「私は、人間として生きる、と宣言しました」
一瞬感じた刺々しい空気は無くなり、見慣れた彼がそこにいるだけだった。
「私は精霊のいる地で生きながら剣を取ることを選ぶ、それだけの話です。精霊として生きるより、人間として生きたい、生きるべきだと思う理由が多かったのです」
ただそれだけだったのですが、という呟きは落ちていった。
「父や母と存在が違えど、親であることは変わらないと考えようとしていましたが、私は少なからず精霊王をある種警戒して生きていくことになりました。彼は今でも私の身を心配しています。精霊とされる可能性があってしまうのです」
精霊王の前科だ。
「そもそも自然と時間がなくなり話す機会がなくなっていったこともあるのですが、接し方を図りかねているのも事実です」
「後悔、してる?」
「いいえ。誰に決められたのではなく、私が選んだのですから」
悩む素振りなく答え、ガルは「これで話そうと思っていたことは話しましたが、何か質問はありますか?」とセナに聞いた。
セナは考えた。聞いた話を思い返して、考えてみた。まだ知りたいことがあるのかどうか。
「ない」
なかった。
当然と言えば当然かもしれなかった。何が知りたいというピンポイントな目的は最初からなかったのだ。
「お父さんのこと知りたかったから、お父さんが話してくれたことで……だからだったのかなぁって納得したところもあったし」
「私と親の距離感ですか」
お見通しらしい。
「誤解がないように言っておきますが、私は父のことを父であると思っていますし、母のことも母であると思っています。嫌ってもいません。母のことは昔は色々思うところがありましたが、それは当時の感情です。父とも衝突し、衝突の影響は今もあり続けますが、絶縁しようとかいう感情はありません。総じて私が未熟だったがゆえのことでもありました」
微妙な距離の理由も納得できたが、今日玄関で見た微妙さが消えたあの瞬間も納得できた。嫌い、拒絶していればあの光景はきっとない。
それに、と、ガルが目を細めた。
「彼がこのような気持ちだったのだろうと現在分かります。思えば、こちらの気も知らずというのはお互い様だったのでしょうね」
ガルはこの地が大切だった。それをそんなことと言われたことにガルはこちらの気も知らずにと怒りを覚えた。
精霊王は精霊王で彼を心配していた。心配していたがゆえに行きすぎたことをしてしまいそうになった。
その精霊王の気持ちが分かると口にしたガルは、
「私は、セナに危険な目に遭って欲しくないと思っています」
と言った。