7 知らない、知りたい
足にしっかりとした地の感覚が戻って、目を開く。
「あら、邸?」
「さっき、ちょうど取り決めがあったから俺が少し到着点を変更した」
なるほど、先程見いた首都のエベアータ家の玄関ではなく、ノアエデンの家の玄関に立っていた。
ぐるりと周りを確かめると、部屋の中にいたメンバーがノアエデンに移動してきたと分かった。ちゃんとシェーザもいる。
「ベアド」
『あっはは』
ガルが、自らが答える前に帰郷の返事をした聖獣に物言いたげに目を向けたが、ベアドはからっと笑っていた。
「ガル、もしかして帰ってくる時間はなかったのか?」
精霊王がガルが直接答えていなかったことを気にしたか、尋ねた。
「精霊に話す時間は作るつもりでしたが、先程終わったのならあちらにいるつもりではありました」
「あら、そうだったの?」
シアンが目を丸くする。
「でも、いられるっていうことではあるのかしら?」
『そうだそうだ。まだ優先すべきことあるだろ、時間作れるなら作れー』
「……ベアド、君は最近お節介ですね」
『ははは。勝手に返事したのはまあ悪かった』
「いいえ、構いませんよ。最近ノアエデンを不在にしていたのでこちらの仕事もあります」
『そういうことじゃないんだけどな』
「分かっていますよ。しかし優先順位と言うのなら、まだ優先される時間があると思います」
ガルがちらりとセナの方を一瞬見た。
「移動時間が削られたのなら、単純に作ろうとしていた時間はあるので、少なくとも今日はいることにしますよ」
『シアン、ガルいられるってよ』
「そう!」
シアンがぱっと笑顔になり、隣に嬉しそうに話しかける。
「嬉しい。ねえ、あなた」
「ああ。先日会えたときは忙しなかったからな」
シアンに同意を求められた精霊王は頷き、微笑む。笑顔と眼差しはガルに向けられる。
「白魔の出現など耳にした。お前が無事で安心している。お帰り、ガル」
「お帰りなさい」
精霊王とシアンの言葉に、ガルは。
「ありがとうございます。ただいま帰りました」
二人に向かって浅く一礼し、あちらから歩み寄り広げられる腕を受け入れた。
精霊王がガルを抱擁する。
実際の距離がゼロだけでなく、以前感じた線もないようであれは錯覚だったのだろうかと思う光景だった。普通に親子だ。
しかし。
見上げていると、精霊王の瞳の色が変化した。いや違う。翳りを帯びた。
「やはり今、ここより外は危険に満ちている。俺は、」
抱擁したまま、囁くような声が聞こえた。
刹那、ガルの表情がわずかに動き、「精霊王」と言葉を遮った。
抱擁が軽く解かれ、距離が生まれる。
「私の選択は終わっています」
「……そうだったな」
精霊王は口元に苦笑を滲ませた。
「だから俺は、お前の機嫌を損ねてしまう」
ガルの機嫌が悪くなったようには思えなかった。
けれど、メリアーズ家の領地で感じたように、物理的にゼロだった距離が少し開いただけのはずが、境界線を感じた。
精霊王はもう一度ガルを抱擁し、離れた。
「あちらに戻るときには送ろう」
「いえ──」
それには及ばないと、ガルは言いかけたのだろう。通常はみだりに精霊の通り道を使うべきではないと考えているようだから。
しかしながら今、彼は途中で返事を止め、少し黙してから「……今回はそうさせてもらいます」と答え直した。
時間は作る予定だったが、現在色々あって忙しいのは事実だからだろう。
「うん」精霊王が微笑み頷いた。
「セナ」
「は、はい」
まさかこちらに話が振られるとは思っていなかった。
声が上擦った。恥ずかしい。
精霊王は微笑ましそうにして、腕を広げる。
「お前もお帰り」
さっきのガルと同じように抱き締められた。
「ただいま、です」
数秒のあと離れた精霊王は何か言いたげに見えたけれど、微笑むばかりで結局口を開くことはなかった。
一方、ガルはシアンからの抱擁も受けたのち、契約獣を呼んだ。
『なんだ』
「シャリオンに連絡をしてくれますね?」
『仕方ないな。俺のせいだしな。了解』
ガルに続いて同じくシアンに抱き締められていたセナは、ベアドが消えたところを見た。
確かに、教会本部の部屋を退室していたシャリオンはいないのである。
「セナ、セナ」
「うん?」
手を揺らされて下を見ると、エデが「森に行きましょ」と言う。
「みんな、セナに会えて喜ぶわ」
「セナ、着替えてから行くといいですよ」
視線を上げると、ガルは「私は邸の部屋にいます」と階段の方に歩いていった。
セナはその背を見ていたが、「セナ?」と呼びかけられて、視線をはずした。
「領主に用でもあるの?」
「……ううん。エデ、ちょっと着替えてくるね」
「じゃあ待ってる!」
「うん。シェーザ、行こう」
手を差し伸べ、猫を拾ってからセナも奥に引っ込んだ。
部屋に着くと、シェーザを下ろして隣室に着替えに行く。ノアエデンを出てから初めての帰省だ。しばらく部屋で染々したくなるが、さっと着替えて部屋を戻ると、白い猫は窓辺に座っていた。
「じゃあ行ってくるね。夕方には帰ってくるから。あ、扉開けておくね」
『セナ、私は猫ではない。扉を通らずとも出られる。そもそも出ようと思わないからどのみち不要だ。お前が戻ってくるまで寝ておく』
そう言いながら窓辺で丸まるので、猫だなぁとやはり思ってしまうのである。
玄関に戻り、待っていたエデたちと外に出た。
天気は暑くも寒くもなく、これが季節ゆえなのかノアエデン特有の気候なのかは分からない。
気持ちのいいそよ風が吹く中、青々とした草原をエデと手を繋いで歩いていく。
先の方には、精霊王とシアンが並んで歩いていた。本当に絵になる並び姿だ。
後ろを振り返ると、邸はもう遠かった。
「うわぁ」
森に入ると、すぐ花が咲いていた。左右に咲き、ずっと先まで続いて道を作っていた。エデが得意そうにする。
森にいるたくさんの精霊たちに話しかけられながら、泉のある場所までやって来た。
「セナ」
声は上から降ってきたので見上げると、青空を背景に、シアンの姿が目に入った。
「シアン、さん」
「あら、お祖母ちゃんって呼んでもいいのよ」
彼女がふわりと隣に座る。
「それはちょっと」
言いにくい。
ガルに当初そうだったように外見が若すぎる。お祖母ちゃんはガルのお父さんより呼びにくい。
えー、どうして?と言われるが、その様子も外見相応だ。何もかもが若い。
「でも、『シアンさん』はとても他人行儀よ。一回お祖母ちゃんって呼んでみて」
きらきらと楽しみに満ちた目を向けられては仕方ない。
「お、お祖母ちゃん」
「なあに、セナ?」
お祖母ちゃん、何歳?
ガルが出会ったときに年齢を四十五だと言っていた。
それなら今は五十手前だ。あり得ない。あれで五十手前。理由があるとしても、やはり感覚としてはあり得ない、なのだ。
しかしこの目の前の若く見える女性はそれより歳を重ねている。彼女はガルの母だから。
「……お祖母ちゃん」
「うん」
「聞いてもいい?」
「いいわよ」
「お祖母ちゃん、今までどこにいたの?」
四年間ノアエデンにいたのに、会ったことがなかった。でも、おそらく彼女はノアエデンにいたはずだ。
「彼が眠っていたから、私も一緒に眠っていたのよ」
彼と示された先には、木の元に座りこちらを眺めている精霊王がいた。
「どうして年単位で眠ってたの?」
「彼が定期的にすることでね、地で眠っている精霊達と同調してお話しするのよ」
単に眠っていたのではないらしい。単に数年も眠っていたのだとすれば、少し、複雑な感情を抱いたかもしれなかった。
「お祖母ちゃんは、お父さんのお母さんなんだよね」
「そうよ」
「元、人間?」
だっけ?
「そうよ」
すんなりと肯定が返るが、雰囲気は精霊そのものだ。
「邸には住んでないの?」
「そうね。私は精霊になったから、ここが家なのよ」
それは、そういう『選択』をしたの?
話しやすい柔らかな雰囲気を纏う彼女に、滑らかに続いて出てきそうになった言葉を飲み込んだ。
「セナ?」
柔らかな声音がセナを呼ぶ。
「聞きたいことがあるなら、聞いていいのよ。あなたは家族なんだもの」
家族。
彼女はガルの母親だ。改めて確認してはいないが、実の両親だ。精霊王と彼女が並んでいるところを見て、彼女が母だと気がついたくらいだ。ガルに面影がある。
一方、セナはガルの養子で血は繋がっていない。
ここで、今までは覚えなかった違和感のような何かを抱えることになる。ガルだけがここにいないという光景に。
「ううん、他にはないよ」
きっと、何も知らないから聞きたくなる。何も知らないからだ。
「シアンはセナのことを知りたかったらわたしに聞くといいの。わたしの方がセナといっぱいお喋りしてるんだから」
いつの間にかもう片方の隣に座ったエデが泉で足をぱちゃぱちゃさせながら言うと、「エデ、何張り合ってるの」とノエルがエデの隣に座った。
「大体、セナがいるのにエデに聞く必要はないと思う」
可愛い精霊と美しい精霊を両側に、いる場所がいる場所だからか一所に留まっているからか、精霊が集まって来はじめた。
……と思ったら、ノエル曰くエデが知らせて回ったらしい。どうりで泉に着いてから少し、姿が見えなかったのだ。
一時は見上げれば精霊が周りに漂って、喋っては去っていく状況も落ち着いた頃。
泉に大抵いる精霊と話していると、エデがセナに寄りかかって寝てしまった。
エデの頭を撫でながらぼんやりしていたら、「セナ」ノエルの声に呼ばれた。
「シアンと何かあった?」
「……そう思うの?」
少し驚いたが、それは出さずに聞き返した。
「セナは時々、自分の中に考えていることをしまい込む。さっき、シアンと話していて何か飲み込んだ言葉があっただろう」
「ノエルは、よく見てるね」
「いつもエデが喋っているから、僕は大抵見ていることが多い。そうすれば自然と気づきは多い」
そして、とノエルは付け加える。
「領主が親についてセナに語った様子がないとは思っていた」
ノエルは泉を見ていた。足が動いて水が微かな音を立てるけど、子供のような仕草だと感じなかった。
「ノエル」
「うん」
「精霊に夫婦って関係あるんだね」
水色の瞳がこちらを見る。
「天使はないってベアドに聞いたし、聖獣もないっぽいから、精霊もそうだと思ってた」
「精霊には、そうだね、人間の夫婦に近い関係性はある。でも、シアンは特別だ」
「どう特別なの? 元は人間だったから?」
「元は人間であったことも挙げられるけれど、結ぶ関係性は同じだ。特別なのはその先。精霊がパートナーを持っても、子どもが生まれることはない。僕たちは天使に産み出され、王を主として地上に存在する」
しかし精霊王とシアンの間には子どもがいる。
「そういう意味ではガルも特別なんだ」
その存在そのものが。
「特別な『人間』だ。彼は精霊になることを選ばなかったから」
この精霊も知っているのだ。その瞬間を。ガルという存在の根となる部分を。
彼がこの土地ノアエデンで生まれ、育ったのなら当たり前なのかもしれない。精霊は全てを知っている。
「領主に用があるなら、僕がエデを見ておくよ」
言いつつ、ノエルはよいしょとエデを自らの方にもたれるようにした。
「……わたし、行ってくる」
「うん」
「エデが起きたら、また戻ってくるって言っておいて」
「慌てずに、ちゃんと靴ははいて、転ばないように」
「うん」
泉から足を出した瞬間に足は乾いていた。もたもたと靴を履いて、立ち上がる。
「ありがとう、ノエル」
うん、という返事を後ろに、セナは走り出した。
花の道を駆けていく。
ガルとの時間は取れずここまで来て、おそらくガルはさっきの話の流れ上、精霊との時間を優先させてくれたのだろう。
そうしたら、次は精霊が促してくれた。
じゃあ、ガルの元に行こう。
「セナ、急いでるの?」
「そんなに急いでどこに行くんだい?」
走っていると、精霊がふわふわ浮いてセナに尋ねた。
「お父さんのところ」
「領主の」
「急いでいるなら、連れて行ってあげよう」
「──わ」
体が浮いて、セナは運ばれていく。
森の中を、草原を飛んでいく。
「はいどうぞ」
あっという間に、邸がすぐそこというところに到着した。
「ありがとう」
「後で会いに来て」
「うん」
会いに行く。精霊に手を振って、セナはまた走り出す。
邸に入って、ガルの部屋を目指す。
──ガルもセナに過去を聞かなかった。セナもガルに聞かなかった。
結果、暮らしを共にしていたはすが互いの『プライベート』と呼べる部分を知らない親子が出来上がった。
家族、という言葉を聞いて考える。自分の家族は一体誰だろうか。
前世の家族は中本千奈の家族だ。
では今の自分の家族は誰だろう。体の血縁か、戸籍上の繋がりか。いいや、そんな形式的な判断をするのではない。
知ろうと思う。聞きたいと思う。
話の続きを、今聞きたい。
「お父さん!」
ノックをするのももどかしく、扉を勢いよく開けた。
『お、セナ。帰ってくるの早いな。エデがごねなかったか?』
戻ってきていたらしいベアドが現れるが、ガルが「ベアド」と制する。
「セナ、何かありましたか」
「お父さんのこと知りたい」
ガルは完全に虚を突かれた表情になった。動きも止まる。
ベアドも目を丸くした。
「話の続きしてくれるって言ったの、今聞きたい。知りたい」
先に状況を理解したのは聖獣の方だった。
『あーあ、お前から言わないから先に言われたなぁ、ガル』
契約獣に視線を向けられ、ガルが動きはじめる。持っていたペンを置く。
「外に出ましょうか」
『俺なら消えておくぞ?』
「そういう問題ではありませんよ。私が外の空気を吸いたいだけです」
ガルがセナが開け放ったままだった扉から出て、セナを促す。
「私が時間を作れなかったので、色々順番が前後してすみません。こちらもノアエデンにセナが帰る前には話しておきたかったのですが。……母か父のどちらかと話したのですか?」
「少しだけ」
「何が聞きたいかという希望はありますか」
「知らなさすぎてない」
外へ行くべく廊下を歩きながら、ガルが微笑した。
「そうですね、私は何も話しませんでしたからね。しかし突然勢いよく来ましたね。何か起きたのかと思いました」
「ごめんなさい。ノエルがお父さんに用があるんじゃないかって言ってくれて、走って来た」
「ノエルが。……彼は聡いですからね」
淡い色の目が細められた。ガルも、ノエルのその面に接したことがあるのだろうか。
「少し長くなるかもしれませんが、一から十まで話しておきましょう。私と母の関係性、私と父である精霊王の関係性、私がした選択について」
玄関の扉が開いた。風が吹き、ガルの衣服が風に靡く。
「話の続きをしましょう」
ガルがセナを外に促した。
その姿は、背景の広大で、美しい楽園の風景がよく似合っていた。