9 剣の時間
ガルの留守中は自習、これから必要になればまた考えましょう、という状況の通り、ガルが勉強の先生を兼ねていた。
彼が講義をし、セナに幅広い知識を授けてくれる。
そして、これまでは座学と手始めの体力作りのランニングだったところ、こんなことも始まるようで。
「剣を持ったことは」
「ありません」
「分かっていました」
屋敷の庭に出ていた。
もっと外との境界線なんてないから、庭に位置する場所と言うほうが良いかもしれない。
セナはランニングに出かけるときと同じ服装をし、前に立つガルもいつもより動きやすい格好という印象の服装をしていた。
「どうぞ」
差し出されたのは、剣の形をしたものだった。
「ご心配なく。真剣ではありません」
いやいや、いきなり真剣を渡されると躊躇うレベルがこれでは済まない。
剣は木で出来ているようだった。切れることはない、模造剣。
受けとると、それなりに重い。
「前に説明したように、君に目指してもらう職の一つに聖剣士があります。今日から、剣術の稽古も始めていきます」
ガルも、セナと同じ本物ではない剣を持っていた。
──ガル・エベアータは、名家や貴族という言葉が似合う人だった。
貴族で、素敵な屋敷で優雅にティーカップ片手にゆったりしているのが似合う容姿と雰囲気を持つ。
そんな彼が、模造剣とはいえ、剣が似合うのが不思議だった。
木剣を持つ姿のバランスがいい。
「バランスが悪いですね」
自分が思っていることと、正反対のことを言われた。
ガルが、こちらを見ていた。
彼のバランス、とは何のことを言っているのか分からなかった。何しろセナは、ガルの見よう見まねでも構えてさえいない。受け取ったときのまま、両手で剣を持っている。
「まあいいでしょう。──手始めに君の素質を計ります」
前世の記憶では、ランニングとは別の意味でちっとも馴染みのなかったものだ。
剣士と名がつくのなら、剣で戦う職。
セナは、ぎゅっと剣を握りしめ、ガルをまっすぐ見上げた。
「よろしくお願いします」
と。
「良い姿勢です」
では持ち方から指南しましょうか、と、剣の稽古の時間が始まった。
再度思い出すが、セナの人生、前世十七年とこの世界での一年、剣どころか運動とも無縁の日々だった。
前世はほとんどベッドにいて、激しい運動云々以前のお話だった。この世界での孤児院での生活も、ハードと言えばハードだったものの、運動と言うより労働……?
つまり、運動神経を使う機会はなかったということで。
セナ自身、ドジの類いではないとは分かってはおれど、自分の剣のポテンシャルなど知りようがなかった。
そして、剣の稽古初日の時間が終わってみても、ポテンシャルがいかほどかは全く分からなかった。
「素人なら、こんなものでしょう」
汗一つかいていないガルが、そんな批評を寄越した。
こんなもの、とは少しでもいい意味なのか、落胆か。どっちだ。
気持ちが目に表れていたのかもしれない。
「これから鍛えていくので、最初は全くでむしろ当たり前です。もちろん最初を抜きにして全く駄目な人間はいます。そういう人は芽が出る可能性さえありませんが、君は問題ありません。今は全くでも、素質はあります」
ポテンシャルあり。
そうですか、とちょっぴりほっとする。
「反応速度も中々いいです。……しかし」
しかし?
「意外と体力がありますね」
何か悪い要素でも来るのかと思ったら、以上の内容に、セナは瞬く。
しかし。
言われてみるとそうかもしれなかった。
意外と。
ランニングをし始めた頃を思い出した。孤児院で一年生活をしてきて、食事からして、筋肉も体力もつきようがない。毎日のんびりする暇なく、こき使われていたとはいえ……。
にも関わらず、息は切れ疲れたけど、最初からあれだけ走れたのは思えば不思議だ。
「ガル様」
「私はいいです。──セナ」
「はい」
思考が途切れ、意識が完全に現実に引き戻された。
「どうぞ」
タオルが差し出された。
見ると、執事がもう一つタオルを持ち、いつの間にか近くに立っていた。
どうもガルは汗一つかいていないので、渡してくれたようだ。
ありがとうございますと受け取り、顔を拭う。
タオルは優しい、いい香りがする。
まあ、何にせよ体力があるのはいいことだなぁ。と、さっきまで考えていたことに結論をつけながら。
「……もう一つ、言っておくことと聞いておくことがありました」
「何ですか?」
タオルに埋めていた顔を上げる。
ガルが、セナを指さした。
「君の首の番号、気になって調べたのですが」
首の番号というのは、うなじにあった「077」だ。
落書きではなく、洗っても消えない刺青のように肌に書かれた数字。
ガルに言われるまで気がつかなかったように、生活していて困ることも何もないので忘れかけてしまっていた。新しくやることが出来たというのが大きそうだけれど。
その番号を調べたとガルは言った。
番号の意味が分かったのか──
「セナ、つかぬことを聞きますが」
「はい」
「奴隷であったことはありますか?」
「……どれい……?」
とは、何ぞや。
音が音としてしか認識できなかったセナに、ガルが「実は」と述べる。
「肉体に番号を刻み付けられ、管理される存在に二つ心当たりがありました。一定以上の罪を犯した罪人と奴隷です。罪人はさておき、奴隷という存在は規制してなくそうとしても、残念ながら裏に隠れて居続けます」
ようやく、音の連なりが意味を持つ語句に変換された。奴隷、だ。
それもまた、話にしか聞いたことのない存在で。
「罪人の番号の付け方は場所によって微妙に異なるのですが、大まかには法則として定められています。セナの首の番号は、単純すぎるのです。となると、残るのは奴隷という可能性なのですが」
心当たりはありますか、と再度聞かれて。
「ない、ないです」
音が鳴りそうなくらい、勢いよく首を横に振った。
奴隷だって?
この世界に来てからも、聞いたこともなければ見たこともない。
「君に心当たりがないのは何よりです」
セナの答えを受け、ガルは疑うでもなくあっさり頷いた。
「ただ決してアザではないようなので。心当たりがないのも……少々懸念点ですね」
ガルは麗しい容貌を、少々気がかりそうにした。
「君が過去に酷い目に遭って記憶が飛んでいる可能性もあります。体には傷跡の類いはないようですが」
体に傷跡の類いがないとなぜ言えるのか。
口振りでは、腕とかという話ではなくて、体全体の話をしている。
……お風呂か!
初日のお風呂のときだな!
いやそうではない。それより。
「いや、ない、ないです」
そんな記憶があってたまるものか。
大体、一年間の記憶はばっちり……。
…………。
確かに、一年の記憶はある。
一年前、突然訳の分からない世界にいたのだと思っていた。
だけれど、
──わたしは、ガルの言うとおり今記憶がないだけで、何者かとして、この世界で体がこの年齢になるまで過ごした記憶があるのかもしれない……?
「……でも」
それにしては、全然そんな感じがしないし、奴隷っていう可能性がちっとも予感もないししっくりこないのはどうしたことか。