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8.望ましい活性

 それから一週間後、哲也は実験室の時計をまたチラッと見た。時刻は午後四時を五分過ぎたところであった。これで何度目か数えられないほど時間を気にしていた。

「いつもなら、そろそろ結果が出たと連絡があるはずなのにな」

 哲也は独り言を言っている自分に気付いて、なんとなく恥ずかしさを感じた。NMR測定の後、マススペクトルという化合物の分子量、簡単に言えば、その化合物特有の重さみたいなものであるが、その分子量を調べた結果、間違いなく目的としていた化合物であることを確認した。それを十分に乾燥し、新たに合成された化合物に狙っている活性があるかどうかを確認する実験を薬理担当組織の研究者に依頼していたのであった。


 薬は最終的には人間に使用するのであるが、数十万から数百万もある化合物から良い活性がある化合物を篩にかけて、薬になるヒントを与えてくれる化合物を選び出すには、ある程度簡便に数をこなせる方法を用いなければならない。そんな場合は、先ず試験管の中で望んでいる作用を示すかどうかを調べるのが普通である。これを『イン・ビトロ試験』と呼んでいる。『イン・ビトロ試験』にも主に二種類あって、生きている細胞を使わないで、酵素反応とか、受容体と呼ばれている情報伝達物質がくっつくような蛋白質などを用いた活性評価法である『無細胞系』と呼ばれる方法と、培養され生きている細胞を用いた『細胞系』とがある。今回は哲也が自信満々だったため、薬理研究者は『無細胞系』をやらずに、一般的にはそれよりランクの高いと考えられている『細胞系』で活性評価を行なってくれていたのであった。


 いつもより二十分遅れで電話が鳴った。

「はい、合成の太田です」

 哲也は自分を押し殺すように意識的に低い声を出して応えた。

「薬理の永倉(ながくら)です。太田さんの特別化合物のアッセイ結果が出ましたよ」

 アッセイとは『ある方法によって化合物などの活性を測定する』というような意味である。哲也が合成した化合物の活性評価を頼んでいた永倉順平(じゅんぺい)からの電話であった。

「それで、活性はありましたか?」

 哲也は高い活性が絶対に出るとの確信を強く持ってはいたが、電話している相手の薬理研究者は、哲也にとっては裁判官みたいな存在であった。決して高飛車だと受け取られないように十分配慮したつもりで静かに訊いてみた。

「いやー、あるなんてもんじゃありませんよ。これまでの化合物の中で抜群に高い活性でしたよ。太田さん、やりましたね。データはたった今、イントラネットでお送りしましたので、じっくりご覧ください」


 哲也は永倉に労いの言葉をかけると、直ぐに自分のパソコンのメールを開き、永倉の送ってくれたデータを眺めた。本当に素晴らしい活性であった。昨日までのデータの中で一番活性が高かった化合物と比較して表示されていたので、今回哲也が合成した化合物がずば抜けていることは一目で分かった。肌理(きめ)の細かい実験をすることで仲間内では評価の高い永倉らしいデータであった。哲也は直ぐに受話器を取ると永倉の実験室の内線番号を押した。永倉は待っていたかのように一回目のコールが終わると直ぐに電話に出た。

「永倉さん、いつも分かり易くデータを表示していただいて有難うございます。本当に活性は抜群ですね。早速、病態動物での活性評価を行っていただけませんか?」

「はい、もちろんです。化合物の量は十分ありますので、これから直ぐに病態動物への投与を行うつもりでいるんです。数日後には結果が出ると思います。期待していてください」

「本当に永倉さんはやることが早いですね。よろしくお願いします」

 笑顔のまま哲也は受話器を置いた。



 数日後、再び長倉から電話があった。

「太田さん、病態動物でも素晴らしい活性を示しましたよ。データは既にお送りしてありますから、ゆっくりとご覧ください。本当に素晴らしいデータです」

「有難うございます。それで、簡単な安全性と代謝関係のデータを取ってもらうよう依頼していただけないでしょうか?」

「勿論そうします。実は予め安全性と代謝とそれから物性の担当者には声を掛けてありますので、このデータを見せれば、直ぐにやってくれると思いますよ。楽しみに待っていて下さい」

「有難うございます。いつものことながら、永倉さんの業務の進め方は完璧ですね」


 哲也は受話器を置くと、自分のデスクの上のパソコンで永倉が送ってくれたデータをじっくりと眺めた後、深呼吸を一度行なってから周囲の合成研究者に大声で薬理試験の結果を伝えた。哲也と同じ研究プロジェクトを担当している青田(あおた)(のぼる)は目を輝かして大声で応えてくれた。

「太田さん、やりましたね。本当に良かった」

 青田は心底嬉しく感じていた。同室の他の合成研究員たちはちょっと儀礼的に喜んでくれてはいたが、特別素晴らしいとかの感情が湧いてくるものではなかった。それは当然ともいえる反応であった。同じ実験室でいつも顔を見合わせて合成実験をしているとはいえ、担当しているプロジェクトが違うのである。自分のプロジェクトに没頭するがゆえに、他のプロジェクトへの関心は相当低くならざるを得ないことに対して誰も非難できない状況なのである。それだけ心血を注いで研究し続けていかなければ、新しい薬の種となる化合物を見出すことなどできないのが、この世界の状況であった。


 化合物の活性が素晴らしいものであったとしても、それで直ぐ薬ができることなど皆無である。活性以外に人に投与する薬には必要な要素が山ほどある。それを一つひとつクリアしていかなければ、薬にはならない。従って、非常に良い活性がある化合物を見つけたとしても、それが薬になる確率は著しく低いのである。哲也の化合物も例外とは言えないのであって、ある程度経験を積んだ製薬会社の研究者であれば、上司から特に言われなくても何度かの痛い経験を通じて誰もがこのことを十分に知っていた。

 良好な化合物探しの段階で行う安全性や代謝などの研究は、探りを入れる程度のことを行なうだけであり、本格的な研究はもっとステージが進んだ段階で実施されるのであるが、今後研究を進めていけるかどうかを決める際の重要な要因になるだけに、この段階での簡単な安全性や代謝の試験結果は研究部門の合成や薬理の研究者にとっては非常に重要な意味を持っている。



 六月初旬となり、そろそろ入梅宣言が出そうな空模様が続いていた。哲也の気持ちは再びこの天気に比例するような状況に戻ってしまっていた。哲也の化合物に抜群の活性が認められた時点では満ち溢れていた自信も時間の経過とともに次第に揺らぎ始め、もうそろそろ安全性と代謝の探り実験の結果が出る頃になると、すっかり自信は消え失せ、あの時の強い気持ちはどこかに飛んでいた。哲也は再び以前のように、出社することが負担に感じられるようになっていた。


 どこか遠いところで電話のベルが鳴っているように思えた。哲也が電話を取らないので、隣の席の青田が受話器を外して話し始めた。

「太田さん、永倉さんからですよ。例の化合物の安全性と代謝の実験結果が出たそうです」

 そう言って受話器を哲也に渡すと、青田はニヤニヤしながら太田の表情の変化を覗き込むようにして見ていた。哲也は我に帰ったかのように、急に俊敏な動きになって受話器を青田から奪うように受け取った。

「はい、太田です。それで、結果はどうだったんですか?」

 挨拶は省略された。永倉もそんなことには無頓着でよい、という感じで応じた。

「丸です。それも二重丸ですよ」

「それじゃ、毒性もなく、代謝パターンも良さそうなんですね?」

「まあ、まだ予試験の段階なのですが、今のデータからは何の心配もないそうです。代謝パターンなどは、教科書にでも掲載したいほど素晴らしいものだそうですよ。太田さん、今回は本物ですね。本当にやりましたね!」

 永倉の声もいつになく上ずっていた。

「有難うございます。本当に安心しました。永倉さんのお蔭です」

 哲也は、受話器を置くと、隣の席の青田に声をかけた。

「おい、青田、今日は飲みにいくぞ!」


 研究部門の合成研究者にとって、この日起こったような状況は研究者生活の中で頻繁にあるものではなかった。これまでの長い苦労が花開こうとしている、研究者にとっては貴重な通過点であった。本当は周りの人たち全員に祝してもらいたいところであるのだが、他の人たちはそれどころではなく、自分たちの抱えているプロジェクトで現実と格闘している状況であった。この達成感を味わえている同じテーマの担当者だけでお祝いするしかなかった。午後五時が来るのを首を長くして待った後、永倉と、彼と一緒に薬理研究を行っている若い研究者も誘って、四人で市内の繁華街に繰り出した。


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