7.幸運のスポット
翌朝、まだ眠い目をこすりながら出社し、実験室に入っていくと哲也より若い合成研究者二名が既に実験を始めていた。
「お早う」
と声を掛け、自分のデスクに座り、実験ノートを開いて昨夜の自分の実験のおさらいを行なった。哲也は今自分が達成したい実験目標がなかなか現実のものとはならないもどかしさを感じていたので、状況はノートなど見なくても全て頭に入っていた。朝実験室に入った時に必ず行なっている一種の儀式みたいなものであった。しかし、単なる儀式とばかりは言えないこともあって、いくつもの実験を並行して行なっている時などは、丁度良い確認作業になることもしばしばあるので、この習慣を止めようとは思わなかった。
昨夜、加温を止めて室内の温度のまま今朝まで継続しておいた合成反応のチェックから仕事を開始した。昨夜と同様の操作をしてプレートを展開槽にセットし、十分程してから取り出して、ドライアーで乾燥させ、紫外線を当ててスポットの状況を観察した。非常に薄くではあるが目的物が出てくると考えている所にスポットが見え、それが昨夜より大きくなっているように感じられた。少しは期待したが、いつも自分の都合の良いように考え勝ちで、その直後に失望感を味わうことが頻繁にあったので、かなり懐疑的ではあった。それでも少しは期待して確認のための希硫酸液のスプレーを行い、ホットプレートの上で過熱した。
「間違いない!」
望んでいる化合物と思われるスポットは昨夜より確実に原料のスポットと比較して大きくなっていた。反応が思った方向に進んでいることを哲也は確信した。小躍りして反応温度を昨夜より十度上げて反応を継続させた。
いつもは直ぐに時間が過ぎていってしまうのに、なかなか時計の針は進まない。デスクに戻り、読まなければいけないと以前から思っていた合成関係の文献にパソコンからアクセスし、目で追い始めたが、いっこうに頭には入ってこない。何度も何度も同じ箇所を読み返した。それでも何が書かれているのかほとんど理解できなかった。三十分が限度だった。全く理解できないで終わった文献をパソコンから消し去り、反応液のチェックを慌てふためいた感じで行なった。
薄層プレートが展開される十分間が非常に長く感じられた。いつもより少し短時間ではあったがプレートを展開槽から取り出すと、ドライアーを激しく振ってプレートを乾燥させ、スポットを観察した。
「間違いないようだな。さっきよりスポットは大きくなっている」
哲也は言葉に出し、もう一人の冷静な自分との間で相互確認を行なった。直ぐに希硫酸をスプレーし、ホットプレートの上で過熱した。望んでいる化合物と思われるスポットが哲也の目にしっかりと飛び込んできた。
「待っていたよ。本当に!」
哲也は心の底から言葉を発した。
そのまま反応を続けると、昼過ぎには原料のスポットは消え去り、ほとんどが目的物と思われるスポットになっていた。大喜びで反応の後処理を行ない、午後三時頃には目的物の純度を上げるために、細かく粒子化されたシリカゲルをカラムと呼ばれる直径二センチ、長さ五十センチくらいのガラス製の円筒状の容器に詰め、精製を始めた。一時間も経たないうちに精製を終了し、有機溶媒に溶けている純度の上がった目的物をエバポレーターで濃縮乾固した。目的物が入った茄子型のガラス製のフラスコをそのまま減圧乾燥機に入れ、加温しながら乾燥した。
乾燥を待つ間、化合物の構造を確認するための核磁気共鳴スペクトル、略してNMRと呼ばれる装置を使う準備を行なった。自分のパソコンから機器の使用予約を行ない、目的物である試料を溶解した液を入れる細いガラス製の管とその蓋を準備した。乾燥が何とか終わった目的物のごく少量をスパテルと呼ばれる耳かきみたいな金属製の匙ですくい取り、細いガラス管に慎重に入れ、NMR測定用の溶媒を注いで溶解し、蓋を閉めて測定室にすっ飛んで行った。NMRの測定は磁場の非常に高い所で行なわれるので、金属の持ち込みはご法度であるし、勿論ペースメーカーの使用者は近寄ってはならない場所である。哲也はいつものように財布を机の引き出しにしまい測定室にやってきた。
測定はものの五分もあれば熟練している哲也達には十分であった。ディスプレーに表示されたチャートを自分のパソコンに転送してから念のため専用用紙にも打ち出し、簡単に解析を始めた。目的物であれば観察されなければならない場所にきちんとピークが出ていた。乾燥不十分のために小さく溶媒のピークも出ていたが、原料由来のピークは消え、哲也が願っていた目的の化合物を示唆するピークだけが観察できた。狙っていた化合物が合成できたと思われた。
物凄い達成感を味わっていた哲也であったが、次のNMR測定の順番の人が後で待っていたのにようやく気が付いた。
「あっ、済みません。直ぐ、試料を取り出しますから」
そう言うと、装置の回転を止め、フォルダーから自分の試料を取り出して、次の研究者に渡した。
「合成、上手くいったようですね。良かったですね」
「分かりましたか?」
「夢中でチャートを見ていたし、そのうちニコニコし出したので、分かりましたよ。すごく集中している様子だったので、声も掛けられませんでした」
「申し訳ありませんでした。」
哲也はペコっと頭を下げると、大切な資料とチャートを持って測定室を後にした。