5.合成担当研究者
二〇〇四年五月下旬、東京よりも敷地が広く取れるつくば市では比較的高層の部類に入る六階建の研究棟の最上階の北側に設置してある喫茶コーナーで、太田哲也は窓から外を眺め、街路灯によってくっきりと浮かび上がった道路をじっと見た。
「あの道に立つことさえできれば、こっちの世界から脱出できるんだよな」
哲也はいつも夜遅くここに来るとそう思った。哲也の腕時計の針は、既に午後十一時半過ぎを示していた。一定の間隔で道の両側から光を放っている街路灯は、あたかも哲也に『逃げ道』を指し示しているかのように見えた。
「あそことこことでは全く異なる世界が存在している」
この研究棟の中にいると哲也にはそうとしか感じられなかった。
「いつまでそんなところに拘って居続けるんだい? いい加減にこちらの世界に来たら」
街路灯で示された楽園への誘導路は哲也にそう囁いているように感じながら、自販機で買った紙コップ入りのカフェオレを飲み干した。ここの自販機で販売されているカフェオレは特に砂糖の増量ボタンを押さなくてもかなり甘かった。いつもなら、哲也は甘過ぎると一言文句を言うのであるが、この時間になると、むしろ体から疲労を取り除いてくれるような気になって、甘過ぎる感じはしなかった。
いつまでもバルコニーで油を売っていることはできないような気持ちになって、手にしていた紙コップを握り潰すと、備え付けの専用のゴミ箱に力を込めて投げ入れた。ゴミ箱や紙コップのせいではないのに、思わず当たり散らしているかのような行動をとっている自分に気付いた。自分の感情をぶつける相手が違うことは十分に分かってはいるものの、何かに捌け口を求めないではいられない気持ちが迸った。
研究室に戻ると、哲也は反応中の容器にキャピラリーという糸のように非常に細くしたガラス製の管で反応液をごく微量吸い上げ、ガラス板の上にシリカゲル微粒子を薄く敷き詰めた薄層クロマトグラフィー用のプレートにスポットした。昨日から取り組んでいる反応が思うように進まず、先ほど少し反応温度を上げてみたのであった。ドライアーを使わずに自分の呼気で簡単にスポットした所を乾かし、展開槽と呼ばれる容器の中にセットした。
展開槽は長方形で薄めの菓子箱の横の面を下にして不安定な形で立てたような形状をしていて、中の状況が観察できるように透明なガラスでできている。中には適切と判断された有機溶媒の混合物が底に少しだけ入れられ、濾紙を片面だけ入れておいて展開槽の中が有機溶媒で飽和されるようにしてある。ここに反応液をスポットしたシリカゲルプレートを立てかけておくと、いくつかの成分が次第に分離されていって、反応状況を知ることができるのである。
十分程してからプレートを展開槽から取り出すと、今度はドライアーを使って乾燥させ、二五四ナノメーターの波長の紫外線を当ててスポットの状況を観察し、直ぐに確認のために硫酸を希釈した液をスプレーし、ホットプレートの上で過熱した。望んでいる化合物と思われるスポットはほとんど出来ておらず、大半は原料の試薬のスポットであった。
「やはりダメか」
哲也は溜息をついて、遠くを見つめるような顔付きになった。実際は何も見えていない、途方にくれたような状況であった。暫くしてから気を取り直したように、一時間ほど前にチェックした薄層プレートと比較してみた。望むスポットは今回チェックしたものの方に微かに認められるような気がした。
「よし、今日は帰ることにしよう。明日、もう少し反応温度を上げてトライしてみよう」
そう呟くと哲也はゆっくりと、というより疲れて早く動きたくても動けないという状況が露わになった様子で帰り支度を始めた。
この会社では化学実験の安全確保のため、夜間の加温反応は原則禁止されていた。どうしても加温したい時は、予め自分の上司に書面で了解を得ておかなければならなかった。哲也の上司の臼井良平はこの日は既に帰宅していた。加温を止めて室内の温度のまま明日の朝まで反応を継続しておくことにした。哲也の合成実験室には哲也以外に五人の研究員が席を置いていて、他の研究員も先ほどまで哲也と一緒に頑張っていたが、今日は既に皆帰宅していた。哲也は廃棄する有機溶媒を入れておくポリタンクの蓋をきちんと閉め、先ほど使用したホットプレートのプラグをコンセントから抜き、他の研究員のドラフトの扉が閉まっていることを確認後、実験室の電灯を消した。
合成実験棟の出入り口から駐車場に向かいダラダラと歩いた。さすがに午前零時を回っているので車の台数は少ないものの、それでもまだ十数台の通勤用車両が駐車されていた。いつものこととは言え、やはり異様な光景であった。哲也は自分の車に辿り着くだいぶ手前で車のキーのドアの開閉用スイッチを押した。車内に灯りが点くと、少し小走りになって車に近付きドアを開けた。車に入るなり哲也は大きな溜息をついた。これまでの時間身を置いていた環境で吸い込んだ空気を全部吐き出したい気持ちであった。今こそ別の世界に逃れることができる時が来たとでも言うかのように。