44.多様な視点
次の日は文化の日であった。流石の洋介も愛に気兼ねして筑波ホビークラブの受付に入りっきりで本来の業務に励んでいたため部屋籠りはできなかった。深夜になってから東の外れの小部屋に入った洋介は、父芳雄のアドバイスを大いに参考にして、もう一度じっくりと考え直してみた。
次の日の夜、ようやく受付に顔を出した洋介は受話器を取り上げ、鹿子木に電話した。
「ああ、鹿子木さん、今晩これからこちらに来られませんか?」
「何か、良いアイデアが浮かんだんですか?」
「いや、特にそういうことではありませんが、もう一度捜査の方向性について考えてみたいと思ったものですから」
「分かりました。溜まっている手元の書類を片付けたら、そちらに伺います」
鹿子木が筑波ホビークラブの受付に顔を出したのは午後十時少し前であった。受付には首を長くして待っていた洋介の他に、心配で帰ることができなかった愛もいた。
「鹿子木さん、お疲れのところ済みません。もう一回容疑者になり得る人物の洗い直しをしたいのです」
「洗い直すって言ったって、岩宿に酷い目に逢わされた人物はもう残っていませんよ。あの研究所以外の人だったら別でしょうけど」
「確かにそうなんですけど、実は先週末、父にアドバイスを受けたんです」
「あっ、神尾お父さんからアドバイスがあったんですか。それはいい。で、どんな内容だったんですか?」
洋介は芳雄から訊いた事を、研究の世界をよく知らない鹿子木にも分かるように段階を踏んで説明した。
「そういうものですかねえ。研究っていう職業に就く人たちは、我々とはかなり変わった思考をするんですね。だけど、待てよ。自分ではまだ酷い目に逢ってはいないけど、身近な人がとんでもない扱いを受けた人なら、今直ぐにでも何人か挙げることができますよ」
「そうでしょう。鹿子木さん、そんな人たちを一緒に挙げてみましょうよ」
「先ずは、太田哲也の化合物の活性を測っていた永倉順平ですね。それから太田の下で合成を担当していた青田昇も挙げられるでしょう。片桐博光のことを尊敬していた江曽島靖もそうですね。あと、安田順一、帯織裕一郎、それから夜須健司の三名については、まだその観点での捜査は全くしていませんでしたね」
「ちょっと考えただけでも、まだまだ結構な数の人が未捜査で残っていましたね」
「そうですね。一つひとつきちんと捜査を積み上げていくことが重要でしたね。分かりました。早速取り掛かってみます。神尾さん、有難うございました。神尾お父さんにもよろしくお伝えください」
鹿子木はそう言うと、来た時よりは少し元気を取り戻したような動きで筑波ホビークラブから帰っていった。
翌朝、鹿子木はG製薬会社つくば研究所の小さな会議室にいた。目の前には安田順一が座っていた。
「安田さん、度々ご足労を願ってしまいまして申し訳ありません。まだあの事件が解決に至っておりませんので、我々としましても何とかしたいと考えております。そこで、これまでとは捜査の進め方を変えてみたいと思うのです。これまでは岩宿さんから直接酷い目に遭った人を調べてきましたが、今回はまだご自分は安泰ではあるものの、大変親しい人が岩宿さんから酷い攻撃を受けたような人に関して捜査してみようと考えているのです」
「そうですか。どうやら警察の捜査は難航しているようですね。分かりました。で、私は何を話せばよいのでしょうか?」
「先ず、岩宿さんに酷い目に逢わされた人なんですが、安田さん、太田哲也さん、帯織裕一郎さん、夜須健司さん、それから片桐博光さん以外に、同じような目に遭った人をご存じないですか?」
「岩宿さんにある程度虐められた人は数に限りがない程いると思いますが、私たちと同じくらい酷い仕打ちを受けた人となると……、うーん、他には思い浮かばないですね」
「そうですか……。それでは、安田さんが酷い目に遭った時、安田さんのすぐ傍で一緒に
研究をしていた人で安田さんに凄く同情的だった人はいませんかねえ?」
「私の場合は、単独行動が多かったからねえ。そこまで同情してくれていた人はいなかったんじゃないかなあ」
「そうですか。それでは、太田哲也さんの場合はどうですか?」
「薬理研究者の永倉順平さんと太田さんの下で合成を担当していた青田昇さんですかね。ただ、二人とも、今でもつくば研究所でそれぞれの研究を続けていますから、それほど岩宿副本部長のことを恨んでいたとは思えませんけどね」
「そうですか……。それでは帯織さん、夜須さん、片桐さんに関しても同じ観点で見た場合、誰か該当する人はいませんか?」
「まあ、彼らも私と同じように、どちらかと言えば単独行動をするようなタイプだったと思いますから、シンパみたいな人はいなかったかもしれないな……」
「そうですか……、残念ですねえ」
鹿子木が力なく言うと、安田の目が光った。
「ああ、そう言えば、片桐さんには彼の下でずっと合成を担当してきた江曽島靖さんがいました。でも、江曽島さんは副本部長が亡くなる直前まで目を掛けてもらっていたようですよ。副本部長を憎むなんてことがあるかなあ……」
安田は自分では何人かの名前を挙げはしたものの、その人たちの中に犯人がいるなどとは微塵も思っていないような口ぶりで会議室を後にした。
鹿子木は会議室内の電話で佐藤総務課長を呼び、永倉順平、青田昇、それに江曽島靖との面談を願い出た。最初に永倉順平が入ってきた。永倉とは前に一度面会していたため、鹿子木は事件の経緯についての説明は簡単に行なった。
「研究中でお忙しい中、本当に申し訳ないのですが、今回の岩宿副本部長の事件がなかなか解決できないものですから、今回は少し範囲を広げてお話しを訊きたいのです。それで永倉さんにお越し願ったというわけです」
「そうですか。それで、私は一体何をお話しすれば良いのでしょうか?」
「以前、永倉さんはある研究プロジェクトで合成研究者の太田哲也さんと組んでいたでしょう。お二人の努力でそのプロジェクトは素晴らしい薬を創る可能性が高まった、まさにその時、そのプロジェクトは岩宿さんによって終結させられてしまったのですね」
「はい、実際はいろいろとありましたが、ごく簡単にまとめれば、おっしゃる通りです」
「合成研究者の片桐博光さんが新たなリーダーとなった後継プロジェクトにも、永倉さんは薬理研究者として参画され、短期間で大きな成果を挙げたのだそうですが、一方の太田さんはと言えば、自分の意思を踏み躙られ、合成研究を続けることができなかったそうですね。また、そのプロジェクトを引き継いで臨床入りを果たした片桐さんも岩宿さんとトラブルになり、本社総務部へ異動させられてしまいましたね。永倉さんはこれらの状況をどのように見ているのでしょうか?」
「研究者として太田さんは本当に悔しかったと思います。今は構造決定の分野で頑張っておられますが、内心はどれほど悩まれたことか。きっと想像を絶する心境だったのだろうと思っています。また、片桐さんも、自分が主体的に研究して臨床入りさせることができた化合物を何としても薬にしたかったのでしょう。それで開発に異動することを希望されたのだと思います。ですから片桐さんも太田さんと同じように本当に悔しい思いをされたのだと思っています」
「太田さんや片桐さんをそんな状況に追い込んだ岩宿副本部長のことを永倉さんはどう思っていましたか?」
「岩宿さんですか……。あの人は我々研究者がコメントする対象ではないと思っています」
「それはどういう意味でしょうか?」
「あの人は昔から、自分だけが出世して周囲の人たちを好きなように動かせればそれで良い、と考えていたのだと思います。ここの研究者、いや、この会社の人で、あの人を心底尊敬していた人は皆無だったと思っています。皆、権力を持っている人の強制力に嫌々従っていただけだったと思います。あの人はそれでもまだ不十分だったようですけどね」
「と言いますと」
「副本部長の地位では不足だったのです。早く研究開発部門のトップである本部長の地位を手に入れ、自分の思う通りに人物金を動かし、何が何でも確固たる実績を挙げたかったのでしょう」
「そんな岩宿さんを永倉さんは憎らしいとは思わなかったのですか?」
「そう思わない人はこの研究所には一人もいないと思います。私も当然のことながら、あの人は嫌いでした。しかし、だからといって、この会社を飛び出す気持ちにまではならなかったのが実情です」
「そうですか、よく分かりました。それでですね、大変恐縮ではありますが、永倉さんが今回の事件に関わってはいなかったことを証明するために、ご協力願えないでしょうか?」
「私は何をすればよろしいのでしょうか?」
「いえね、犯人が残したかもしれない人間の細胞片がありましてね、そのDNA型と永倉さんのものとを比較させていただきたいのです。なに、やることは簡単で、綿棒で口腔内細胞を採取して提供していただくだけでよいのです。今までにも岩宿副本部長と何らかの関係があった方々にご協力いただいているのですから、心配されることはありません」
「分かりました。そういうことでしたら、協力致します」
そう応じてくれた永倉から口腔内細胞を採取することができた。永倉が会議室から出ていくと、佐藤課長に電話して次の青田昇を呼んでもらった。
青田はまだ若々しかった。筋肉質でがっしりとしていて背も高く、スポーツマンのような印象であった。青田には永倉に説明したよりは少し詳しく状況を話した後、太田哲也をあのような状況に追い込んだ岩宿のことをどう思っているか訊いてみた。
「確かにあんな目に遭った太田さんには同情しますし、そんなことをする岩宿副本部長には呆れるしかありませんけど、岩宿さんみたいな人間は大概の組織に一人や二人、いるものじゃないのですかね。そういう人に一々腹を立てたり恨んだりしていたんでは、体がいくつあっても足りませんよ」
「そんなものですかねえ……。ああいう上司にはいなくなってもらいたい、なんて考えたりしないのですか?」
「ああ、そうか。刑事さんは私のことを疑っているんですね。私はまだ若いんです。今はいろいろと経験を積む時期だと思っています。だから、岩宿さんも太田さんも、ある意味一種の教材として見させてもらっているのです。ご本人たちには申し訳ありませんけれどね。だから、ああいうことで私が人を殺すようなことをする必要がないのです。私たちがこの会社で力を持つ頃は、少なくとも岩宿さんはこの会社にはいないと考えるのが普通でしょう」
青田の言うことはドライではあったが、一理あるようにも感じられた。鹿子木は、青田からも口腔内細胞を採取させてもらうよう依頼した。
「刑事さん、私は今回の事件とは全く関係がないのです。何で私の個人情報が詰まった遺伝子を警察に渡さなければいけないのでしょうか? 細胞の提供はしたくありません。提供しなくても大きな問題はないのですよね」
「ええ、まあ、これは任意でお話をお訊きしているわけですので、判断は青田さんがされることです。私には強制することは現状ではできません」
「それでは、そういうことで。失礼します」
青田は顔色一つ変えずに会議室から出て行った。
最後に、江曽島靖との面談を行なった。江曽島は青田と同じくらい若かったが、体育会系的な雰囲気は全くなく、いかにも研究者タイプのように見えた。どちらかと言えば永倉順平に似ていたが、身体つきは永倉よりも少し大きく感じられた。江曽島にも状況を説明した後、片桐博光をあのような状況に追い込んだ岩宿のことをどう思っているか訊いてみた。
「あの人は組織のリーダーになってはいけない人でした。片桐さんに対する仕打ちは、とてもまともな心を持っている人間のやることとは思えませんでした。片桐さんに対してだけではありません。周囲の人の話では太田さんや安田さんに対しても酷い対応をしてきたということです。それ以外にも沢山の人が被害を被っていたという話です。ああいう人は組織の中に存在してはいけない人なのだと思います」
「でも、江曽島さんは岩宿副本部長には目を掛けてもらっていたのではないのですか?」
「いや、目を掛けてもらうという程、良い待遇を受けていたわけではありませんよ。ただ酷い目にはまだ遭っていなかったというだけです」
「と言うことは、これから酷い目に遭うと予想していたのですか?」
「他の人たちの例を見れば明らかです。岩宿さんのご都合に合わないようなことをすれば、直ちにどこか研究とは関係ない部署に飛ばされてしまうでしょうよ」
「そうだったんですか。そうすると、江曽島さんは岩宿さんのことをいなくってもらおうと考えたことがあるのでしょうね?」
「えっ、それって、私が犯人ではないかっていう質問なんですか?」
「いやいや、そんな意味ではありませんよ。そうなれば良いな、っていう程度の願望があったのかな、と思ったものですから。ただそれだけですよ。それでですね、大変恐縮ではありますが、江曽島さんが今回の事件に関わってはいなかったことを証明するために、ご協力願いたいことがあるのですが」
「何ですか?」
「犯人が残したかもしれない人間の細胞片がありましてね、そのDNA型と江曽島さんのものとを比較させていただきたいのです。やることは簡単で、綿棒で口腔内細胞を採取して提供していただくだけでよいのです。今までにも岩宿副本部長と何らかの関係があった方々にご協力いただいているのですから、心配されることはありません」
「それって、私を犯人扱いしているということですよね。冗談じゃありませんよ。大体、警察っていう所は、こっちがお願いしている時はいい加減な対応をしておいて、そっちの都合となると、真面目な人間を平気で犯人扱いするんですから、堪ったものではありませんよ」
「江曽島さんは以前警察の対応にご不満でもあったのですか?」
「ええ、大いに不満でした。以前、私が車の中に置いておいたバッグが盗まれたことがあったんです。バッグの中には車検費用が現金で入っていたので、結構な金額の損害でした。警察では私から長々と事情聴取しただけで、その後の捜査がどうなったのか、きちんと捜査が行なわれたのかなどについて一切の報告もなかったんです。それなのに、警察の勝手な都合で善良な市民に重要な個人情報である遺伝子を差し出せ、って言うんですからね。これは任意の捜査ですよね。だったら、私はご協力できません」
そう言い放つと、江曽島は口を尖らせて会議室から出て行ってしまった。




