2.痕跡
洋介の目が急に生き生きとし始め、これまでよりも大きな声で訊いた。
「何ですか、そのおかしなこととは?」
「被害者である岩宿の右手と、顔面、特に頬の上にかなり高濃度のトロパン系アルカロイドが検出されたのです」
「トロパン系アルカロイドですか? 成分名は分かっているのですか?」
「分析を担当した係官によると、何でもヒヨスチアミンとかスコポラミンとかいう名前の物質が検出されたそうですが、その他にも少量のアルカロイドがいくつか検出されたことから、精製されたものではなく、粗製の状態のアルカロイドが付着していたのではないかと判断していると言うことです。私には何のことやらよく分かりませんけれど……」
「そうだったんですか。トロパン系アルカロイドが検出されたんですか」
「神尾さん、私にも分かるように簡単に説明していただけませんか?」
「はい、もちろんです。先ず、アルカロイドの意味ですが、一般的には、『植物に含まれる塩基性含窒素化合物』とされています。簡単に言うと、植物が作る化合物で窒素を含んでいてほとんどは塩基性、つまり水に溶かすとアルカリ性を示す化合物のことですね」
「ほう、植物から採れるんですか」
「はい、そうです。でも今は、有機合成の手法でも得ることができると思いますけど。アルカロイドには色々なものがありますが、その中で、トロパン系アルカロイドはベラドンナ、チョウセンアサガオ、ハシリドコロ、それからヒヨス等のナス科の植物中に含まれているアルカロイドですね。これらの植物に含まれているアルカロイドは古くから抗コリン作用薬として使われていて、例えば、消化管の痙攣による疼痛を抑えるとか、胃などの内視鏡検査の前処置にも使われているそうですよ」
「なるほどね。それでは、『精製されたものではなく、粗製の状態のアルカロイド』というのはどういう意味なのでしょうか?」
「トロパン系アルカロイドは塩基性物質であるため、粗製の状態であれば、ある程度簡単に植物の抽出物から手に入れることができます。一般的には、アルカロイドを含んでいる乾燥した植物をアルコール系の溶媒で抽出し、抽出液を濃縮後、水に溶けない有機溶媒に溶かし、酸性の水で抽出すると、アルカロイドは水の方に移動してきます。これにアンモニア水などを加えてアルカリ性にしてから水に溶けない有機溶媒で抽出すると、今度はアルカロイドが有機溶媒の方に移ってきます。これを濃縮すれば、粗製状態のアルカロイドが得られるのです。被害者の岩宿さんに付着していたのは、恐らくこのような状態の粗製アルカロイドだったのでしょう。ちなみに、この粗製物をいろいろな手段を駆使することによって単一になるまで精製したものが純品のアルカロイド化合物になります」
「なるほど、よく分かりました。そうすると、粗製物とはいえ、一度人間の手が加わった可能性の高いものが岩宿の顔や手に付着していたということになりますね?」
「多分そうだと思います。一般的に言えば、植物中のアルカロイドの含量は多くても数パーセントくらいだと思います。それも植物が乾燥された時の状態での話です。土に生えている生の植物は沢山の水分を含んでいますから、もっとずっと少ない含量になります。岩宿さんがアルカロイドを含む植物と偶然接触したとしても、そんな濃いアルカロイドが付着する可能性は著しく低いと思いますね」
「そうすると、事件の可能性が高いと考えた方が良いのですね」
「岩宿さんがナス科植物の抽出実験でもしていて、誤ってアルカロイドを付けてしまうことはあり得ますが、あの人は会社では相当上位の管理職なのでしょうから、自分で実験することはほとんどないように思いますよね。それに、亡くなったのは土曜日で研究所は休みだったと思われます。そうなると何かの事件に巻き込まれた可能性は十分にあるのではないでしょうか」
「成る程ね。神尾さん、本当に有難うございました。これから署に帰って、今回の転落死が事件だと仮定して、いろいろと捜査してみることに致します。やはり神尾さんの所に来て良かったと思っています。これからもよろしくお願いしますね」
今回のことは、鹿子木の頭の中ではすっかり事件ということになって進行し始めたようであった。
鹿子木が帰った後、愛は当分の間、自分と小野村源三郎とで筑波ホビークラブを切り盛りしていくことになりそうだと感じ、大きな溜息をついた。




