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1.筑波ホビークラブ

 筑波山南麓に位置する(かん)(ごおり)地区の一角にある、細長い平屋建てで校舎のような佇まいの筑波ホビークラブでは長閑な時間が流れていた。ここは、自分の一番好きなことを周囲に気兼ねすることなく集中して行なってもらうことにより、酷いストレスに苛まれる研究者たちの心を癒すことを目的として設立された風変わりな施設である。

 玄関と受付とを中央に挟み、東西にウイングがある。東側は『静かなウイング』で、自由趣味室、音楽鑑賞室と作曲室、文章作成室および読書室があり、さらにシルクスクリーンコーナーも追加された。西側は『音の出るウイング』で、二つの自由趣味室、陶磁器作成室、木材および金属の工作室がある。駐車場とこのクラブのシンボルであるケヤキの巨木との間には玄関まで伸びる歩道があり、その先の建物に沿った東西の花壇にはオニユリとサルビアとが美しく咲いていた。


 神尾(かみお)洋介(ようすけ)は大あくびをしながら朝刊に目を通していた。大学はまだ夏休みであったため、朝のうちから筑波ホビークラブに顔を出していた小野村(おのむら)(あい)が、洋介のために淹れたアメリカンコーヒーをお盆に載せてキッチンから受付の中に入ってきた。

「洋介さん、そんなに緊張感がない状態で大丈夫ですか? 明日は金曜日ですよ。会員の方々が沢山来られる週末が始まりますわ。コーヒーでも飲んで気合いを入れてくださいね」

 愛は喋りながら洋介が読んでいた新聞の端を少し持ち上げてテーブルの上にカップを置いた。

「愛ちゃん、私は大丈夫ですよ。明日になれば自然に気合いが入りますから」

「あらっ、そうですか。いつまでもウイークデイの状態を引きずっておられたのはどなただったかしら?」

「そんなに厳しいことを言わないでくださいよ。まったく愛ちゃんには敵わないな」

 笑いながらそんな会話をしていた時、愛はつくば東警察署刑事の鹿子木(かのこぎ)(やす)()が受付の外を通過したのに気付いた。

「良かったですね。洋介さんのお待ち兼ねの人がカモとネギとを背負ってやってきましたわ」

 洋介が新聞から目を離して受付の外を見たが人の姿は確認できなかった。鹿子木が受付での遣り取りをいつものようにスルーして建物の中に入ってきたからであった。


「あらっ、鹿子木さん。まだまだ暑い中、随分とお急ぎのようですね。また、当クラブの経営者の知恵が必要になったのですか?」

 愛がからかうように訊いた。

「流石、愛ちゃん。その通りなんですよ」

「ここの経営者もずっとそんな鹿子木さんをお待ち兼ねだったようですわ。うふふふ」

 愛は笑いながらキッチンに消えていった。

「やあ、鹿子木さん、いらっしゃい。どうされたのですか?」

「神尾さんはひと月程前、筑波山の北の方でG製薬会社の研究開発本部副本部長である(いわ)宿(やど)(あきら)、五十五歳が死んでいたことをご存知ですか?」

「ああ、あれですね。新聞の地方版に結構詳しく載っていたから、もちろん知っています。G製薬会社と言えば大手の製薬会社だし、研究開発部門の上の人が怪しい亡くなり方をしたのですからね。私じゃなくても詳しいことを知りたくなりますよ」

「そうですよね。それを聞いてホッとしました」

 鹿子木は洋介の反応が思っていた通り前向きだったことに少し安心して表情が崩れた。


「あの事件の捜査で何か厄介なことがあるのですか?」

 洋介は興味津々であることが誰にでも分かるような声で訊いた。

「ええ。自殺なのか事故なのか、はたまた殺人なのか皆目見当が付かないのです」

「それはいけませんね。それでは、詳しく話を聞かせていただきましょうか」

 洋介は新聞を畳みながら鹿子木の方に体を向けて言った。鹿子木は手近な所にあった椅子を持ち上げ、洋介の前にあるテーブルの対面に置き、緩慢な動きで座った。そこに愛が鹿子木のために濃いめのコーヒーを淹れて微笑みながら入ってきた。鹿子木の前にお客様用のカップに入ったコーヒーを置くと、自分も少し離れた所にあった椅子に座った。愛も事件の概要について話を聞くつもりであった。鹿子木の話の内容次第では、洋介の心がこのクラブの経営から離れ、事件にのめり込んでしまう恐れがあり、その後を否応なく任される身にとっては状況把握しておくことは非常に大事なことであった。


 鹿子木は早速コーヒーを一口美味しそうに飲んでから口を開いた。

「先月末、七月二十五日土曜日の午後四時過ぎ、山道を犬と散歩していた近くの住人である塩貝明美さんは、少し離れた所で叫び声がしたのを聞いたのだそうです。不審に思って、声がした方に登っていくと、白い岩がむき出しになっている崖の下の大きな岩の上に人が倒れていたのです。その人が叫び声の主だと思った塩貝さんが、状況が分かる程度まで近付いてよく見てみると、倒れていたのは随分と体格の良さそうな人で、白い半そでシャツに濃紺のズボンを穿いていて、頭の周りは赤く染まっていたそうです。それで、慌てて救急車を呼んでくれたのです」

「あの辺はあまり事件が起こらない地域だから、塩貝さんは随分驚いたのでしょうね」

「でしょうね。しばらく待たされた後、ようやく救急車が到着したそうですが、倒れていた人は心肺停止状態の上、頭の裂傷が激しかったそうです。救急隊員たちは直ぐにM警察署に連絡するとともに、念のため病院に運んでくれ、そこで死亡が確認されたのです。現場には救急隊員が一人残って第一発見者に付き添い、M署の刑事が来るのを待っていてくれました」

「それで、その亡くなった方がG製薬会社の研究開発本部副本部長である岩宿明さんだったということですね」

「はい、その通りです」


「当然のことですけど、警察では遺体の解剖や倒れていた現場付近の捜査は行なったのでしょう?」

「岩宿が倒れていたのはつくば東署管内ではなかったため、隣のM警察署が初動捜査を行ないました。その後、亡くなった人の勤め先がつくば東署管内にあるG製薬会社のつくば研究所であったことと、岩宿の住所もつくば市内にあったことから、うちの署に連絡があったのです」

「それでは、合同捜査ということになったのですか?」

「それがですね……、まだ事件なのか事故なのか、はたまた自殺なのか判断ができていないので、ちょっと曖昧な状況になっているんですよ」

「どういうことですか?」

「白い岩の崖がある現場の捜査は隣のM署が担当し、G製薬会社や岩宿の親族などからの事情聴取は我が署で担当してやろうという話になっているんです。もし、事件性が高くなったら、合同捜査本部を立ち上げることになるようです」

「鹿子木さんとしてはかなりやり難い状況なのですね。それはそうとして、現時点で分かっていることを教えていただけませんか?」

 洋介はこの件にすっかり心が奪われてしまったのを隠すのも忘れて鹿子木に訊いた。


「岩宿が倒れていた崖からそう遠くない所に駐車が可能なスペースがありまして、そこで岩宿の車が発見されました。自分で運転して現場の崖近くまで行ったと考えられています。車内は丹念に捜査しましたが、遺書等を含め、特別怪しいものは見つかりませんでした。それから、遺体の解剖結果ですが、岩宿の額の左側が著しく損傷していました。内臓等もダメージを受けてはいたようでしたが、内臓破裂のような酷い状態にはなっていなかったそうです。死因としては頭蓋骨裂傷および脳の損傷とされています。

 遺体が発見された所の直ぐ上は白い岩でできた崖になっていますので、崖の上からの転落死であろうと考えられています。人間の頭は他の部位よりも重いため、転落死の場合、頭部の損傷が著しくなり、他の部位、例えば内臓などの損傷は頭部に比べればそれ程ではないのが通常のようです。また、転落した場合の死因の多くは脳挫傷なのですが、不幸にも岩宿は硬い岩の上の少し尖った部分に落ちたため、頭部の損傷が激しく、裂傷になったと考えられています」


「転落死ですか……。転落以外の原因で遺体が損傷を受けた痕は全く認められていないのですか? 例えば、何かで殴られたような痕があるとか、刃物で刺された傷があるとか」

「それが、鋭利な刃物によると考えられる傷は一切なく、また、岩宿が落ちた崖下の岩以外のものによって殴打されたと考えられる傷跡は見当たらないんだそうです。それとですね、岩宿はがっしりとした体格で、そう簡単に突き落とされるなんてことはなさそうだということです」

「そうなんですか……、単なる転落死だったんですかね」

 洋介は自分の出番はなさそうに思えて、気落ちしたような言い方になった。洋介の表情に気付いた鹿子木は興味を引くようなことを伝えた。

「ただですね、遺体の捜査で少しおかしなことが分かったんです」


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