17. 虚無感
研究部門会が終わった後は哲也にはあまりにも無残な日々が続いた。岩宿研究部長に引導を渡された日の週末は、また昔のように夜の繁華街を一人で彷徨った挙句、以前行きつけにしていたスナックに入り、そこでだらだらと酒を飲んだ。ビールから始まり、焼酎のお湯割りを飲み、最後はウイスキーをストレートで浴びるように飲んで、そのまま記憶が途絶えた。
午前十一時を過ぎたというのに哲也はまだベッドの中でとろとろとした時間を過ごしていた。朝食を取る気持ちにもならなかった。何をするのも面倒くさいと思った。マナーモードにしていた形態電話がビリビリと震えた。発信人は洋子であった。
「はい、太田です」
「何ですか、その眠そうな声は。病気でもされたのですか? 全然連絡もしてくれないで!」
会議後、何回も洋子から電話が入っていたが、哲也は発信人欄を見ただけで、こちらから掛けることはなかった。洋子に会っても惨めになるだけだと勝手に思い込み、ほったらかしにしておいたのだ。この時は半分眠った状態であったため、しっかりとした判断なしに電話に出てしまった。洋子の声は若干詰問調であった。
「ご免、ご免。会社でね、もう本当にとんでもないことがいろいろと起こってしまってね。どうしたら良いか分からなくなってしまってさ」
「きっと、そんなことだと思ったわ。そういう時こそ、私にお話ししてくださればよいのに」
「有難う。でも、とにかく気力が湧いて来なくてね。何をするのも面倒なんだよ」
「全くもう! 今から太田さんの部屋に行きますからね」
「まだ寝てるんだよ」
「だめです。とにかく私はこれから直ぐにお邪魔します。それでは、また後で」
そう言うと洋子は電話を切ってしまった。
哲也は仕方がないので、起きることにした。洋子が来ると言うのに、顔を洗って髭を剃るくらいのことはしておかないと、いくらなんでも拙いと思い、ようやく行動に移した。しばらくすると、洋子が四階の哲也の部屋の呼び鈴を押した。洋子にはマンションのナンバー入力装置の哲也の番号を教えてあった。ドアを開けるとそこには心配そうな洋子の顔があった。
「やっと起きたみたいですね」
洋子は哲也の腫れぼったい顔を見て少しは安心したらしく、安堵感が表情に現れた。
「いやー、心配させちゃって、ご免ね。ひどく落ち込んでしまったものだから。でも、洋子ちゃんの顔を見たから、ちょっと元気が出そうだよ」
「朝ごはんもまだなのでしょう?」
哲也が頷くと、洋子は持ってきたコンビニの袋からサンドイッチを取り出して哲也に渡し、やかんに少しだけ水を汲んでガスに火を点けた。食器棚の隅からインスタントコーヒー、カップを二つ、それからお皿を取り出してテーブルに並べた。洋子は話もせずにお湯が沸くのをもどかしげに待った。やかんの口から湯気が出始めても少しの間そのままにしてから火を止めた。インスタントコーヒーの粉を入れておいた二つのカップにお湯を注ぎ、片方を哲也の座っている前に滑らせた。
「はい、どうぞ。とにかく食べて下さい。質問はそれからにしますから」
促された哲也は、コーヒーを口に含んだ後、サンドイッチを頬張った。洋子が買ってきた二袋をあっと言う間に食べ終わった。それまで哲也が食べるのをまじまじと眺めていた洋子は、哲也の口に最後のサンドイッチが放り込まれるのを確認してから口を開いた。
「その食べ方なら太田さん、大丈夫そうね。それではこれから山ほど質問しますからね。覚悟してくださいね」
「はい、お嬢様」
哲也はお腹が膨れたのと、洋子の優しい素振りを見て心が和んだのとで、軽口を言える心理状態になった。
「それじゃ、最初の質問ね。あれ程太田さんが自信満々だったのに、一体何が起こったのですか?」
「そうだね。どう説明しようかね。いかに信頼している洋子ちゃんといえども、企業秘密を話してしまうわけにはいかないからね」
洋子が頷くと、哲也は少しの間話し方を考えている様子で沈黙した後、一般の人でも分かるような言葉を選んで話し始めた。
「僕たちの夢の化合物はその後もずっと順調でね。そこで、研究の段階から開発の段階である臨床試験、つまり、人間に飲んでもらって、安全であることや実際に薬としての効果が認められることを確認するための試験のことだけどね、この臨床試験段階に一歩進めてもらうことにしたわけなんだ。これまでの他のプロジェクトでは、その時点で我々が得ていたデータで十分だったんだけど、臨床試験段階に入ってからも超特急で先に進めてもらおうということになり、追加で安全性に関係した試験をすることになったんだ。幸いにもというか不幸にもというか、僕らが化合物を沢山合成していたので、その試験を行なうことができる見通しになってしまった。その結果が分かったのが、研究のステージをアップさせるための会議の直前でさ。とんでもないデータが出てきてしまったというわけさ」
洋子は目で哲也にその先を続けるよう促した。
「この試験は本格的に行なう前の段階にあたる予備の試験だったんだ。でも、悩ましいデータが出てきてしまった。数字的には統計学的に差があることが認められたんだけど、実際の数字そのものは、これまでの薬物を投与しなかったものとほとんど同じくらいの数値だったんだ。しかし、統計学的に差があるデータが出たので、本当に問題がないかどうかを調べなければならなくなったというわけさ。僕を含めて研究チームの皆は、この薬が世界で初の素晴らしいものになり得ると信じていたので、是が非でも安全性の本試験を実施したいと思っていて、それも含めて会議に提案したんだ」
哲也はそこで一旦話すのを中止し、遠くをぼんやり見るような目をした。しばらく時間が経過してもそのままの状態だったので、洋子は先を促した。
「太田さん、皆さんのその提案は会議で認められなかったのね」
その言葉で哲也は我に返った。
「あっ、ご免。あの時の情景が次々と浮かんできてしまったものだから。提案が認められなかっただけではなく、プロジェクトそのものも終結させられてしまったんだよ」
「えっ、何が理由でそこまでの決済になったのですか?」
洋子は信じられない、という素振りで訊いた。
「本試験をやらないことに関しては、表面的には二年もの長い期間と莫大なお金とが掛かることが理由だったんだ。確かに通常のプロジェクトで、このステージのものとしては間違った判断とは言えないんだけど、うちの会社にとっては初めて世界に誇れる薬が出来るかもしれないという魅力的なプロジェクトなんだから、是非本試験を実施して欲しかったと思っているんだ」
「それでは、テーマが終結になった理由は何だったのですか?」
「このプロジェクトに関わっている我々は、今の化合物に特段の思い入れがある。他の化合物の骨格、つまり、元となる化合物の構造のことなんだけど、その骨格は今の化合物が持っている骨格でないと薬にならないと思い込んでいる、と言われたんだよ。そのため、僕たちが再チャレンジしても新しい化合物を見出せないと言うんだ。だから、ここまでの成果を評価した上で、新たなメンバーによって薬に繋げる挑戦をしてもらおう、というのが表面的な理由だった」
哲也は説明していても、あの時の光景が頭の中を占めてきてしまうらしく、目には怒りの色が見て取れた。洋子はただただ頷くだけだった。分かったような口をきくのが躊躇われるような雰囲気であり、哲也に先を続けてもらうしか選択肢は残されてないように思えた。
「ここまで持ってくるのが大変だったんだ。しかし、ここで終わってしまったら会社からは全くといってよい程評価されない。これが現実なんだよ。勿論、僕たちの目的は患者さんに喜んでもらえる素晴らしい薬を世の中に送り出すことなんだから、別に社内での特段の評価なんて望んでいるわけではないんだけれど、やはり自分のこの手で新しい薬を世に送り出したいんだよ。これはエゴではないと思っていて、薬を世の中に出すためには必須の情熱から出てきているものだと思うんだ。僕らは一種の思い入れをあの化合物に持っていた。いや、今でも持っている。それがなければ、薬なんて出来やしない。
ところが、岩宿部長には、この思い入れが邪魔して新たな化合物を発見できない、と言われてしまったんだ。でも、本当に強い思い入れがなければ、よい化合物なんて見つけられない世界なんだと僕は思っている。新しい人たちで再チャレンジするというけど、あの化合物以外の骨格では良い化合物なんて見つけることはできないだろうと思うんだ。特に思い入れを持たないで参画するような人たちではね」
「えっ、それではプロジェクトは新しい人たちによって続けられるの?」
「そうなんだ。ご免、きちんと筋道を立てて説明すればいいんだけど。どうもまだ感情の方が先に来てしまうようだね。ダメだね、これでは。もう一度しっかりと確認しておくとね。今までのプロジェクトはこの段階で終結し、一応の評価をする。確かにこのプロジェクトが成功すれば、世界初の素晴らしい薬を世の中に送り出せるので、我が社にとっては素晴らしいこととなる。だから、新たなメンバーを選んで再挑戦しよう、というのが結論だったんだ」
「そうだったのね。つまり、プロジェクトそのものは続くけれど、ここまで持ってくるのに一番貢献があった太田さんたちがプロジェクトから外され、新しいメンバーで再挑戦が始められるという訳ね」
「そういうことだね」




