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16.留学話

 それから一週間、哲也は抜け殻であった。もう物事はどうでも良かった。どうなっていこうと自分には関係ない、とまで思うような状況に陥っていた。

「結局、岩宿研究部長は研究開発本部会や取締役会で発癌性本試験の提案をすることから逃げたのだ。もし、提案すれば、研究開発本部長や社長からは必ずその責任を取るように言われるのであろう。研究部長としてはそんな責任を取ることなど考えられないことであったに違いない。彼にとっては出世することが一番重要なことであって、我々にとって最も重要で、遣り甲斐のある、患者さんに心から喜んでもらえるような薬を世の中に送り出すことなど、二の次であったに違いない」

 哲也はそんな風に岩宿研究部長のことを見ていた。研究室に出てきても合成実験などする気持ちには全くなれなかった。一体どんな化合物を合成すれば良いのか見当もつかなかった。


「太田君、岩宿研究部長からお呼びがかかった。今すぐ、研究部長室へ行ってくれないか」

 臼井から突然声を掛けられて哲也は我に返った。重い足を引き摺りながら研究部長室の前まで来て、デスクに座っている部長付きの秘書みたいな役割をしているベテラン社員に自分の名前を名乗って取り次いでくれるよう依頼した。既に了解済の話だったようで、部長に確認するまでもなく、部屋に通された。


「やあ、やあ、太田君。突然お呼び立てして申し訳ないね」

 岩宿の声は随分と明るいトーンで始まった。哲也はかなりの違和感を持った。岩宿はそんな哲也の思いなどどこ吹く風といった表情で、さらに明るく続けた。

「しかし、プロジェクトZは残念だったね。大田君は確かにいい仕事をしたよ」

「何を言っているんだ。お前さんが見限ったんじゃないか」

 哲也は余程言葉に出してそう言ってやりたかった。岩宿は、哲也が言葉を飲み込むのを確認するかのように哲也の表情の移り変わりを眺めた後で、それまでの無理な柔和な表情を真剣そうに見えるように変えて、本題を切り出した。

「太田君、米国留学してみないか?」

 哲也はあまりにも突然の話に驚いた。岩宿はそんなことには目もくれず、目を大きく見開いて言った。

「天然物の構造決定で有名なプロフェッサー・キングトンのところだよ。私が懇意にしていただいている川辺教授が紹介してくれたんだ。とても良い話じゃないか。プロフェッサー・キングトンのところに出しても当社の恥にならなくて、将来性が期待される人はこの研究所にはそう多くはいないよ。私は直ぐに太田君のことが頭に浮かんだんだよ。行ってくれるよね」

 岩宿は哲也の目の中まで覗き込むようにして、『肯定以外に答えはないぞ』とでもいうような口調で言った。


「岩宿研究部長、あまりにも突然のお話ですし、プロジェクトZの後継プロジェクトのことをこれからしっかりやらないといけない状況にありますので、私には今は無理だと思いますが」

 哲也は『夢のプロジェクトから離れて米国留学するなんて今はとてもできることではない』と思った。素直にそう表現したのだった。岩宿にとっては予想通りの返事だった様子であった。

「太田君……。米国留学、それもプロフェッサー・キングトンの所だよ。滅多にある機会ではないよ。それに新プロジェクトの方は全く新たなメンバーでやってもらおうと考えているんだよ」

「えっ、それはどういう意味ですか? 私や永倉さんは新プロジェクトのメンバーから外れるということですか?」

「いや、外れるなんて考えないでいただきたい。素晴らしい道筋を付けた上で、後輩たちに引き継ぐと考えて欲しいね」

 哲也には言葉もなかった。口が開いたままであった。岩宿は間髪を入れずに、次の言葉を発した。


「プロジェクトZのメンバーは、あの化合物に対する思い入れが特別強いと思うんだよ。そして、あの化合物以外には良い化合物は存在しない、というような確信を持っているように思えるんだな。それでは折角太田君たちがここまで進めてきた努力が水泡に帰するということになってしまう。それはあまりにも勿体無い。ここは、これまでの成果をきちんと皆が認めた上で、全く新たなメンバーの手によって薬にしてもらう方が、君たちにもこの会社にも良いことだと判断した結果なんだよ。太田君の最終的な目標は世界初の薬を世に送り出すことなんだろう?」

 上手いところを突いてきた。世界初の薬を世の中に出すことは哲也にとっては是非実現したい夢であった。岩宿の言うことはこの部分に関してはその通りであった。

「確かにその通りですが、自分自身の手で、そうしたいのです」

「冷たいようだが、私の目から見ると、君たちはあまりにもあの化合物の骨格に惚れ込み過ぎた。だから、他の化合物に対してはどうしても受け入れられない状況にあって、そこから抜け出せないのだよ。私は君たちがあそこまで持ってきた成果を是非とも薬に繋げたいんだ。だから、私の言うようにしてくれないか」

「それは命令ですか?」

「命令とは言わないが、従ってもらいたい。薬を世の中に出すためにだ」

「少し時間をいただけないでしょうか?」

「留学に関しては、できるだけ早く川辺教授に返事をしなければならないから、週明けには返事をしてくれないか。臼井君を通してでもいいから。それから、新プロジェクトに関しては、今日の夕方に統括長会を開いて決定するつもりだから、よろしく頼むよ」

 岩宿の言葉の最後は完全に命令調になっていた。


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