12.東川洋子
翌朝出勤した哲也は臨床研究入りコース転換を提案する資料の準備を始めた。突然、マナーモードにしていた携帯電話が激しく振動した。東川洋子からのメールであった。
「この頃、お忙しそうですけど、根を詰めて仕事をされているのでないのですか? お体が心配です。一日くらい私の相手をして、テニスで気分転換されてはいかが?」
洋子は哲也より六歳若く、米国系コンピューター関連会社のつくば研究所管理部門に勤務していた。
生活環境としては日本ではかなり特殊な部類に属する研究学園都市つくばでは、学生時代に結婚相手を見つけておかなかった男性にとっては出会いの場は著しく限定されている。車社会であるために、通勤途上での出会いは先ず考えられない状況である。車の接触事故でも起こして、その相手がたまたま自分が望んでいるような女性であれば別であるが……。
つくばには日本の産官学の著名な研究所が集まっていて、超高学歴である研究者たちが沢山いる。全部が全部つくば市近郊に住んでいるわけではなく、一時期、上野発の朝七時台の常磐線で高学歴研究者をゲットする方法などが週刊誌に取り上げられたことがあったが、東京に住んで通勤している人も中にはいる。しかし、一般的に言えば、研究者たちは研究するのが好きである。特に意識してなくても深夜まで研究してしまうことはよくあることである。そうなると、東京から常磐線とバスなどとを利用して通勤するのは、あまり好ましい状況とは言えない。
もっとも、つくばエクスプレス、通称TXができてからは随分と状況は変わったが、まだ建設中であった当時はそんな状況であった。女性研究者の数は確かに増えてきてはいたが、まだまだ男性の方が圧倒的に多かった。勿論女性にとっても出会いの機会はそう多くはなかったが、男性の場合はかなり深刻な状況にあった。自分で意識して出会いの機会を作るようにしないとパートナーを探すことは、つくばでは大変難しかったのである。
そんな状況の中で、哲也も典型的な男性研究者であった。学生時代には恋人もできなかったし、それをそんなに気にしていなかった。大学でも四年生から修士課程を通じて本当によく合成実験をしていた。回りの雰囲気もそれが当然のようなものがあった。哲也の同級生で同じ合成の研究室に進んできた男性で恋人がいたのはごく少数であった。哲也が三年間所属した研究室の教授は合成分野では有名な人であり、研究者の評価の一つのバロメーターであるジャーナルへの投稿数も他の研究室と比較して格段と多かったのであった。
教授は日曜日以外は毎朝八時半には研究室に顔を出し、学生たちに研究の進行状況を訊いて回っていたが、追求するというスタンスではなかった。教授はいつも柔和で、相手の言うことはきちんと聞いてくれてはいた。しかし、学生たちにとっては、毎日有名な教授に報告しなければならないという、一種の脅迫感のようなものを感じざるを得なかった。その日に一つは教授に報告できる結果が欲しかった。教授に何も進展がないことを報告できるのはせいぜい二日目までであった。三日目にはとにかく何か報告できることを探して実験を深夜まで行なうようになってしまうのであった。それ程合成の腕が良い方ではなかった哲也にとって、日曜日も研究室に出かけていって、報告の種探しをすることがよくあった。当然、恋人を作れる状況ではなかった。
つくばに来てから二、三年間は、学生時代と同じような状況で研究を続けていた。同期入社の研究員の中に、学生時代から交際していた人と結婚する人が出始め、結婚式の招待状がぽつぽつと来るようになってからは、哲也も若干の焦りを感じるようになった。
「このままではいかん。もっと積極的に動かなければ」
そうは思っても、これまで女性と一対一で交際したことすらなかったような状況で、学生時代も研究ばかりしていてスポーツなども特に積極的に行なってこなかった哲也にとって、自然な形で出会いの機会を演出することなどとてもできることではなかった。
そこで、哲也は入社五年目に入った時、自分の上司となってくれた臼井良平に相談した。哲也にとって臼井は理想的な家庭を築いてきていたし、臼井の人間性も好ましく感じていたので、正直に実情を話した。臼井は何か得意のスポーツはないか訊いてきた。当然、答えは『ありません』しかなかった。
そんな経緯で、臼井が何組かの家族と一緒に楽しんでいたテニスを始めてみることになった。哲也にとってテニスは高校時代に友達と何回かやったことがある程度で、ほとんど初心者であった。臼井の妻の久仁子が親切に一から手取り足取りで教えてくれた。テニスを始めたと言っても、一週間に一度コートの上に立てれば良い方だったので、見る見るうちに上達するというわけにはいかなかった。それでも哲也は生来運動神経が良かったほうであったのと、久仁子の熱心な指導とによって半年後には何とかダブルスでの試合形式の練習くらいはできるようになった。
テニスの練習を終えて、久仁子が作ってきてくれたサンドイッチと暖かい紅茶とをご馳走になっていた時、突然久仁子が哲也に言った。
「太田さん、随分とご上達なさったので、そろそろダブルスのパートナーを探してみてはいかがかしら?」
哲也が驚いたような顔を久仁子の方に向けると、その先に臼井の顔があった。微笑みながら何回も頷いていた。臼井の長期計画の第二段目だったことを哲也は瞬間的に察知した。久仁子はその瞬間を見逃さず、直ぐに続けた。
「私の知り合いに丁度良いお嬢さんがいるのですけれど、太田さんさえよろしければ、今度ご紹介致しますわ」
哲也が返答に窮していると、臼井が追い討ちをかけた。
「気立ては良いし、しっかりしているお嬢さんだよ。とにかく、来週一度テニスを一緒にしてみようよ」
それで決まった。
つくばには公営のテニスコートがいくつもあった。一定期間前に先着順でコートの使用権を予約できたので、臼井の家族たちのグループは手分けをして早く予約できるコートから並んで使用権の獲得に動いた。目的の日の予約ができれば、それで並ぶのは終了になるが、他のグループの後塵を拝することになった場合はその後の日にいつもよりは朝早くから並んで別のコートの確保を行なうのであった。次週のコートは臼井家がしっかりと確保していた。
翌週、哲也にしては珍しく新調した上下白を基調とし青いラインが入ったウエアを着てテニスコートの駐車場に入っていった。そこには既に臼井一家が到着しており、その傍に若い女性が控えめな感じで立っていた。車から降りると哲也は臼井一家のいるところに小走りになって向かった。
「お早うございます。遅くなって済みません」
哲也が声を掛けると、間髪を入れずに久仁子が応えた。
「お早うございます。太田さん、ご紹介しますわ。こちらが東川洋子さん。洋子ちゃん、こちらが太田哲也さんよ。お二人ともよろしくね」
哲也が発する言葉を選択していると、洋子に先を越された。
「東川洋子です。よろしくお願い致します」
そう言うと洋子は頭をペコリと下げた。胸にワンポイントが入った白の半そでのウエアに薄いピンクのスコート、シューズもピンクで統一性があってセンスの良さを感じさせた。髪の毛は若い人に多い茶髪ではなく、黒髪のままで肩の少し下まで伸ばしていた。手にはやはり薄いピンクのサンバイザーを手にしていた。身長は百六十センチくらいでスラッとした体型であった。大きな目ではなかったが、切れ長で頭の良さそうな目をしていた。哲也は一瞬気圧されたように感じた。ウエアは新調したが、靴と帽子はそのままだったし、洋子の決まった姿を見ていると、自分が何とも不釣合いな感じがしたのだ。しかし、とにかく気を取り直して、挨拶に答えた。
「太田哲也です。まだまだテニスは初心者なので、ご迷惑をお掛けすることばかりだと思いますが、どうかよろしくお願いします」
「いいえ、私の方こそなかなか上達しないものですから、皆様の足を引っ張ってばかりです。そうですよねー、臼井さん」
洋子は久仁子に助けを求めるように目を向けた。久仁子はただ微笑みを返すだけであった。
いつものようにストレッチ体操の後、ストロークの打ち合い、ボレー、スマッシュ、サービスの練習を行なった。これはもう儀式のように定着し、誰かが指示を出さなくても、一連の流れのように自然に皆がこなしていった。哲也も皆の動きを観察しながらそれに遅れないよう付いていった。
ストロークの打ち合いでは早速洋子と打ち合うことになった。久仁子の配慮ではあったが、哲也には最初からちょっと荷が重かった。二、三球打ったところで直ぐに哲也には分かった。洋子は自分とは比べ物にならないほどテニスが上手かった。ミスするのはほとんどが哲也だった。哲也は『ご免なさい』を連発しなければならなかったが、洋子は一向に気にしている様子はなかった。恐らく、久仁子からいろいろと事前情報が与えられていたのであろう。当然のことのようにボレー、スマッシュの練習も相手は洋子となった。哲也はいつもの倍以上の汗をかいたが、最後のサービス練習も済ませて何とか基礎練習の時間が過ぎた。
一段落したところで、いつものように久仁子が用意してくれたスポーツ飲料や温かい紅茶を飲む休憩タイムとなった。まだ小学校一年生だった臼井の上の娘が哲也に向かって言った。
「太田のお兄ちゃん、今日は頑張ったから冷たい飲み物の方がいいよね」
哲也は、『こんな小さな女の子にも見透かされているなー』と思いながらも頷くしかなかった。
試合形式の練習になると哲也はもっと悲惨であった。洋子と組んで何組かのペアと一セットずつ行なったが、ポイントを取るのは洋子ばかりで、哲也はとにかくつなぐことに徹するより他に道はなかった。
本当に長く感じられた練習がようやく終わった。まだ午後一時前だというのに、哲也はもう一日が終わったような体と心の状態になっていた。
翌週の練習にはてっきり洋子は来ないと思っていた。自分でもそれは当然だと思えるほどの前の週のテニスが酷い状況だったので、洋子とこれから交際していけるとは全く思っていなかった。若干自分が惨めであった。もっとテニスの練習を真面目にやっておけば良かった、と真剣に思ったほどであった。運動神経が悪いほうではないので、きちんと練習していれば前の週のような状況にはならなかったはずであった。
ところが、洋子は何事もなかったかのように第二週目もテニスコートに颯爽と現れた。この週はやはり白を基調として淡いブルーのアクセントを付けていた。練習は前回と全く同様に進んだ。哲也は相変わらずではあったが、一種の開き直り状態となった分、精神的に追い込まれることは少なかった。爽やかな風が吹いてくれたことも手伝って汗のかき方も前回ほどではなかった。臼井の娘にからかわれることもない、と思える状況にはなれた。と言っても、これは哲也の心理状態のことであって、テニスのプレーそのものはほとんど洋子に頼りきっていた。前週と違っていたのはコートにいる誰もがそのことを既知のこととして対応してくれたことであった。練習が終わると、哲也はかなり普通に洋子と話ができるようになっていた。
洋子とペアを組んでしばらくの間、臼井一家とずっと一緒に練習や試合をしていたが、臼井が哲也の上司であることもあって、いつも監視されているような気分が拭い去れないでいた。そんな時、またも久仁子が気を利かしてくれた。
ちょうど哲也と洋子みたいなペアが何組か揃ったとかで、その人達だけでテニスをやったらどうか、という話になった。久仁子によればペアとしてのテニスの実力は大体同じくらいらしく、他のペアは特に異存はないとのことであった。哲也たちと一緒に練習していたペアも何組かいて、ゲームで男性が女性のパートナーを引っ張れずにいるペアもいたので、哲也にとっては楽な気持ちで参加できそうに思えた。また、臼井や久仁子の目を気にしないでプレーできるということも、二人にとってはホッとできそうな期待感があった。いかに気を利かせてもらっているとは言え、今のグループでは、やはり伸び伸びとプレーに専念するというわけにはいかなかった。




