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11.順調なプロジェクト

 降圧剤Zは初めての研究プロジェクト会の後も順風満帆であった。安全性に関する検討でも問題になるようなデータは出てこなかったし、物性も文句なしであった。代謝では担当者がわざわざ哲也の研究室までやって来た。

「太田さん、この化合物の代謝パターンは素晴らしいですよ。教科書に掲載できる絶好の例になると思います。何としてもこの化合物を薬として世に送り出して、私は本に書きたいと思っているんです。是非皆で頑張って薬にしましょう!」

 哲也は感動した。真実が研究者たちを結びつけていく過程を、今現実のものとして自分の目で見ているのだ、という実感があった。


 研究者にとってパラダイスにいるような感覚の夢の二ヶ月間は瞬く間に過ぎた。この間、哲也は何度も素晴らしいデータと、その研究成果をできる限りの努力で生み出してくれたそれぞれの研究担当者とに感動した。研究者を続けてきて本当に良かった、と思った。五月下旬、この研究所の最上階にある喫茶コーナーから、街路灯に先導された『逃げ道』に目を凝らし、脱出したいなどと考えていた自分が少々情けなく感じられた。

 あまりにも順調であった。これまで自分が経験してきたことは、薬創りへの強い意志と結果としての挫折、それに負けまいとして再挑戦すること、これらの繰り返しであった。今回ばかりは、これまでとは打って変わって、出るデータが全て素晴らしく、あたかも『早く薬にして困っている患者さんたちを助けよ』とでも告げられているかのようであった。

 しかし、夜ベッドに入り、哲也の化合物が近い将来世の中で賞賛されている状況を思い描いたりしている最中に、時々ふっと黒い影が頭をよぎることがあるようになった。しかも次第にその頻度が増していった。

「順調過ぎる。どこかに落とし穴があるのではないか?」

 そんな不安も、翌日出社してみれば、周囲の明るい雰囲気と出てくるデータの好ましさとが追い払ってくれた。


 十一月頭には、短期的に実施することが可能な実験はほとんど完了したと哲也には思われた。その数日後、永倉が哲也の実験室に来た。

「太田さん、短期でできる実験に関しては全ての結果が揃いましたよ」

 永倉が人の良さそうな笑顔で話しかけてきたので、哲也にはその後の言葉が容易に想像できた。

「完璧と言ってよいでしょうね。私もこんなに素晴らしいデータが揃っている研究プロジェクトを見たことがありませんよ」

 そう言うと永倉は哲也の前に生のチャートを広げ、一つ一つ詳細に説明してくれた。どれを見ても、良いデータとはこのようなものだ、と言わんばかりの一目でその良さが理解できるようなデータであり、直ぐにでも薬にできそうな気配が漂っているように哲也には感じられた。

「永倉さん、有難うございました。本当に永倉さんのお蔭ですよ。ところで、臨床研究入りコースへの転換を承認してもらうために、これから取っておかなければならないデータがまだ何か残っているのですか?」


 哲也はこれまでのデータで間違いなくこのプロジェクトは臨床研究入りコースへの転換が認められると考えていた。むしろ、少しでも早く急進開発プロジェクトに指定してもらわなくては、この薬が売り出されるのを首を長くして待っていてくれる患者さんたちに申し訳ないくらいに思っていた。永倉に尋ねたのは、単なる確認に過ぎなかった。

「もう、これまでのデータで大丈夫だと思いますが、臨床研究入りコースへの転換の資料作りをしている間に、発癌性予備試験をお願いしておこうと思うのです。降圧剤というのは長期間の投与になるわけですから、やっておいた方が良いと思います」

「コースの転換の際に、発癌性予備試験のデータは要求されるのでしたかね?」

「必ずしも必要なデータではありませんが、あった方が良いでしょうね。長期投与の薬物の場合は、発癌に関する質問が会議でよく出るようです。それに対して明快な回答を用意しておけば間違いないと思うのです。それに、発癌性予備試験は来年度からは必須項目にするべきだとの話も出てきているようですので、今回はやりたいと思います。太田さんたちが化合物を沢山合成しておいてくれましたので、こんな贅沢なことが計画できます。有難うございました」

 永倉はぺこりと頭を下げた。


 勿論、哲也に断る理由などなかった。むしろ、急進開発プロジェクトに格上げしてもらうためには、できることはどんどんやっておきたかった。

「よろしくお願いします。それと、今日説明してくださったデータですが、後で送っていただけますか?」

「データでしたら、こちらにお邪魔する直前にイントラネットでお送りしておきました。後でゆっくりとご覧ください」

「あっ、そうでしたか。永倉さんはやることがいつも完璧ですものね。有難うございました」

「いいえ、どういたしまして」

 永倉は微笑んで言葉を返すと、

「それでは太田さんにご了解いただけましたので、発癌性予備試験を安全性組織の担当者にお願いしておきます。投与に約三週間、その後の解析にも同じくらいの期間がかかると思います。ですから、きちんとしたデータが出るのは、一ヶ月半後になるはずです。コース転換への提案予定は年明けの一月中旬でしたから間に合いますよね」

 永倉の確認の言葉に対し哲也は嬉しそうに頷いた。


 新しい薬を人間が飲んだり注射したりしてもらえるようになるまでには、信じられなくくらいの時間と費用がかかるが、特に、最も上流に位置する薬の種探しをする段階での研究においては、タイムラインを予測することは非常に難しい。勿論、ケースバイケースではあるが、基本的には思うようには研究は進行しない。ほとんどの場合遅滞してしまい、責任者が上層部から叱責されることになる。

 研究所を預かる責任者は、このような叱責にも挫けたりせず、飄々と、あるいは情熱を(みなぎ)らせて上層部を説得して研究を続けさせることができなければ勤まらない。従って、多くの製薬会社では、初期研究段階のプロジェクトと開発研究まで進んだプロジェクトとは明確に区別してタイムラインを設定している。

 哲也達のプロジェクトは今丁度その境界線上に来ているのであった。開発研究段階のプロジェクトとして承認されれば、きちんとしたタイムラインが組まれ、これまでよりもずっと多くの研究員が張り付けられ、当然予算もこれまでとは桁違いのものが計上されることになる。


 この頃の哲也は、嬉々として非常に多くの合成業務をこなした後、会社の臭いのしない自分のアパートに帰り、翌朝までの短い時間を瞑想とそれに続く心地よい睡眠だけに使っていた。

 哲也の化合物が将来を約束されているかのように扱われている降圧剤Zプロジェクトは、世界的に激しい競合状況にある高血圧治療剤研究開発の中でもかなり新しい概念の作用メカニズムに基づく薬効を狙っていた。降圧剤の中でもこの新しい概念に基づく化合物で活性を示すものはまだ全く報告されていなかった。この新規メカニズムで活性を示す化合物が得られれば世界初の快挙となるはずであった。


 帰宅した哲也が先ずビールを飲んで仕事での緊張を解しにかかると直ぐに、瞑想の最初のシーンが浮かんで来るようになった。そこには壇上に立って多くの聴衆に向かってプレゼンテーションをしている哲也がいた。

 哲也の化合物が新たな作用メカニズムによる降圧作用を明確に示し、これまでにはなかった長期間の投与によってもいかなる毒性も示さず、むしろ、心臓や血管や腎臓さえもそれまでよりは良い状態になることが人への投与実験でも示されたということを、哲也は多くの聴衆に向かって自分たちが得たデータで説明していた。この実験結果は、高血圧で苦しむ患者たちに非常に多くの福音をもたらすはずであった。高血圧患者が遭遇している病状は血圧だけでなく、それに関連した血管や心臓、さらには腎臓に問題を抱えていることがかなり多いので、患者たちの生活向上、いわゆるQOL、クオリティ・オブ・ライフの向上に大きく貢献することは間違いなかった。哲也の講演を聞いている人たちは、当然このことを理解していた。従って、哲也が示した実験結果を聞いて、聴衆は皆立ち上がって哲也を賞賛した……。


 哲也の妄想がこのシーンになる頃は、五百ミリリットル入りのビールの缶は空になり、次に赤ワインをグラスに注いでいるのであった。

 次のシーンでは、哲也はある病室の中にいた。そこには、高血圧で苦しんでいた患者とその家族、それと担当医と看護師もいた。皆の顔からは笑顔がこぼれていた。この患者は従来の降圧剤では十分な血圧コントロールができず、脳卒中や心臓病を引き起こす恐れが高まってきていたのだ。こんな時、哲也の作った薬が投与され、夢のような状況が起こったのである。患者の血圧は見る見るうちに正常値に近くなっていき、脳卒中や心臓病を引き起こす危険性が非常に少なくなったのであった。喜びの中心に哲也がいた。患者は哲也の手を取って感謝の気持ちを述べた。家族の哲也を見る目は丸で神様を見るような雰囲気があった。医師や看護師は、自分達の苦境を救ってくれたスーパーマンに対して感謝の気持ちが溢れた眼差しを向けてくれていた。皆から感謝され、哲也はこの薬、降圧剤Zを創って本当に良かったと思っていた……。


 一陣の風が哲也の部屋の窓を揺り動かし、その音で哲也は現実に引き戻された。『良い事ばかり続くことなんてあり得ないぞ!』という自分の心の奥底に潜んでいる客観的な声を振り払うように、

「さあ、寝るとするか。また、明日も頑張ろう」

 そう哲也は呟くと、大き目のグラスに少しだけ残っていた赤ワインを飲み干した。


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