9.薬物候補化合物の選択
哲也はT大学工学部修士課程を修了後、G製薬会社に入社し、研修期間を終えるとつくば研究所研究部門合成研究グループ群に研究員として配属になった。それから八年間、所属した合成グループはいくつか変わったがずっと血圧降下剤研究の合成担当を続けてきていた。これまで自分なりにベストを尽くしてきたつもりであったが、結果は全く付いてこなかった。
入社直後の二年間は先輩研究員のやり方を学ばしてもらったと言った方がよいような状況であった。大学で学んできたケミストリーは一応基本にはなるものの、他社の化合物展開を予測した合成計画の立案や、代謝や物性などに関して薬として保有していなければならない要因を確保しつつ、特許が取れるような新たな化合物をデザインすることなど、大学では学べなかった。製薬会社特有の研究環境の中で自分の存在を認めさせていく術は、哲也にはそれまで経験したことのない大きな壁に見えた。
それでもしばらくすると、哲也も一人前の合成研究者の雰囲気を醸し出せるようにはなった。まだまだ底は浅いが、合成グループ内での検討会などでは薬を創り出す意欲を漲らせた意見を言えるまでになっていた。入社三年目になって初めて、お手伝い的な仕事ではなく、自分が主体的に合成展開をしていく立場に立てた。それまでは、先輩研究員に指示された化合物の合成を行なっていたため、だんだん自分の考えている化合物を思うように合成できない現状に直面して葛藤が生じてきていた。だから哲也は大いに喜んだ。まだまだ自分自身に大きな期待感を抱いていたし、そのために製薬会社に就職したという自負も持っていた。
しかし、修士課程を修了後、企業で二年間経験したくらいの研究者が世界の製薬大手を相手にまともに戦えるはずはなかった。哲也がデザインした化合物を実際に合成してその活性を調べてみると、確かにそこそこの活性は示した。最初のうちは大喜びしていたが、少し時間が経つと、欧米の大製薬企業から哲也がデザインした化合物を含む特許が公開された。それは、哲也の化合物を含んでいるだけでなく、その化合物の周辺の化合物も抜かりなく網羅してあり、哲也には完璧と思われるような強固な特許となっていた。それで終わりであった。哲也にはこの化合物群に関してもう対抗する術は残されていなかった。
こんなことを幾度か繰り返すうちに、哲也は自分の微力さとG製薬会社の研究部門の総合的な力のなさとを痛感させられていった。そんな日は必ず相当落ち込み、自分を蔑むような思いが頭の中を駆け巡った。
「俺は、このままでは給料泥棒で終わってしまうぞ。そんなことはご免だ。何とかして自分がデザインした化合物を薬にまで育てたい。研究人生の中でたった一つでもいいからそんな化合物を世の中に送り出したい」
哲也は心底そう思っていた。
人間の手で行なう通常の合成では合成研究者が一人一年間に百から二百化合物くらいしか合成できないと言われている。勿論、合成の難易度が化合物によって異なるので一概には言えないが、どんな化合物であっても合成しようとしているものは、基本的にはまだこの世に存在していない化合物だと信じて合成するわけであり、その時点では新規な構造を持つ化合物を合成することになる。お手本になるような合成方法を文献などで調査して参考にはさせてもらうが、すんなりと反応が進まないことは当たり前のことである。新規化合物の合成はかなりの困難を伴うことはある程度必然なのである。
近年コンビナトリアル・ケミストリーという合成手法が取り入れられるようになり、網羅的な合成が実施できるようになってきた。この手法は最新式の機器を利用し、同じ系統の原料ではあるが少しずつ異なる構造を持つ一組と、それとは異なる系統の原料の一組あるいは二組を組み合わせ、同一の合成方法を用いて数多くの化合物合成を行なう手法であり、量は少ないが似たような化合物の種類を幅広く抜け落とさずに合成するには『持って来い』の方法である。この方法を使えば、従来法で合成していた時より一桁上の化合物数を合成できるようになる。
コンビナトリアル・ケミストリーでの合成を一年間ずっと行なっていたとしても、年間一人で千から二千化合物程度までと言われている。勿論、コンビナトリアル・ケミストリーを使える状況ばかりではないので、必ず多くの化合物が合成できるというわけではない。哲也が八年間に合成した化合物は多くても二千化合物を超えることはなかったが、これらの化合物は全て薬の候補化合物にはならなかったのである。
G製薬会社の親会社であるG株式会社は古くからの醗酵会社で、日本酒、焼酎、ワイン等を扱ってきていた。半世紀も前に持て囃された多角化経営の一環として製薬業界に進出し、G製薬会社の前身である医薬品部門ができた。その後抗生物質の成功で本体のお酒の会社であるG株式会社からスピンアウトして、子会社の位置付けでG製薬会社が誕生した。現在では利益では本体を抜いて日本の一流製薬企業の一角にまで成長した会社となった。
そんな歴史があるので、これまでこの会社を支えてきたという自負がある醗酵関係の技術者が一種のエリート意識を持っているのであるが、抗生物質も有機合成の技術で作ることができる時代が来てしまい、発酵法による抗生物質発見の全盛期も過ぎたと考えられていた。G製薬会社でさえ、微生物醗酵で見出される化合物よりも有機合成の手法で生み出される化合物の方が医薬品となる割合が高くなっていたのがこの頃の実状であった。勿論、初めから醗酵研究機能を持たないで合成だけで研究を行なってきたほとんどの製薬会社では合成で化合物を創り上げるのは通常のことであったが、他の製薬会社と異なる会社の歴史があるため、G製薬会社では、醗酵研究者の方が高い位置から合成研究者を見下ろしているような風土がまだ抜けていなかった。
まして抗菌剤を扱わない哲也たちのような降圧剤の合成研究者にとっては、薬を世の中に送り出して初めて醗酵研究者や会社の上層部に認めてもらえる、というような状況で研究を行なっていたのであった。
このような状況において、哲也は今、自分自身の活性化合物を手中に納めているのであった。これほど研究者冥利に尽きることはなかった。とにかく早くこの化合物のステージを上げたかった。それにはやらなければならないことは山ほどあった。
哲也の化合物の構造をほんの少しずつ変化させた化合物で合成可能な化合物全てを合成し、その活性を調べた。また、活性の少しでも良かった化合物は物性や代謝の簡単な予試験を行なった。これらの中で薬としてのバランスがかなりよいと評価された少数の化合物の中から、構造があまり一つの系統に偏らないように化合物をいくつか選抜し、本格的とまではいかないまでもある程度反復した投与を行なって安全性を確かめた。活性のある化合物は全て特許を申請するために、合成方法やその化合物特有の物理的なデータを取って克明に記録した。これらのことをほぼ同時進行で進めていった。
検討した全ての項目に関して、薬となった時に大きな欠点がないと推定できる化合物を最終的に一つまたは二つ選び、その化合物に関して、臨床試験に入るまでにやっておく必要のある様々な研究を行うのが一般的であった。
この段階では合成陣は大変な忙しさとなる。常に薬理研究組織の研究者から急かされるような状況になり、夜を日に接いでてんてこ舞いで必要な化合物を合成するのである。哲也と青田の合成陣にも二人の応援の合成研究者が付いた。昨年入社したばかりであって、いろいろと教えながら薬理からの要求にも応えていかなければならないが、猫の手でも借りたい状況なので合成を知っている研究者が応援に来てくれたのは基本的には歓迎すべきことであった。哲也は余計なことを考えている暇がなく、業務に没頭した二ヶ月間を過ごした。お盆前後の会社の短い夏季休暇の前までには、要望されたり自分たちが必要と考えたりした化合物の全てを合成できた。
結局、哲也が最初に合成した化合物が最もバランスのとれた化合物であることが種々のデータから明らかになった。一見、沢山の化合物を作ったことが無駄のように見えるが、他社からの攻撃を特許で防衛するという観点と、自分たちが安心できるようにするためにも、このタフな作業は十分意味のあるものであった。夏休みが開けて一週間過ぎたところで総合的な結果が出たが、その日のうちに、哲也たちは本命化合物の大量合成を開始した。
前臨床試験と呼ばれる種々の試験を行なうのに必要な沢山の量の化合物を合成しなければならなかった。哲也たちにとって、この作業は辛いことではなかった。むしろ期待感が高まってきているだけに、ワクワクした状況で作業を進めることができた。合成を開始してから二週間後には、必要量に安全を見越した量を加えた五百グラムの哲也の化合物を合成し、構造の確認と純度の検定も終了した。




