プロローグ
二〇一五年七月二十五日、土曜日の午後四時少し過ぎ、塩貝明美は愛犬を日課の散歩に連れ出していた。肌に当たる太陽光は明美には痛く感じられる程まだ日差しは強かった。汗ばんだ額をタオル地のハンカチで拭い、意識が薄れてしまいそうになりながらもいつものコースを歩いた。愛犬にとっては待ちに待った時間であり、飼い主の状況など全く気に掛けず、上り勾配の山道を元気よく綱を引っ張って走るように登って行った。明美は一所懸命になって後を追った。
かなり遠くから叫び声が聞こえたような気がした。
「頭がボーとしているせいかしら……。そうじゃないわ。確かに悲鳴みたいな声が聞こえたわ」
明美は胸がざわつき出した。声がしたと思われる方向に急ぎ足になって進んだ。愛犬は飼い主がいつもの道とは異なる方向に動き出したので、少しの間、座り込んで動こうとしなかった。しかし、直ぐに飼い主の勢いに押されて動き出した。一度動くと決めれば元気さが戻り、再び飼い主を引っ張るように走り出した。
「声が聞こえたのはこっちの方角だったわ。確か、あそこには白い岩がむき出しになっている崖があったはずだわ」
明美はそう言いながら声がした方向に急いだ。愛犬は暫くの間、普段通りに走っていたが、急に大きな声で吠え出し、いつもよりはずっと強い力で明美を引っ張った。明美はその勢いに負け、綱を離してしまった。犬は更に勢いを増して走り上り、姿が見えなくなった。それでも、吠え声はずっと続いていたので、その声を頼りに明美は進んだ。登り道が終わり平らになった場所に出た。
白い岩が露頭して崖になっている所の下はそれ程広くはなかったがほぼ平らで大小の岩石が全面に転がっていた。崖の縁には灌木が生い茂り、白い岩でできた崖の上部の横まで続いていた。
明美は突然立ち竦み、思わず声に出した。
「誰か倒れている!」
崖下の中央部よりは縁の方に寄った所にある大きな岩の上に人が倒れているのが見えた。岩の上に俯せに倒れている人の傍には怖くて近付けない明美は、状況が何とか分かる所まで恐る恐る進み、改めてその人を観察した。がっしりとした体格をした人で、白い半そでシャツに濃紺のズボンを穿いていた。頭の周りは赤く染まっているように見えた。
「大変だ。直ぐに救急車を呼ばなくちゃ」
明美は体が震えるのを感じたが、自分を励ましながらスマホを取り出すと、消防署に電話した。人が崖下の岩の上に倒れていること、場所は明美の自宅がある住所を教え、そこから十五分程山の方に歩いた所であることを伝えた。
倒れていた人は全く動かなかった。いつの間にか明美の傍に戻ってきた犬も尋常ではない様子で吠え続けていたが、明美の制する声でようやくいくらか静かになった。明美は少しでも早くこの場を離れたかったが、そんな無責任なこともできないので仕方なくその場を動かずに我慢した。なかなか救急車は現れなかった。一分間が過ぎるのがこんなに遅く感じられたことはこれまでの人生の中で一度もなかったように思われた。
不安な精神状態のままかなりの時間待ち続けた後、ようやく救急車のサイレンの音が聞こえてきた。明美は慌てて車が通行可能な道の方まで犬と共に走り下りた。救急車が遠くに見えると両手を大きく振って合図した。運転手が明美の姿に気が付き、サイレンを鳴らしたままこちらに近付いてきた。救急車が停止するのももどかしく感じられた明美は、救急隊員がまだ車の中にいるうちから大声で叫んだ。
「あっち、あっち。向こうに人が倒れているの!」
明美の指示する方向に向けて二人が担架を抱えて走り出した。別の一人は明美の所に落ち着いた様子で走り寄り、状況を尋ね始めた。明美は隊員の質問に答えながらも必死でさっきの場所に走っていった。
「あそこです。人が倒れているでしょう! 頭から血が流れているみたいなんです」
明美の指示に従って崖下で倒れていた人の傍に辿り着いた救急隊員たちの行動は素早かった。
三人の救急隊員は先ず倒れている人に近付き、直ちに現場でのその人の状況確認を行なった後、担架に乗せて救急車まで運んだ。病院に連絡して受け入れを確認後、警察に電話を入れて報告した。隊員一人を明美と共に現場に残し、再びサイレンを鳴らしながら病院に向かい走り出した。
犬との散歩の後は家に帰って夕食の支度をするつもりでいた明美は、そろそろ日が沈んでしまいそうになるまで現場近くに残った救急隊員に待機させられた。ようやく警察が到着すると、第一発見者である明美は刑事から質問攻めにあった。何度も同じような質問に答えさせられた後で、一人の刑事から、先ほど救急車で運ばれた人は病院で死亡が確認されと聞かされた。亡くなった人が着ていたポケットから名刺が見つかり、G製薬会社に勤務する男の人だということであった。
明美は刑事に知り合いかどうか訊かれたが、勿論、知っているはずはなかった。最後に連絡先を聞かれ、ようやく解放された明美は、吠え疲れたのかしょんぼりしてしまった愛犬を引っ張るようにして、暗くなり始めた山道を疲れ果てた様子で家に向かった。