妄想
綺羅々は、学校の授業中も、家に帰ってからも小説を黙々と書きためた。綺羅々が考えた「包帯の姫君と執事」のストーリーはこうだ。
“綺羅々は、「如月家」というとある大地主の娘に生まれ、父親と母親、兄、弟、姉、そして自分の六人家族という家族構成で暮らしている。如月家は海辺に立派な豪邸を構えているものの、綺羅々は、十八歳にして、執事である慎と二人で、森の奥深くにひっそりと建つ二階建てのレンガ造りの別邸に暮らすことになった。
その理由は、綺羅々は他の兄弟と腹違いの妹、つまり父親の愛人の娘ということに対してコンプレックスを持っており、ある日突然、気持ちが爆発して自傷癖が始まったことから、半ば強引に別荘の豪邸でひっそりと暮らした方が良いと父親が決断したからだった。
綺羅々の面倒は執事の慎が一手に引き受けることになった。何より綺羅々が心を開いている人物であるということが理由である。慎は綺羅々の従兄にあたる人物で、幼い頃に慎の父は亡くなり、孤児になった慎を執事として綺羅々の父親に受け入れてもらえたという過去がある。実は慎も綺羅々に好意を持っているが、身分違いの恋として自分の気持ちを封印しつつ、その代わり綺羅々の要望には何でも応える――“
慎と二人だけで暮らすために、そして、慎に何でも甘えたいがために、綺羅々は少し大げさとも言える夢物語を描いた。現実的な物語にするよりも、夢があって綺羅々にはずっと心地良かった。何より、小説の中でなら、何を書いても誰も文句は言わない。
慎の格好は執事らしく、黒いスーツに黒いネクタイ、そして白い手袋と黒い革靴を履いている設定にした。まだ慎と交流があった頃、一度だけ慎の眼鏡姿を見たことがあり、その眼鏡姿がとても格好良かったので、さらに慎に縁なしの眼鏡もかけてもらうことにした。
一方の綺羅々は、服装をどうしようか思い浮かばなかった。両脚全体に包帯を巻き、眼帯を付けるのは、過去の実体験に基づいて設定を決めた。両手が使えないと不便なので、右の二の腕と手首に包帯を巻くだけにした。服装は、最終的に襟付きで、後ろ姿は腰元までボタンがついているワインレッドの長袖のワンピースというシンプルな服装をすることにした。
小説の中では、朝は慎に起こしてもらい、朝食を作ってもらい、森の中に散歩へ出かけ、昼食を食べ、癇癪を起こせばなだめてもらい、そしてお風呂に入り、夜ご飯を食べて、夜は添い寝をして一緒に寝てもらう―という日常を中心に描いた。
朝から晩まで慎と一緒にいたい、片時も離れたくない。心の中で思い描いてきた叶えられない想いをありったけ自分の小説に込めて書きためていった。
小説を書いていると、自傷癖の再発はなくなり、小学生の時から敬遠していた体育の授業や水泳の授業にも徐々にでられるようになった。どうしても目立つ傷は、同級生の間でも噂になったが、綺羅々はそれを事故の後遺症だと言って嘘をつき、そして小学生の時に実際に起こった自分の経験を語ると、半ば同情的な眼差しを向けられてそれ以上何も聞かれることは無かった。
彼女は中学三年間を、勉強と読書と小説を書くことに没頭した。慎とは5年会っていなかったが、小説の中では、綺羅々を支える存在として、綺羅々が生きる生きがいにもなっていた。
そして、中学の成績が良かったこともあり、高校は有名な進学校に合格した。このタイミングで、藤治と沙喜は正式に結婚し、沙喜は綺羅々の母親になった。最初は沙喜を苦手として綺羅々も、時間をかけて沙喜を徐々に認められるようになった。沙喜は変に媚びたり母親面をしようとしないが、入院した時は心から心配してくれ、家事や料理も欠かさず行ってくれる。お小遣いが欲しいと言うと、お父さんには内緒ね、と言っていくらか渡してくれたこともあった。これがもしかしたら本当の「母親」なのかもしれない、と綺羅々もようやく認めることができつつあった。
そして、沙喜の希望で結婚式は行わず、三人そろってレストランで細やかなお祝いをした。
「無理にお母さんなんて、呼ばなくて良いから。沙喜でも、沙喜さんでもいいからね」
そう言って微笑む沙喜に、綺羅々は頷いた。藤治もやっと綺羅々の様子が落ち着いてきたことに安堵し、一層仕事に身が入るのだった。
高校の入学式、校門の前で綺羅々は紺色のセーラー服に身を包み、沙喜と藤治の間で笑っていた。その笑みは、長らく微笑まなかった綺羅々が少しだけ笑った写真であり、その写真が最初で最後の家族写真となった。
なぜなら――この三年後、綺羅々は慎を殺害してこの世を去ることになるからだ。綺羅々の遺影には、この入学式の写真が使われことになるのだが、綺羅々本人も、藤治も沙喜も、このときは知るよしも無かった。