崩壊
慎は綺羅々のお願い通り、時折お見舞いに来てくれた。綺羅々は甘いクッキーが好きだったので、手土産にはいつも甘いクッキーを持って現れた。
この日は二回目の見舞いだった。甘いクッキーが入った手提げ袋を掲げて、ベッド脇の机にそっと置いた。
「具合はどう?」
そのまま、慎がベッド脇の椅子に腰をかけると、綺羅々は思うように動かない左腕をそっと上げ、
「まだまだ思うように身体は動かせないよ。両脚骨折となれば、そんな簡単には治らないし、当初よりもっと完治が伸びる可能性もあるって言われた」と言った。
「……そっか、辛いね」
痛々しい姿の綺羅々に、まだ慎は見慣れないのか、それとも綺羅々を振ったことに負い目を感じているのか、以前よりも慎は綺羅々に温かな笑顔を向けることは少なくなり、どこか陰のある、切ない笑い方をするのだった。
「慎くんは最近どう?」
「卒論が何とか終わって、後は免許を取りに行ったり、卒業旅行の計画を立てたりしてるよ」
「大学生って楽しい?」
綺羅々の問いかけに、慎は顎に手を当てて、少し考える仕草をした。
「うーん、そうだな。自由って意味では楽しいと思うよ」
「自由?」
「小学校や中学校、高校の時に比べると、自分で選べる選択肢が増えるってこと。その分、悩みは多くなるけどね」
綺羅々には大学生になるということが自分にとって遠い未来のような気がした。自分が大学生になったら、慎はもう三十歳近くなっている。三十歳の慎は一体どんな姿をしているのだろう。
「左腕が使えたら、慎くんとトランプできたのにな」
綺羅々は遠い目をして、慎の後ろにある窓の外を眺めた。空は快晴だ。慎の未来も快晴に違いない。自分の心の中だけが曇天で曇っている。
「退院したら、きっと出来るよ」
慎は綺羅々の右手に遠慮がちに触れて、そしてまた切なげな顔で笑った。慎の手は温かく、一瞬だけ綺羅々の冷たく凍った心臓に熱が戻った感覚がした。
「そうだね、頑張る」
綺羅々は身体を思うように使うことが出来ないため、慎との面会は他愛の無い話をして三十分ほどで終わり、慎は帰って行った。自分の腕が動かせたら、もっと慎を独占できたのに、綺羅々は悔しくて歯ぎしりした。何度も何度も歯ぎしりして、頭が痛くなるほどだった。
*
骨折の部位の回復が遅く、リハビリが出来るようになるまで思いのほか時間がかかってしまったため、退院のめどが立ったのは、結局入院してから三ヶ月ほど経った頃だった。両脚の骨折ということで、退院しても暫くは車椅子で生活をし、通院でリハビリに通いながら普段通りの生活を目指して行くと言うことになった。左腕の骨折は殆ど快方に向かい、利き腕でないということもあって生活に支障が出ることはなくなった。
退院の日、藤治と沙喜、慎と慎の父親が退院を祝ってくれた。花束を受け取り、「おめでとう」と皆から言われた。しかし、綺羅々は嬉しくなかった。相変わらず世界はモノクロで、自分の身体が少し良くなっただけで何も変わっていない。自分の家に帰るのも憂鬱だった。沙喜は母親面を決してしないが、入院している間に自宅に引っ越ししたらしい。これも綺羅々の生活をサポートするためだと藤治からは説明された。数回しか会ったことの無い他人が家に来るのは、綺羅々にとっては苦痛だったが、拒否する元気も綺羅々には無かった。
退院祝いは、病院の近くのレストランで行われた。味気ない病院食と違って久しぶりの外食は綺羅々にとって少しだけ嬉しい出来事だった。綺羅々は好物のオムライスを食べ、好きなだけジュースを飲んだ。食後にはアイスも食べた。その様子を見て、藤治も沙喜もほっとしたのだった。ただ慎だけは、相変わらず何かが閊えたような複雑な笑みを、綺羅々に向けるのだった。
レストランを出ると、綺羅々は一つわがままを言った。
「慎くんと少し出かけたいんだけど、良い?」
真っ直ぐに家に帰るつもりだった藤治は、思いがけない言葉に困惑して首の後ろを無意識に擦ったが、慎が、
「俺は良いですよ。責任を持ってご自宅まで送りますから」
と言ったので、ずっとリハビリを頑張ってきた綺羅々の願いを聞くことにした。沙喜も、慎の父親も特に異論は無かった。
綺羅々は慎に車椅子を押してもらい、レストランを後にした。
「どこか行きたいところ、ある?」
慎がゆっくりと車椅子を押しながら綺羅々に問いかけた。
「泉の丘に行きたいな」
「分かった。泉の丘だね」
泉の丘はここから歩いて二十分ほどの場所にある公園だ。あまり広くは無いが、公園の中央に綺麗な噴水があり、地域住民の憩いの場になっている。
「わがまま言ってごめんね」
前を向いたまま、綺羅々がぽつりと呟いた。
「大丈夫、わがままのうちに入らないよ」
そう言って、慎は車椅子を押して行く。初秋の風が心地よく、綺羅々は目を閉じて秋の空気の匂いや、人々の生活音を聞いた。後ろに慎の気配がするのも、綺羅々にとってはつかの間の幸せだった。
泉の丘に着くと、数人の子ども達が楽しそうにボール遊びをしたり、小さな子連れの母親が世間話をして楽しそうに笑っていた。慎は噴水近くのベンチに綺羅々を連れて行き、ベンチの横に寄せると、自分はベンチに腰をかけた。
「やっと退院できたね」
「うん」
「これで好きなことできるようになるね」
慎は微笑んだが、綺羅々は笑わなかった。
「全然嬉しくないよ」
綺羅々の言葉に、慎は思わず綺羅々の横顔を見つめた。
「え……どうして?」
「……。慎くんに会えなくなる」
その言葉に慎は押し黙った。そして、何かを考えるように俯いた。綺羅々の世界はモノクロだが、慎の一挙一動は全てカラーに見える。
そう、もっと戸惑って、私のことを考えて。カノジョなんかと別れて、ずっと私の傍に居て欲しい。
すると、慎は大きく深呼吸をして、自分の想いを語り始めた。
「少し前の俺だったらさ、きっと、また会いに行くよ、って、言ってた思う。俺にとって綺羅々ちゃんは妹みたいに可愛かったから」
綺羅々はいつになく真剣な慎の声色に、嫌な予感がした。それ以上は、言わないで欲しい、と思った。しかし、慎は綺羅々と視線を合わせずに、噴水を眺めながら、
「俺、これ以上、綺羅々ちゃんを傷付けたくないんだ。だから、綺羅々ちゃんに会うのは、これで最後にしようと思う。中途半端なことはしたくないから」
と決意表明のようにはっきりと言った。
その瞬間、綺羅々の身体の中で、何かがプツンと音を立てて切れた。身体はどんどん冷え切っていき、慎の姿さえも段々とモノクロになっていった。慎は綺羅々から距離を置こうとしている。綺羅々は退院したら、また自分の身体を傷付けて、それで入院して、慎にお見舞いに来てもらおうと思っていた。でも、慎はもう自分に会わないと言っている。
「私は何も悪いことをしていないのに、どうして慎くんは離れて行くの?」
綺羅々の瞳からは自然と、涙があふれ出していた。
「俺が居ると、綺羅々ちゃんは辛い。でも、俺も、綺羅々ちゃんと居ると、辛い」
「……どうして?」
「俺は、どうしても、綺羅々ちゃんを『女性』として見ることは出来ない。それに、結婚しようと決めた人も居る。それなのに、綺羅々ちゃんは、俺のこと、本当に好きだって言ってくれてる。それじゃあ、綺羅々ちゃんも、俺も、辛い」
そこまで言うと慎は言葉に詰まり、何かを飲み込むように嗚咽を堪えた。そして、綺羅々の車椅子を押して泉の丘を出て行こうと歩き始めた。綺羅々は泣いて嫌がったが、慎は車椅子を押すのをやめなかった。綺羅々は家に帰るまで涙が止まらなくなり、そして家に帰っても泣き続けた。
慎は、藤治と沙喜に、病院での生活が辛くて精神的に不安定だと嘘をついて、そして綺羅々の家から静かに去って行った。それ以来、慎は綺羅々の家に来ることは無かった。
それ以来、綺羅々は学校にも行かなくなり、家に引きこもるようになった。時折叫んだり、暴れたりして藤治と沙喜を困らせた。何よりも、カッターで突然自分の腕を傷付けたり、陶器を割って自分の身体を傷付けるような行為をするようになった。慎に来て欲しい一心で綺羅々は自分の身体を傷付けた。
それでも、慎が綺羅々の前に姿を現すことは無かった。