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事故

 綺羅々は、失恋を経験したあの日から、日常がモノクロになった。どこを見ても白と黒、色は無く、生活は何もかもが坦々と過ぎていった。感情という感情が綺羅々から無くなっていた。そうしないと、慎のことを忘れることができそうに無かった。


 慎に「カノジョ」が居る。そして、自分と慎は十一歳も離れている。この事実は変えようが無かった。もし、慎が彼女と別れたとしても、自分が慎から恋愛感情を抱いてもらえる可能性は、少なくとも自分が子どものうちは無いと、綺羅々は分かっていた。慎は自分を妹として見ている。どんなに恋い焦がれても、手に入らないものがあると、綺羅々は十歳で理解した。子どもがおもちゃを欲しがるように癇癪を起こしても、慎はきっと自分の本物の彼女にはなってくれないだろう。


 自分が成人するまで、慎への気持ちを抑えることができるのか、綺羅々には分からなかった。だから、自分の気持ちを心の奥に封じ込めて過ごすことにした。


 しかし、現実はもっと残酷だった。


 ある日の学校帰り、モノクロの世界を綺羅々が歩いていると、大きな警音が鳴り響くのが聞こえた。彼女はその警音に驚いて、音の方へ目を向けると大きなトラックが目の前に迫っているのが分かった。彼女は自分に何が起こっているのか分からなかった。そしてそのまま、強い衝撃が身体を襲い、痛みのあまり彼女の意識は飛んだ。


 綺羅々は意識を失っている間にいくつかの夢を見た。それは、全て慎の夢だった。


 自分の机に向かって、二人で椅子を並べて座っている。慎が綺羅々の宿題を見て、丁寧に問題の解き方を教えてくれる。男らしいごつごつとした手なのに、指先だけは細くて繊細だった。


 一緒にボードゲームをした時に、負けて悔しそうにする慎の顔も思い浮かんだ。それでもすぐ後には「やられちゃったなあ、綺羅々ちゃん強いよ」と言ってすぐに笑顔に戻る。綺羅々はその笑顔が好きだった。太陽のような温かい笑顔。


 ある時は、母親が居ないことに対する不安を口にした時、ポンポンと頭を叩いて、「俺が居る時は寂しくないだろ?」と言って励ましてくれた。


「これ、面白いよ」と言って図書館の本を貸してくれた時の慎も好きだった。一緒になって本を読む静かな時間、時折、難しそうな本を読んでいる時の慎を盗み見ると、その眼差しは真剣だった。幼稚な同級生の男子とは違う、「オトナ」の顔。自分もオトナになったら、こんな顔ができるのかな―。


 慎が作る料理も美味しかった。野菜の形はバラバラだったけれど、焼きそばやチャーハンはとても美味しくて、いつか自分も料理ができるようになって慎に手料理を振る舞おうと思った。


 どうして私は、コドモなのだろう、慎くんのカノジョはどんな人なんだろう。悔しい、悔しい、悔しい。慎くんを自分だけのものにしたい。


「……慎くん」

 そう呟くと、綺羅々の瞳からは温かい滴が流れ落ちた。そして、意識がすうっと現実の世界へと戻っていった。


 綺羅々が目を覚ますと、家の匂いとは異なる、消毒液のような匂いが鼻についた。少し汚れた白い天井が見えるが、右目が何かに覆われて左目でしか確認できない。左手も、両脚全体も固定されている気がする。


「綺羅々、目が覚めたのか?」

 藤治の声がして、ベッドの脇に視線を向けると、泣き腫らした藤治の姿があった。

「私、どうしたの?」

 無意識に綺羅々の声は震えていた。

「事故に遭ったんだよ。赤信号を歩いているところを、トラックにはねられたんだ」

「赤信号……トラック……」

 モノクロの世界に、信号の色は無い。綺羅々はただ家に帰ろうとしただけだった。

「とにかく、生きててくれて良かった。本当に良かった」

 そう言うと、藤治は綺羅々の手を力強く握った。藤治の手は少し湿っていた。


 綺羅々は自分が生きていることが本当に良いことなのか、分からなかった。あのまま慎の夢に包まれたまま死んだ方が幸せだったかもしれない、と思った。

 幼い頃に母親に捨てられ、父親は他人に自分の世話を押しつけた。その上、新しい女性を母親にすると言う。唯一、信頼していた慎くんにはカノジョが居て、私はひとりぼっち。綺羅々は死んでしまえば良かったのに、と思った。


 ぼんやりと綺羅々がそんな風に考えていると、病室の扉を叩く音がした。藤治は綺羅々の手を離して立ち上がり、扉の方へ向かって歩いていった。藤治が扉を開けると、そこには慎が立っていた。モノクロの世界に、慎だけが色づいて見えた。そして、何とも言えない感情がぐるぐると渦巻いて、綺羅々の心臓を押しつぶしそうになった。


「綺羅々ちゃん……」

 変わり果てた綺羅々の姿に、慎は絶句してしばらく言葉が出ない様子だった。ゆっくりと綺羅々の方へと近づくと、藤治の代わりに椅子に腰をかけた。藤治は、飲み物を買ってくると言って、そのまま病室を後にした。


「綺羅々ちゃんが事故に遭ったって聞いて、居ても立ってもいられなくなって来た」

 慎は涙ぐんで綺羅々を見つめた。泣きたいのは綺羅々の方だった。


 ――なんでこのタイミングで慎くんが現れるの?


「……慎くんの夢を見てたよ。ずっと」

 綺羅々がそう言うと、困惑の表情が慎の顔に広がっていった。

「俺が来たの、迷惑だったかな」

「そんなこと無い、でも、このまま死んじゃえば良かったのにな、とは思った。慎くんの夢を見ていた時、幸せだったもん」

 慎は悲しそうに瞼を閉じて、俯いた。

「綺羅々ちゃんには生きていて欲しいよ。色んな世界を見て、色んなことを知って欲しい。人生思い通りに行かないことの方が多いし、俺もそうだった。綺羅々ちゃんは俺にとって大切な人であるのは間違いない。だから、生きて幸せになって欲しい」

「そんな言葉、聞きたくない。慎くんは私のこと、何も知らないくせに」

 綺羅々の口調は思いのほか強く、慎は傷ついたようだった。

「そうだよな、ごめん」


 すぐに藤治が缶コーヒーを二つ持って病室に戻ってきた。気まずい空気を察知したのか、敢えて冷静な口調で、

「少し、綺羅々の状態を共有しておこうか」と言った。

 藤治は慎に缶コーヒーを渡し、慎は会釈して藤治に席を譲った。

「綺羅々は、全治二ヶ月ということだ。ぶつかった時に両脚と左手を骨折して、それから、右目の瞼にも傷がついた。幸い、視力には異常は無いということだ。リハビリをすれば、日常生活に戻れるということだった」

 慎は神妙な面持ちで藤治の言葉を聞いていたが、綺羅々はどこか人ごとのように聞こえた。私の両脚は折れていて、左手を骨折している。右の瞼にも傷がついた。

 違う、一番傷ついているのは心だ。心は今にも死にそうに凍えている。


「綺羅々、大変だと思うが、一緒に頑張っていこう。沙喜さんも来てくれる」

 藤治は敢えて慎には触れなかった。藤治のその発言が綺羅々は気に入らなかった。


「ねえ、慎くん」

 綺羅々が天井を向いたまま呟くと、慎は缶コーヒーを強く握りしめて綺羅々を見つめた。

「慎くんも、時々お見舞いに来てくれる?」

 綺羅々の口調に感情はこもってなかった。しかし、慎は、

「ああ、必ず来るよ。絶対に」

 と言って、切なげに眉を下げて微笑んだ。


 綺羅々は慎に復讐しようと思った。自分のこの傷ついた身体を理由にして、慎を少しでも傍に置いておきたいと思った。恋が破れても、少しでも長く慎をつなぎ止めておきたい。怪我をしなければ、自然と慎との距離は離れていったかもしれない。仮初めでも、慎を傍において、そして二人だけの時間を過ごすのだ。


 (そうだ、何度でも怪我をして病気になれば良い。そうしたら、慎くんはお見舞いに来てくれる。慎くんは優しいから、自分を見捨てたりしない)


 綺羅々は十歳なりに知恵を絞って、この計画を思いつき、そして実行することにした。事故をきっかけに、綺羅々は自分の身体を傷つけることに目覚めた。自分はどうなっても良い、慎が傍に居てくれるなら、と思ったのだった。



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