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失恋

 慎の就職活動は、大学四年生の春にはもう終わっていた。慎は国立大学に通い、成績も優秀、物腰も柔らかく人当たりも良かったため、面接官からの評価も好評であり、比較的スムーズに就職先が決まった。

 綺羅々の様子を心配した慎は、就職活動が終わると、卒業論文を作成する傍ら、最低でも週に1回ほどは再び顔を出すようになった。慎はこの時二十一歳、綺羅々は十歳になっていた。


 再び慎が来ることが分かると、綺羅々の精神状態は一時的に回復した。綺羅々自身も慎が宿題を見たり、勉強を教えてくれた影響で、勉強が好きになり、同学年では成績は優秀であった。そして、人見知りとは言え、クラス替えが行われて人間関係が心機一転すると、時間をかけて少しずつ友人関係も築いていった。

 綺羅々にとっては、週1回という限られた時間は不満であったが、その分、慎が来る時は精一杯おしゃれをしようとしていた。友人が小学生向けのおしゃれ雑誌を休み時間に見ているのを一緒に眺めてから、綺羅々も化粧に関心を持ち始め、雑誌で勧められていたリップを生まれて初めて買ってみた。そして、慎が来る時にそのリップを付けてみた。


「ねえ、慎くん」

「どうしたの?綺羅々ちゃん」

 慎は卒業論文で忙しく、この日は綺羅々と過ごす傍らで卒業論文の文献となる本を読んでいたが、綺羅々の問いかけに顔を上げた。

「リップ、付けてみたんだ、どうかな?」

 照れくさそうに綺羅々が笑うと、慎はふっと口許を緩めて、

「うん、とっても似合っているよ」

 と言った。それだけで綺羅々の体は熱くなるのだった。

「最近の小学生はおしゃれにも関心があるんだね」

「このリップ、小学校の友達が読んでた雑誌に載ってたの。あの千円札、覚えてる?あの千円札出して買ったんだ」

 綺羅々から出てきた「友達」という言葉に、慎は内心安堵した。少しずつ、自分以外の人間にも心を開き始めているのが嬉しかった。

「そっか、良かった。綺羅々ちゃんのお金は綺羅々ちゃんが綺麗になったり、綺羅々ちゃんのためになることに使うんだよ。そしたらお金も喜ぶと思う」

「うん。綺羅々、もっとおしゃれになるから、見ててね」

「分かった、楽しみしてるよ」

 慎の笑顔を見ると、綺羅々は心から幸せな気分になるのだった。


 一方で、秘密裏に藤治と慎は、新しい母親を綺羅々に受け入れさせようとする計画を進めていた。社会人になれば慎はほとんど綺羅々に会いに来られなくなる。そうすれば綺羅々は再び取り乱し、何をするか分からなかった。早いうちに新しい母親と良好な関係を築き、占見家を新しく立て直そうと藤治は諦めていなかった。

 母親候補の名前は「米田沙喜」と言い、父親の職場の後輩であることは綺羅々も何度か会っているため、知っている。しかし、沙喜と慎は面識がなく、藤治、慎、沙喜、綺羅々を交えて四人で交流を深めることで、徐々に綺羅々に沙喜を受け入れてもらおうという話になった。幸い、沙喜も綺羅々の情緒不安定さは理解しており、一緒に家庭を築いていこうと誓ってくれたのだった。


 毎月二回程、土曜日か日曜日の夕食の時間に四人でご飯を食べることになった。綺羅々は慎と会える回数が増えたことが嬉しく、その日はとても機嫌が良かったが、一方で沙喜とはあまり積極的に会話をしようとはしなかった。


 その様子を心配した慎は、綺羅々と二人で過ごしている時、

「綺羅々ちゃんは沙喜さんのことが苦手なのかな」

 と率直に質問をぶつけてみた。すると、綺羅々は、

「うん。お父さんが、あの人をお母さんにするって言ってるから……」

 と暗い口調で答えた。確かに、まだ十歳の少女に新しい母親というのは、受け入れられないのかもしれない。しかし、いつまでも自分に頼る綺羅々ではなく、少しずつ自立した綺羅々になって欲しいと慎は考えていた。

「俺さ、沙喜さんと何回か話してみて思ったけど、とてもいい人だと思うよ。綺羅々ちゃんのことも可愛いって言ってくれるし、おしゃれだって俺より沙喜さんの方が詳しいと思う」

 慎にとっては綺羅々のためを思っていった言葉だったが、綺羅々はその言葉にかえって傷ついた。

「……単に、おしゃれしたいだけじゃないもん」

「え……?」


「慎くんに見て欲しいから、おしゃれしたいの」


 綺羅々の思いがけない言葉に、慎は胸が締め付けられる想いがした。綺羅々は単に寂しさから自分を求めているだけだと考えていたが、十歳の少女が自分に明らかな好意を持っていることに初めて気付いたのだった。自分の鈍さに嫌気が差した。


「私、学校の子に、慎くんの話をしてみたの。そしたら、それって『好き』ってことなんだって、言われた。私、慎くんのこと、好きみたい」

 十歳の少女に告白されて、慎の顔はみるみるうちに赤くなっていった。当然嬉しさはあるが、動揺して頭の中が混乱して呼吸を落ち着けるのに必死だった。そして、彼女を傷つけないように、どうしたら良いのか、必死に言葉を探した。

「慎くんと付き合うことは、できないの?」

 まだ幼い少女の言葉は一直線で、矢のように鋭い。彼女に告白されてしまった以上、自分も何かを答えなければ、彼女はもっと傷ついてしまうだろう。しかし、断っても彼女は更に傷つくだろう。慎は言葉に窮した。


「……綺羅々ちゃんの気持ちは、とても嬉しい」

 慎は、その言葉を絞り出すので精一杯だった。しかし、綺羅々はその先の言葉をじっと待っていた。慎は、もう、言うしか無い、と思った。

「ごめん、綺羅々ちゃん、俺、彼女が、いるんだ」


 綺羅々は慎が何を言っているのか理解できなかった。「カノジョ」?

「綺羅々ちゃんには言ってなかったけど、ずっと付き合ってる彼女がいる。高校の時から付き合っている彼女がいるんだ」

 慎の言葉は綺羅々の体を駆け巡ったあと、綺羅々の瞳から光を奪っていった。自分は何も知らなかった。慎は自分に彼女がいることをずっと黙って、この数年間を一緒に過ごしてきたのだ。何故、なぜ――?

「……どうして、言ってくれなかったの」

「ごめん。本当に」

 慎に彼女がいるのは嘘ではなかった。彼女は綺羅々のことを知っていたし、理解を示してくれた。当然藤治や沙喜も知らされていた。しかし、綺羅々に敢えて言う必要はないと考えていた。彼女の存在を知らせれば、自分に会いに来る回数が減るのではないかと変に勘ぐる可能性があったのを危惧してのことだった。しかし、慎への依存が恋愛感情と密接に結びついていたことは、誰も気付かなかった。綺羅々自身も、それが「恋」だということは、友人に知らされたから初めて自覚したのだ。


 こうして、綺羅々の初恋は、あっけなく、終わりを告げた。


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