癇癪
慎の就職活動が本格的に始まると、綺羅々は殆ど慎に会うことは出来なくなった。綺羅々は寂しさを紛らわせるように慎が以前勧めてくれた本を何度も読み返し、そして慎の「シュウショクカツドウ」が早く終わって再び自分と遊んでくれることを夢見た。
慎を健気に待ち続ける一方で、綺羅々にはある不幸が起こった。それは、綺羅々の父親、藤治が新しい「母親候補」を連れてきたことだった。最初、藤治は母親候補とは言わず、会って欲しい人が居ると言って、レストランで外食しただけだった。その母親候補は、父親の会社の後輩だと言い、とても物腰が柔らかく、直情的だった前の母親に比べて精神的な余裕さえ感じられた。
藤治は、綺羅々が学校の話よりも慎の話を頻繁にすることから、綺羅々が慎に依存している状態であることに感づいており、早く自分の家庭を立て直し、新しい家族を築きたいと考えていた。それ故、月に何度か外食やレジャーに母親候補を連れて行き、綺羅々に慣れさせていった上で、正式に母親として迎えたい、と綺羅々に打ち明けるつもりだった。それを知らずに、母親候補を単純に父親の友人だと思っていた綺羅々は、その時まで非常に良好な関係を築いていった。
しかし、父親がある日、ついに綺羅々に母親候補を「母親にしたい」と言った瞬間、綺羅々の平和な日常は崩壊した。
綺羅々にとって、新しい母親が来ると言うことは、全く赤の他人が土足で家に踏み込んでくるのと同じ感覚だった。人一倍人見知りの綺羅々は、父親の前で激しく癇癪を起こした。
「綺羅々、君を傷つけたなら申し訳ない。でも、綺羅々のためにも、お父さんは綺羅々が安心できる環境を作ってやりたいんだ」
「綺羅々は新しいお母さんなんて、いらない。あの知らない人はお母さんなんかじゃない。新しいお母さんなんていらないから、早く慎くんに会いたい。慎くんは次、いつ来るの?」
藤治は小さくため息を吐いた。忙しいからと安易に兄の息子に頼りすぎたのは、かえって綺羅々にとって良い方向に働かなかったと、自分の行動を悔いた。
「慎くんには、慎くんの人生があるんだ。綺羅々と会うのを慎くんも楽しみにしているけど、でも慎くんは、残念ながらお父さんの家族じゃないんだ。だから……」
綺羅々は藤治の発言を待たずに、机の上の貯金箱を投げつけた。その豚の貯金箱は、慎に千円札をあげようとした時の貯金箱だった。陶器で出来た豚の貯金箱は床に落ちて砕け散った。
「お金なら綺羅々が稼ぐ!慎くんじゃなきゃ、嫌、嫌!綺羅々、絶対に新しいお母さんなんていらない!」
そう言うと綺羅々は自分の部屋へと閉じこもり、そして慎が来るまで部屋から出ないと父親に向かって叫んで鍵を閉めた。
*
綺羅々が部屋から出なくなって二日ほど経った頃、藤治はとうとう慎を連れて家へとやってきた。何度説得しても、綺羅々は自分の部屋から決して出てこなかった。食べ物も飲み物も飲まず、慎と一緒にやったボードゲームやトランプ遊び、そして同じ本を何度も読み続けた。
「綺羅々ちゃん、慎だよ」
慎はひどく心配そうな声で、綺羅々の部屋の扉の外から声をかけた。少しずつ弱りかけた綺羅々は、その声を聞くと、ふらふらと扉まで歩いて行き、鍵を開けた。
慎が扉を開けると、綺羅々がぐったりと倒れ込んできた。その体を受け止め、慎は綺羅々を抱き締めてやった。
「ごめん、綺羅々ちゃん。なかなか会いに来られなくて」
「……慎くん、会いたかった。ずっと待ってたんだよ」
綺羅々は大声で泣き、そして安心したように慎の腕の中で眠り込んだ。藤治はその様子を深刻な面持ちで眺めていた。綺羅々を慎から離れさせるのは容易ではないだろう、慎には事情を説明してあり、綺羅々とは少しずつ距離を置くように段階を踏んでいこうと話し合っていたが、最終的には慎から綺羅々に、きちんと話をしてもらわなければ、改めてそう思った。いくら自分が言っても、綺羅々が言うことを聞かないことは分かっていた。こういうところは、別れた母親にそっくりだ、と藤治は思った。