【番外編】有栖川未加の初恋
有栖川未加は、高校の入学式、後ろの席の女子生徒に生まれて初めて恋をした。自分の後ろの席に着く瞬間、一瞬だけ目が合って、そして、その瞳と独特の佇まいに一瞬で恋をした。
周りに目を遣ると、早速、クラスの何人かの男子が彼女を盗み見ているのが分かる。きっと自分と似たような感情を彼女に抱いているのだろう。
未加は生まれた時から、恋をしたことが無かった。周りの友人が好きな男性アイドルの話や、初恋の男の子の話をしても、未加はその話題についていくことが出来ず、どこかで劣等感を抱いていた。自分には「好き」という感情が欠落しているのではないか、と。
しかし、成長していくに従って、未加にはある違和感が芽生えるようになった。なんとなく素敵だな、と思う人がすべて「女性」だったのだ。自分はもしかすると、頭がおかしいのではないか、そんな風に考えては恋を自分の中から排除しようと努めた。テレビで「LGBT」の話題が流れても、自分はきっと違う、そんな風に考えて、わざと明るく社交的にすることで、自分の奥底の気持ちから逃れようとした。
そして中学で演劇にのめり込むようになった。演劇は違う自分になれる。自分を縛るものから解放されて、別人になることが出来る。それは未加にとって唯一、自分を見つめなくて済む幸せな時間でもあった。高校も、そうやって自分の気持ちを押し殺して生きていくつもりだった。
それなのに、未加のもくろみは、後ろの女子生徒のせいで、一瞬にして崩れ去った。
女子生徒を見た瞬間、心臓がわしづかみにされたように苦しくなった。めまいがして、今すぐここで叫びたい程の衝動に駆られた。ため込んできた何かが、彼女をたった一目見ただけで、溢れそうになる。
―駄目だ。「道化」に徹しなければ。
未加は黙っていると溢れそうな思いを逆手に取って、思い切って、後ろの女子生徒に話しかけることにした。一生懸命、自分が培ってきた能力を生かして。
「はじめまして!私は有栖川未加。高校初日って緊張するけど、前後の席ってことで、仲良くしてくれたら嬉しいな」
綺羅々を改めて前から捉えると、未加は道化の仮面をうっかりと外しそうになってしまう程に動揺した。黒髪を腰の辺りまで伸ばし、艶やかな髪色はうっとりするほど美しい。
彼女が美しいのは髪だけでは無い。容姿も、化粧っ気は無いのに、人を惹き付ける魅力を感じさせる。それなのに、瞳の奥には何か暗いものを抱えていて、誰にも心を開かない、そんな雰囲気がある。
綺羅々は窓の外を眺めていたが、未加に話しかけられて少し驚いたように目を丸くし、その後、微笑んだ。
「あ、うん。私の名前は、占見綺羅々です。…その、あまり人と話すことになれて無くて、ちょっと緊張しているけど、でも、嬉しかった。私こそ、仲良くしてくれたら嬉しいな」
綺羅々は言葉通り、緊張しているらしく、少しぎこちない話し方をした。
その言葉を聞いて、未加には自分でも恐ろしいほど、独占欲が芽生えていくのを感じた。人見知りなら、自分から話しかけるのはそうそう出来ないだろう。なら、自分が積極的に話しかけて、彼女と親友になりたい。他の生徒の誰よりも綺羅々と仲良くなって、一緒に過ごしていたい、と。
それでも道化をやめてはいけない。仮に自分が綺羅々に惹かれているとしても、絶対にそんな素振りを見せてはいけない。彼女にとっての「親友」で居なければならない。それでも、未加にとっては初めて惹かれた女性を独占できることは、幸せなことなのだから。
それから未加と綺羅々は本当に親友になった。授業の予習復習を一緒にしたり、他愛の無い話をしたり、放課後に一緒に帰ったり、そんなささやかな日常は、未加にも綺羅々にも心の平穏をもたらした。未加は時々、押しつぶされそうに苦しくなる時があったが、その気持ちにも蓋をして、綺羅々との幸せな学生生活を享受した。
程なくして、未加は自分で演劇部を立ち上げ、演劇に興味がありそうな人をかき集め、小説を書くのが好きだと言った綺羅々に脚本を依頼した。
綺羅々は元々おとなしい人間であったが、脚本も暗いものばかり書いた。シェークスピアで例えるならば、ロミオとジュリエットや、ハムレット、タイタス・アンドロニカスのような脚本だった。あまりに暗いので、演劇部の部員に指摘されて書き直したものも何本かあったが、綺羅々はその部分については未加に加筆修正を依頼していた。「自分にはどうしても出来ない」と言われたのだ。
綺羅々が暗い物語を書く理由が気になって、未加は綺羅々に尋ねてみたくなった。
ある日の部活の帰り道、
「綺羅々の書く脚本って、何かこう、ドロドロしてるよね」
と尋ねると、綺羅々はきょとんとして「どうしてそう思うの?」と答えた。
「何でだろ。上手くは言えないけど、人間の奥深くに眠ってる深い感情っていうか、欲求とか、葛藤とか、そういう闇の部分を書くのが上手だなって思う」
未加は真面目な話になりすぎて綺羅々の気分を害してはいけないと思い、とっさに綺羅々の肩をぽん、と叩いてからかうように顔をのぞき込み、茶化してこう言った。
「綺羅々って普段おとなしいけど、実はすっごい大きな爆弾を抱えてるんじゃない?」
すると、普段はあまり笑わない綺羅々が、
「…ふふ、」
と吹き出して笑ったので、未加は驚いた。
「綺羅々が笑うって超珍しい。まさか、ほんとに爆弾抱えてるの?」
「…さあね、どうだろ」
「えー、何それ、おしえてよー」
明るく声を響かせても、未加の心の中は悲しみで一杯になった。綺羅々はきっと、高校の誰よりも自分を信頼してくれているし、親友だと言えるだろう。それでも、綺羅々には決して誰にも開けることの出来ない鍵がかかっているのだ。時折見せるナイフのように鋭い眼差しや、どこか遠くに心があって、自分が呼び戻さなければ返ってこないことがある。
高校三年間のうち、綺羅々はその容姿から、男子生徒に告白されることも何度もあった。その度に未加は胸が張り裂けそうになったが、綺羅々はなぜか断ってしまい、安心した。その一方で、綺羅々の心の奥の鍵の向こうには、「想い人」が居るのではないか、と感じるようになった。しかし、綺羅々に恋愛の話を持ちかけても、綺羅々は上手く交わして、肝心な部分に触れることは許されなかった。二年経っても三年経っても、その部分に関する心のシャッターは閉じられたままで、その事実が辛くて未加はその話題を出すこともやめてしまった。
未加も、何人かの男子生徒に告白されたが、どうしても綺羅々以外には興味が持てなくて、断り続けた。いつしか「百合説」が流れるようになったが、綺羅々は気にする様子は無かったし、未加も真実ではあるが気にしないように努めた。二人の友人関係は、受験勉強が始まっても相変わらず続いた。未加は勉強が得意ではなかったが、綺羅々は勉強がよく出来た。それも、学校の成績も学年でベスト3に入るくらいの実力だった。未加は綺羅々が真剣な眼差しで勉強をしている姿が好きだった。
「ほら、未加、ちゃんと勉強しないと」
綺羅々がノートにシャーペンを滑らせたまま未加に勉強を促す姿も好きだった。
この子を一度でも抱き締められたら、何て幸せだろう、未加はそう思った。
しかし、ある日を境に、綺羅々の様子は明らかにおかしくなった。
一見、佇まいはいつもと同じなのに、ふとした時に見せる仕草や表情がぞっとするほど怖かった。三年間ずっと一緒に居たからこそ、その些細な変化が未加には分かった。綺羅々は何かに怒っている。自分と同じように、心の奥に何かをため込んで、一生懸命それを表に出さないようにしている。話しかけるのをためらうほどに、綺羅々の眼差しが冷たい時があった。それでも未加が話しかけると、いつもの綺羅々に戻ってくる。
―…綺羅々に一体、何があったのだろう。私は親友のはずなのに、もしかしたら、彼女の何も知らないのではないか。
未加はそんな不安に駆られた。そして、何とかいつもの綺羅々に戻したくて、いつもより茶化す回数を増やしたり、綺羅々に勉強で分からないところを聞いてみたり、通学路の帰りで見つけた美味しいお菓子屋のクッキーをあげてみたりしてみた。その度に綺羅々はいつのも綺羅々を見せてくれたが、決定的な違和感は消えなかった。
「ねえ、綺羅々」
ある日の帰り道、とうとう未加は思い切って綺羅々にこう切り出した。
「悩み事、あるんじゃないの」
その言葉に、綺羅々はその場に立ち止まり、未加の背中を眺めた。未加が振り返ると、綺羅々は心なしか泣きそうに瞳を潤ませているのが分かった。その姿がいたたまれなくなり、未加が綺羅々に近寄ろうとした時、綺羅々の方から未加を思い切り抱き締めて、未加の肩に顔を埋めた。
未加には何が起こったのか、一瞬分からなかった。
いつか抱き締めたいと思っていた綺羅々が、今、自分を抱き締めている。
「愛しい」の気持ちが溢れて、未加は泣きそうになった。綺羅々は良い匂いがして、そして、温かかった。未加の頭を綺羅々は何度か撫でて、小さく「ありがとう」と言った。
未加は綺羅々を抱き締め返し、少しの間だけ二人は黙った。
このままでは、道化が剥がれてしまう。未加はそっと綺羅々の身体を離し、
「カラオケ行こっか!」
と頬を赤らめたまま、明るい声で切り出した。それから綺羅々と二人でカラオケに行き、未加は自分が好きな歌を沢山歌った。とても幸せな時間だった。
それが、二人そろって最後に過ごす時間になるとは、未加は思わなかった。
*
週明け、学校に行くと、綺羅々の姿は無く、学校中が大騒ぎになっていた。
クラスメイトが騒ぎ立て、その異様な空気に未加は混乱して教室の入り口に立ち尽くした。クラスメイトの一人が未加に、
「ねえ、綺羅々ちゃんのこと、何か知ってる?」と聞かれたが、未加は何も知らなかった。土日は両親と祖父母のところへ畑仕事を手伝いに帰っており、テレビやスマートフォンは殆ど弄っていなかったのだ。
「何か、あったの?」そういう声は震えていた。未加は胸騒ぎがした。
「綺羅々ちゃん、従兄と無理心中したんだって」
その言葉が、未加の頭の中で何度も再生された。
「綺羅々ちゃん、従兄と無理心中したんだって」
「綺羅々ちゃん、従兄と無理心中した…」
「綺羅々ちゃん、従兄と…」
綺羅々がこの世に居ない?そんなふざけたことがあるわけ無い。未加はその場から走り出した。校舎の裏側まで走って行き、壁にもたれかかってスマートフォンを手に取った。祈るような気持ちでヤフーのニュースを見ると、そこには紛れも無い事実―つまり、大々的に綺羅々のことが取り上げられていた。
『女子高生、従兄を刺して無理心中か』
その瞬間、未加はもう道化である必要はなくなった。
…いっそ私も殺してくれれば良かったのに、ねえ、綺羅々。
どうしてあの時、私を抱き締めたの?
未加は誰も居ない校舎裏で、顔がぐしゃぐしゃになるまで声を殺して泣いた。涙は止めどなく流れ、決して止まらなかった。
今日はもう、教室には戻れない。何とか帰ろうと、涙を流したまま、震える足を押さえて立ち上げると、斜め前の焼却炉に何かを燃やした跡が残っていることに気付いた。いつもなら素通りするはずのその焼却炉になぜか惹かれて、近づいてみると、うっすらと燃えかすの中に綺羅々の字が書かれた紙が残っていた。
「慎…、愛…」
殆ど読み取れないほどに紙はすすけていたが、慎という文字が引っかかり、未加はもう一度スマートフォンでニュースをチェックした。
『被害者は占見慎(29)さん』
―ああ、そうだったのか、分かったよ。
綺羅々は慎さんを愛していたんだ。
死ぬほど、殺したいほどに、愛していたんだ。
…叶わないな、綺羅々。私は綺羅々のこと、殺せなかったよ。
綺羅々は、慎さんのことが好きだったんだね。心のシャッターは、慎さんへの思いだったのかな。私に教えたくないほど、彼のことを愛していたのかな。
ほんと、叶わないよ。綺羅々には。親友なのに、何も知らなかった。
それに、ちゃんと、気持ちを伝えておけば良かったな。
ねえ綺羅々、私、これからどうやって生きていこう。
幸せになれるかな。綺羅々は私のこと、何とも思っていなかったのかも知れないけれど、でもね、私は綺羅々のこと、本当に大切に想っていたよ。
好きだった。
ううん、違う。
今も、好きだ。
お読みいただき、ありがとうございました。
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