心中
「綺羅々、慎くんの結婚式、どうする?」
夕食が終わり、食卓で食後の紅茶を飲んでいると、招待状を沙喜から受け取った藤治が綺羅々に尋ねた。
「……行くよ、もちろん」
綺羅々は静かに、淡々とした口調で藤治に返事をした。
「そうか、しかし、慎くんももう二十九歳になるのか。早いもんだね」
藤治は懐かしそうに目を細めて、十一年前の慎の姿を思い出しているようだった。綺羅々は藤治の言葉には返事をせず、
「ねえ、招待状に書かれている住所、見せてくれない?」
と呟いた。藤治は一瞬怪訝そうに両眉を上げたが、すぐに招待状を差し出した。
「住所がどうかしたのか?」
「ううん、今どこに住んでるのか、ちょっと気になっただけ」
綺羅々の目的は住所ではなく、その下に書かれている電話番号だった。数字を心の中で何回も唱えて暗記し、藤治に返した。
「私、受験勉強があるから、部屋に戻るね」
そう言って紅茶を飲み干し、綺羅々はリビングを後にした。
綺羅々は自分のスマートフォンに慎の自宅の電話番号を登録した。そして、どういう口実で呼び出そうか、その晩は布団の中で考え続けながら眠りについた。
次の日は休日だった。綺羅々は朝ご飯を食べ終わると、早々に散歩をしに行くと行って出かけ、かつて住んでいた家のある駅へと電車で向かった。あそこには、想い出の場所である泉の丘があるからだ。
泉の丘の風景は八年経っても相変わらずだった。子ども達ははしゃぎ、老人が何人かでラジオ体操をしている。ジョギングをしている人も居た。公園の中央にはあの八年前、二人で眺めた噴水があった。
綺羅々は慎が座ったベンチに腰掛け、スマートフォンに登録した電話番号に電話をかけた。
プルルルル……プルルルル……
「はい、占見です」
出たのは慎では無く、若い女性の声だった。頭の中が真っ白になり、一瞬声が出なくなった。これが「サクラシズネ」なのだろうか。
「……あ、あの。占見綺羅々と言います。慎さんの従妹なのですが、結婚されると聞いて、お祝いの言葉をと思い、電話させていただきました」
声は少し震えていた。相手は不審に思ったかもしれない、そう思ったが、
「わざわざありがとうございます。今、代わりますね」と言って保留音が流れた。
綺羅々は大きく深呼吸をして、気持ちを落ち着けた。可愛らしい声だった。ただ、声だけでは慎とどれくらい離れているのか、同い年なのか、見当はつかなかった。
十秒ほどの保留音の後、長い間待ち焦がれた愛しい人の声が聞こえた。
「……もしもし、慎です」
その声は、嬉しさ、というよりも若干の戸惑いが含まれているような声色だった。あんな別れ方をして、今更電話をかけてきた従妹に複雑な感情を抱いているのかもしれない。
綺羅々は慎を困らせないよう、できるだけ明るい声を出そうとした。
「あ、慎くん?綺羅々です。大分、久しぶりだね。元気?」
綺羅々の明るい声を聞いたのか、電話越しの緊張感が少し和らいだような気がした。
「うん、元気だよ。おかげさまで、社会人もなんとかやれてる。綺羅々ちゃんはちょうど高校三年生だっけ?」
「そうだよ、慎くんが結婚するって言うから、びっくりして思わず電話しちゃった。本当におめでとう」
そう言う心の中は土砂降りの洪水だった。気を抜くと声が震えて泣きそうだ。
「わざわざ電話くれて、ありがとう。結婚式で、会えるかな」
「もちろん、結婚式には参加させてもらおうって思ってる。でも、一つだけ、慎くんに伝えたいことがあってさ。今度の土曜日、泉の丘で会えないかな?」
できるだけ明るい声で言ったが、電話越しの慎は少しの間沈黙した。綺羅々は断られるのではないかと緊張したが、慎は、穏やかな声で、
「うん、分かった。いいよ。何時に行けば良い?」
と返したので、綺羅々はほっと胸をなで下ろして、
「十四時で良いかな」と告げた。
「分かった、十四時だね」
「ありがとう、無理言っちゃって。そんなたいしたことじゃなくて、高校の話とか、ちょっと聞いて欲しいだけだから」
と、慎に警戒されないよう、最後に付け足した。
「うん。楽しみにしてるよ」
「うん、私も。それじゃあ、ね」
電話自体は数分にも満たない会話だったが、スマートフォンを持つ手は汗でびしょびしょに濡れていた。そして、綺羅々は泉の丘公園のこのベンチで、一週間後、自分達がどうなっているのか、想像した。慎の姿は想像もつかなかったが、私はあの時の格好で行こう、そう決めた。
*
一週間後の土曜、綺羅々は学校の特別補習に行くと両親に告げ、家を出た。電車を乗り継いで黒宮神社がある駅で降りると、駅はお世辞にも賑わっているとは言えず、閑散としていた。バスの本数も少なく、徒歩で歩いていった方が早そうだった。綺羅々はトイレの個室に入り、事故に遭った時の包帯姿になった。両脚を包帯で巻き、眼帯をし、首から左腕を包帯で固定した。幸い、人が少なかったので悪目立ちすることも無く、徒歩で森に向かうためになだらかな坂道を登り始めた。
慎に会うまでの一週間、綺羅々は心中するための計画を練った。死んだ後に他人に小説を読まれないよう、書きためた小説をこっそりと校舎裏の焼却炉で燃やした。それから、パソコンで頸動脈の切り方を徹底的に調べ、全ての疑問を解決させると、リセットしてデータを消去した。頭の中で何度も「包帯の姫君と執事」の世界を思い描いた。良く切れるという包丁を百貨店で買い、鍵をかけた引き出しの中にしまってあったお年玉やお小遣いを一つにまとめた。
着々と準備する中、できるだけ普段通りに家族や未加と接したが、未加だけは綺羅々の様子がおかしいことに気付き、何かとちょっかいを出して来た。そんな未加の気持ちが嬉しく、綺羅々は学校帰りに一度だけ未加を抱き締めた。未加は頬を赤らめ、綺羅々を抱き締め返すと、その日は未加の誘いに乗って生まれて初めてカラオケに繰り出し、未加の歌う姿を見た。その姿はとても幸せそうだった。
今までのことを思い出しながら、坂を上り終えると、ひっそりと黒宮神社の入り口に続きそうな細い路地を見つけた。その路地を入ると、確かに、黒宮神社はたたずんでおり、独特の雰囲気を醸し出していた。人間の情念、暗い雰囲気がそこにはたちこめていた。
綺羅々は手を清め、自分の全財産と慎と自分の名前を書いた紙を賽銭箱に入れて自分が思い描く世界に転生できるように願い事をした。
――慎くんと2人きりで、幸せに暮らしたい。姫君と執事という関係で、慎くんに、目一杯、甘えたい。
数分の間そのままにした後、少しだけ神社の後ろにある泉や絵馬を眺めた後、泉の丘がある駅へと来た道を戻っていった。
*
さすがにかつて自分が住んでいた街が近くなると、電車の中にも人が多くなり、綺羅々の格好は目立った。あからさまにぶしつけな目線を向けてくる者も居たが、綺羅々は無視をして電車に乗り続けた。
そうして、一週間前に来た泉の丘に向かい、慎が来るのを待った。公園の時計は十三時五十分を差している。まだ、慎の姿は無い。綺羅々は慎が来るまで、慎との想い出、ある時からは彼女が勝手に思い描いてきた慎の姿に想いを巡らせた。
――早く会いたい、慎くん。
目を閉じてしばらくじっとしていると、驚きの声と共に懐かしい人の姿が現れた。
「綺羅々ちゃん!その格好……」
慎は明らかに綺羅々の異様な格好に驚いているようだった。しかし、綺羅々はそんな慎の姿よりも、大人になって一層格好良くなった慎にうっとりした気分になった。慎はトレンチコートにジーンズ姿というラフな格好だったが、年相応の相貌になっており、童顔だった顔はすっかり大人の顔つきになっていた。視力が悪くなったのか黒縁の眼鏡をかけている。
「慎くん、やっと、会えたね」
綺羅々の頬は思わず紅潮し、笑みを浮かべた。慎はその場に立ち尽くして異様な綺羅々の格好を見つめていたが、綺羅々が自分の横を指さすと、隣に腰をかけた。
「また、事故に遭ったの?」
慎は包帯姿の綺羅々を本気で心配しているようだった。
「……人間って、運命ってあるじゃない。私はそういう運命だったのかも」
「藤治さんからとは電話で時々連絡取ってたけど、今回の件はさすがに聞いてなかったよ」
「お父さんには口止めしておいたの。ほら、慎くん、優しいから、また心配かけちゃうでしょう」
二人の間にしばらくの沈黙が流れた。かつてここで慎は綺羅々に別れを告げ、会わないことを誓った。しかし、今、こうして、やっと綺羅々は慎と再会することができた。慎は慎なりに何か想いにふけっているようだった。
「私ね、未加って友達ができたの。その子、とっても良い子で、人見知りだったけど、ちゃんと人生、やれてるよ」
綺羅々は慎の横顔を見た。大学生の時とは違う、大人の色気を身につけた慎の顔をずっと見ていたいと思った。一方の慎は、綺羅々の言葉を聞いて安心したように微笑んだ。
「それは良かった。綺羅々ちゃん、本当に人見知りだったもんな」
「慎くんの結婚相手って、昔言ってたあの人?」
「うん、なんだかんだ腐れ縁でね」
そう言った慎の笑みが、綺羅々の心の爆弾に火を付けた。私に見せたことの無い、惚気た顔だった。これから幸せを手に入れようとしている顔だった。私とでは無く、別の女性と共に。
嫌だ、いやだ、イヤだ……。
爆弾のタイマーが0になってしまう前に、そろそろ計画を実行に移そう。
綺羅々は精一杯笑顔を繕って、慎の顔をのぞき込んだ。
「慎くんに、プレゼントがあるんだ」
「えっ、ほんと?」
思いがけない言葉に慎は口許を緩めてはにかんだ。
「ありがとう」
「それじゃあ、手のひらを上に向けて、目をつむってて」
慎は綺羅々が言うとおり、手のひらを上に向けて、目をつむった。そして、綺羅々は慎の前に立ち、鞄から包丁を取り出すと、鞄を落とし、そのまま思い切り力を込めて慎の頸動脈に向かってナイフを押し刺した。その瞬間、慎の首からは血しぶきが飛び、返り血が綺羅々の顔や制服にふりかかった。
「うっ……うう、……ッ」
慎はけいれんを起こしてその場に横たわった。何かを口にしようとしているようだが、言葉にならないうめき声となってその場にこだました。
「キャーっ!」
偶然その様子を見ていた女性が、大声で叫び声を上げ、公園の中がざわつき始めた。
―このままじゃ駄目だ…私も、行かなきゃ。
死ぬのは怖くなかった。いや、本当は少しだけ怖かった。でも、慎くんと一緒に死ねるのなら、私は、それで良い――。
綺羅々は、目をつむり、自分の頸動脈にナイフを押し刺した。綺羅々の首からも血しぶきが跳ねる。二人のおびただしい量の血しぶきがベンチを汚した。綺羅々はその場にへたり込み、慎の手をかろうじて握りしめ、痛みと共に意識が段々と遠のいていった。
巻き込んで、ごめんね、慎くん。
ごめんなさい、皆――。
ごめん……。
慎と綺羅々が息絶えたのは、それから数分も経たなかった。