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ステイルメイトで彼女は終える

第八手【ステイルメイトで彼女は終える】 



 放課後の教室で鞄にプリントを詰めていたら、竹刀を持った小泉が教室に入って近づいてきた。

「楠野、前に借りてた漫画、返しに来たぜ」

 そういえば随分前に彼に漫画を貸していた。貸した当人が忘れるくらいだから、きっと相当前だ。そして彼が今そんな本を返しに来たのはどうせ、昨日たまたま部屋の掃除をしていたら見つかったとか、そんな理由だろう。

 彼から返してもらった漫画をプリントと同様に鞄に詰める。

「……で、サイレンは今日も黄昏れてんのか」

 彼が口を耳の側まで持ってきて尋ねてきた。

「多分そうだろうな。しばらくは続くと思うよ」

「そうか……やっぱりまだショックなんだな、女王陛下のこと」

 あの事件解決から二週間が過ぎた。解決直後にかなりのショックを受けた彩原は翌日から二日間は学校を休んでいて、その心の傷がどれだけ大きいかを物語っていた。休んでいるときは僕と小泉で見舞いに行ったものの、そこで見たのは自室のベッドの上で死人のような目をした彼女で、どう言葉をかけていいか分からなかったが、その時は小泉がずっと自分の周りの面白話をして彩原を笑わせようと頑張った。

 僕も彼と会話を広げていきなんとか彼女を笑わせようした。僕らが話し始めてから彼女が笑ってくれるまでに要した時間は二時間。そろそろ話のネタがつき始めたというところで、ようやく少しだけ笑ってくれたのだ。

 それからは学校にも来たが、完全に傷が癒えたわけでなく、あることが習慣化しつつある。

「また飯でも行くか。もちろん、あいつの分は俺がなんとか出すよ」

 彩原の復活後、僕らは約束通り食事に行った。小泉は自分が春川先輩に協力したことで彩原が傷ついているということをものすごく気にしていて、そもそもその食事も彼が彩原に謝るためにもうけた席だった。

 彩原に小泉を責める気など全くなく、彼が謝っても気にするなとしか言わなかった。それで気にしない彼じゃなく、せめて奢ると彩原の食事代を無理矢理押し切って自分で出した。金を工面するために親に頼み込んだのは僕でも容易く想像できてた。

「食事はいいけど、今度はワリカンだろ。じゃなきゃ彩原が遠慮してあんまり食べない」

「そうか……」

「そう気を落とすなよ。彩原だぜ。今はあの調子だろうけど、しばらくしたら元通りになるさ。今回は色々とあいつに悪いことが重なりすぎた」

 そう、本当に彼女にとっては辛いものでしかなかった。あの事件だけならまだしも、先輩の本性というものに触れてしまい、とどめを刺される形となった。あれがなければいくばくか、ましな結末が迎えられたろう。

 こんなこと考えてもどうにもならないのだけれど。

「そうだよな。……じゃあ俺は部活に行くな。サイレンによろしくな」

 彼が部活熱心なのは変わりない。自分が盗んだ竹刀も顧問や先輩に事情を話し、ちゃんと謝って返したそうだ。怒られたそうだが、部内での彼の評価は上がったらしい。

 彼が去っていく姿を見届けた後、鞄を持って教室を出て彩原のクラスへと向かった。

 彼女は窓際の机の上に座り、ただ呆然と窓の外を眺めていた。習慣化した彼女の行動だ。あれ以来、放課後はこうして過ごしている。そこから見える光景は、地上にいる生徒達の姿。

 彼女はずっと考えているのだ。人の上に立つということが、どんなものか。

「……先輩の近状は聞いているか」

 背中を向けたまま彩原が聞いてきたので、うんと返事をした。

「もうあのクラスに彼女の味方はいなくなったみたい。彼女は完全に孤立したそうだよ」

「……孤立か。あの人から言わせれば、きっと独立なんだろうな」

 春川先輩のその後は噂で耳にした。彼女が犯人だと分かるとすぐにクラスで爆発が起きた。宮田先輩を慕っていた人たちが彼女を一斉に糾弾しだして、それを彼女の友達がかばって、一触即発の空気になったそうだ。

 しかし動機を聞くと友達もさすがに先輩をかばう気が少し薄れた。そして先輩自身がクラスで、一人ずつ名前を挙げていき、その人の悪いところを指摘していった。全員分を言い終わった後、先輩はこう宣言したそうだ。

「以上の理由で私はお前らを嫌う。復讐したければするといいわ。多分、どれだけしても私は負けないでしょうけどね」

 これらの行動で一気に味方を無くした先輩だがまだ先輩を庇おうとする人たちもいた。しかし彼女はそんな人たちでさえ手酷く扱い、ついに彼女を庇う者はいなくなり、彼女はクラス全員を敵に回したそうだ。

「これがあの人の望みだったのかな」

 彼女はあの時、真実が白日の下にさらされるのを喜んでいた。これで私の気持ちが伝わると。彼女ならばこんな未来くらい想像できたはずだ。けれど彼女は行動した。

「そうだったんだろうな。私には理解できないらしいが……」

 彩原がため息を吐く。

「やめなよ。幸せが逃げるよ」

「逃げる程の幸せなんてありはしないさ」

 机から降りて近くに置いてあった自分の鞄を手にした。

「帰ろう」

 最近は彼女と二人で帰るのが当たり前となった。冷やかす同級生もいるが僕も彩原も気にしていない。僕としてはこんな彼女を放っておけないのだ。

 廊下をたわいもない話をしながら歩いていたら、向こう側からある集団が歩いてきた。思わずきびすを返したくなるような面子だな。あの元容疑者の三人だ。三人とも実に楽しそうに会話しながらこちらに向かってくる。

 向こうもこっちに気がついた。僕は思わず足を止めたくなったが、隣の彩原は俯きながら早歩きをしだした。三人は声をかけてくることもなく、僕らはすれ違い、通り過ぎた。ほっと胸をなで下ろした瞬間だった。

 少し前を歩いていた彩原が急に動きを止めた。

 その場で立ち止まり、えっと独り言のように声を漏らした。そしてしばらく静止した後、口元を両手で覆い瞳を大きくさせる。なにがどうしたのか不明だが、彼女が何かに気づいたことは分かった。

 彼女は一気に体の向きを変えて、さっきの三人の背中に向けて声を張りあげた。

「ちょっと待ってっ」

 声を聞いて三人が一斉に振り返る。彼女はその三人の真ん中にいた菅原先輩へと向かって言った。

「あなたはあの日、許可は取ってあるっていってましたけど、あれは誰のですか」

 あの日のことを思い出す。あの三人が急に準備室へ入ってきて、焦った僕がここは図書委員以外は立ち入り禁止だと怒鳴ったときに彼はこう返してきた。

『許可は取ってある』 

 そういえばあの混乱のせいで気にならなかったが、確かにあれは誰のだ。

「春川の奴だよ。聞いてなかっただろうけど、俺らはあの日、春川にずっと扉の前で待機してるようにって指示されてたんだ」

 彩原の顔色が変わり、血の気が引いている。

 準備室へ入る許可を取るには図書委員と話さなければならない。けれどカウンターにいた当番はそんな許可は出せない。許可が出るかと聞かれたところで、中にいる春川先輩にいいかどうかを訊くだろう。

 あの日、三人に許可を出せたのはあの人だけだ。

「俺たちはあの日、お前らが事件を解決したって聞いたんだ。それで放課後に扉の前で聞いといてくれって言われてたんだよ。俺らが解決するその場所にいたら推理の邪魔になる可能性があるからってな」

 待て。そんな話は一切聞いていない。そして春川先輩もそんな素振り一切見せなかったじゃないか。そもそも、あの日の前日に彩原が犯人は春川先輩だと断言していた。じゃあ、春川先輩は自分が犯人だと証明される瞬間をわざと三人に見せたことになる。

 そんな訳の分からないことって……。

 彩原が一歩退いた。そしてそのまま、また一歩。頭を抱えて、顔を白くして、手を震えさせて。

 三人が怪訝そうにしながらも立ち去っていった後も、彼女はしばらくそうしていた。ようやくおぼつかない足取りで動き出したと思えば、下駄箱ではなく図書室へ向かい出したので焦った。あの日以来、彼女はそこを避けていたはずだ。先輩と会うのが嫌だから。

「彩原、どうしんだよ」

「……私はどうもしてない。どうかしているのは……あの人だ」

 彩原はその後、何も言わず何かを黙々と考えていた。準備室の前についたとき、ようやく口を開いた。

「なあ楠野。私は、とんでもない失敗をしたんだ」

 声のトーンが異様に低く、背筋がぞっとした。

「やっぱり……私はあの人には勝てないんだな」 

 彼女が何に気づいたのかさっぱり検討がつかなかった。けど彼女がひどく後悔してることは、その声から、その顔から、その空気から伝わってきた。

 二度と開くことが無いかもしれないと思っていた準備室の扉を開くと、そこにはこの間まで当たり前だった風景があった。テーブルと、そこで一人でチェスをする先輩の姿。彼女は僕らが入って来ても顔を上げもしなかった。

 扉を閉めると彩原は先輩の隣に立った。

「もう私になんか二度と会いに来ないと思ってたわ。何の損もないから別に良かったけど」

 二週間ぶりに耳に触れた先輩の声は、あの時と変わらず冷たかった。

「……そんな演技、やめてください」

 彩原がそう懇願した。演技? これが演技だというのか。

「さっき、あの三人が一緒のところを見ました。それでようやく気づけました。あなたの本当の望みが」

「おかしなことを言うわね。私の望みはとうに叶えたわ」

「ええ、そうでしょうね。二週間前のこの場で、あなたは計画を完遂させたんですから」

 駒を持っていた先輩の手が止まり、そこで彼女はようやく隣にいた彩原を見た。そして悲痛に満ちた顔を見た。

「……まさか、あなた」

 先輩が声を振るわせて問うと彩原は頷いた。

「あなたの目的がようやく分かりました」

「ちょっと彩原、できれば僕にも分かるように説明してくれよ」

 あまりに唐突すぎる会話の流れについて行けなくて、彩原を呼び止めた。彼女は先輩から視線を外して僕に向けた。

「よく考えれば、私の推理は穴ぼこだらけだった。矛盾点がいくつもあった。例えば、小泉の証言だ。あいつは先輩に頼まれたから、この人が準備室へ出ていないと証言したが、この人が当日学校にいたかという質問には、いたと答えた。よく考えればおかしい。準備室から出ていないと証言させるより、当日いなかったと言わせる方が、アリバイになる」

 そういえばそうだ。そもそも当日いたから、準備室からの脱出方法などを検討した。もしも学校にいなかったと証言されれば、僕たちはまた違う調査をしていた。そうしていれば制服も見つけられず、小泉を疑うこともなかったかもしれない。そうなれば僕らは証拠を掴めなかった。

「そしてまた次に協力者の小泉だ。どうして協力者を彼にしたんだ。この人は私たちが仲が良かったことを知っていた。なのにそんな彼を協力者に普通するか」

 そうだ。先輩は二週間前ここで、そういえばあなたたちは仲が良かったと発言している。僕らの仲は知っていた。なのにそんな彼を協力者にした。僕たちも小泉だから秘密を暴けたんだ。もしも他の誰かだったら、先輩が準備室を出たことを調べられなかった。また小泉も僕らだから真実を話したんだろう。

「次に証拠になったピアス。あれもおかしい。彼女は片方を探していて、片方は持っていた。私はこの人が自分の意志でピアスを外し制服にいれたと推理したが、どうせピアスを外すなら両方を同時に外す。片方を取りわすれることなんかないだろう。そして両方外していたなら、片方だけ忘れずにつけたというのも矛盾だ」

 その通りだ。確かに片方だけのピアスなんておかしい。日頃片方だけをつけているなら納得しようもあるが、先輩がそんな特殊なつけかたをしてるのを見たことない。

「証拠つながりで言うとあの男子制服もそうだ。あれは落とし物箱にあった。けれど、ここに竹刀があった。おかしいだろ。ここに竹刀を隠すなら、制服もここに隠すべきだ。逆でも構わない。そうできたはずだ。なのにこの人はあえて、それらをバラバラにした」

 男子制服が落とし物の中にあったから彩原はピアスという証拠をつかめた。そしてその制服から先輩がどうやって竹刀を校内に持ち込んだかも推理した。けれどあの制服がもしここに隠されていたなら、そんなことはできなかった。

 そして逆に竹刀も落としてしまえばこの部屋から確たる証拠は消える。先輩を追い詰める要素が薄くなり、僕たちは彼女が犯人だと追い詰められなかった。二つが別々の場所にあったからこそ、僕らはあの結論に至れたんだ。

「それに二週間前、ここで楠野、君は先輩にゲームを見せて小泉から証言は取れてるといった。それに先輩が何か言おうとしたのを覚えてるか」

 それははっきりと覚えていた。確かに先輩はあの時何かを言おうとしたが、結局何も言わずに口を閉ざしたのだ。

「あれはきっとこう言おうとしたんだ。小泉の証言が真実だと証明できるか、と。そうなるとどうなるか。楠野、君はこれに何か反論をできるか」

 頭を働かせて何か反論を考える。きっと無茶苦茶な言い分だと思いながらも、僕はこれに反論できないだろう。僕と小泉は友人で、協力を仰いだんじゃないかと言われたりすれば、論理的に彼が真実を話したんだと彼女を説得できなかったろう。

「できるはずない。私だってできない。なのにこの人はこの台詞を使わなかった。……これらのことを繋げていけば、彼女の目的がようやく見えてくる」

「待ちなよ彩原。確かに先輩は自分に不利なように動いているけど、それは君との勝負のため、君にヒントを与えていたんじゃないか」

 彩原の推理通りだということはすでに先輩が自白している。ならば先輩がこの勝負を面白くするために、彩原が捜査をしやすいようにしても不思議じゃない……。

「君だって先輩とチェスをしたことがあるだろう。その時を彼女の戦い方を思い出せ」

 先輩のチェスの戦い方……。それを思いだして彩原の言いたいことが分かった。先輩はどんな人が相手でも力は抜かず、ハンデもしないで、全力で戦う。だからこそ僕は先輩とのチェスの勝負が嫌だった。

 そんな彼女が勝負を面白くするためになんて理由でヒントや、自分が不利になる状況なんて作り出すはず無い。彼女が本当に勝負をするつもりなら、全力をもって彩原に立ち向かったろう。そうすればさっきまでの矛盾点なんてすぐに消え去る。先輩があんなにミスをするはずがない。

 じゃあ、どうしてだ。どうして先輩は自分を不利な状況に追い込んだんだ。

「だから、彼女の目的は私との勝負なんかじゃなく、もっと別のことだ」

 彩原が両方の拳を握りしめ、それを自分の腰の横で震えさせている。何かを言おうとしているのに、言葉にならないのか口が動いているだけで声になっていない。

「……なら、私の目的はなんなのかしら」

 ずっと沈黙していた先輩が彩原を見上げたまま訊くと、彩原はテーブルをその拳で叩き、怒鳴るようにその真実をはき出した。

「あなたの目的は、私にあの事件はあなたが犯人だと解決させることだったんですよっ」

 


「い、意味が分からない」

 それが素直な感想だった。自分の考えを叫び終えた彩原は、何の反応も示さない先輩をじっと見つめていたが、少しして口を開いた。

「この人は自ら犯人になることを望んだんだ。この人の目的は宮田先輩を傷つけることでも、あの三人を陥れることでもなく、自らが犯人だという真実を作り出すことだったんだよ」

「いや、だからそれの意味が分からないんじゃないか。そんなことをして何になるっていうんだよ」

 自らが犯人だという状況を作り出して、一体何の得があるというのか。先輩が以前言っていたとおり、先輩がみんなを嫌っているということを伝えたくてそうやったのならまだ理解できなくはないが、彩原はそうじゃないと断言している。傷つけることも、陥れることも目的じゃないと。

 なら先輩の行動は全て意味不明だ。何の目的も見えない。

「何になる……そうだ楠野、君は正しい。何にもならない。この事件、彼女にとって得になることなんて何もない。だから、この人はどうかしている」

 彩原が頭を押さえながら首を振る。彼女自身、まだ彼女の中にある推論を信じていないようだ。いや、違うな。信じられてないんだ。

「私は以前、こう言った。この事件は解決したところで何もならないと」

 それも覚えている。故に解決に意味がないと。

「けど現実はどうだろう。私がこの人が犯人だと事件を解決したらどうなったか」

 どうなったかと問われると……先輩はまるで人が変わったかのように振る舞いだして、それによってクラスの信頼や地位、そして多くの友人を無くして、彩原は精神的に傷ついて……。何にもならないということにはならなかった。けれど、全て悪いことだ。それは先輩だけじゃなく、誰にとっても。

「悪いことしか浮かばないだろ。けど違うんだ。先輩が犯人で、クラスで孤立する。これによってあることが生じるんだ」

 いくら想像力を働かせても、何も思い浮かばない。少なくとも今生じている現実の中で、誰かにとって得になったものなどありはしない。

「……ああ、そうだ、私たちは以前話したじゃないか」

 彼女が何かを思いだしたようだが、僕は何も思い出せない。話したって何をだ。

「あれは宮田先輩の事情聴取をした日の朝か。私と君と小泉で一緒に登校したのを覚えているか」

 そのことはすぐに思い出せた。最初は一人で登校していたのだが、小泉に話しかけられて、その後すぐに彩原と会って。記憶がだんだんと鮮明になっていく。

「その時の私たちはちゃんと話してたんだよ」

 あの時の会話……。そうだ、確か、小泉が自分の竹刀を買ったと喜んでいたんだ。それで彼がなぜそんな部活熱心なのかという話になって、その理由を聞いて……。それで、それで……。

 僕の顔色が変わっていくのが自分でもよく分かった。全身の血が一気に引いていく。

「そうだ、君の想像通りだよ。あの時、私たちは剣道部がなぜ熱心になったのかという話題から、こういう話に発展した。敵がいれば集団はまとまるという話にな」

 そうだ。あの時、彩原は芸能人などをバッシングする日本人の話を例に出して、僕はプレイしたことのあるRPGゲームの登場人物達の関係を思いだしていた。そうだ、あの時ちゃんと話していた。

「敵がいれば集団はまとまる。そして春川先輩にはまとめなければならない集団があった」

 そうだ。彼女はずっとそれに悩んでいた。どうしてまとまらないのか分からなくて、こんなこと初めてだと漏らしていた。そうだ、だから先輩は……。

「先輩のクラス。まとまりながないといっていたあのクラス。先輩はそれをまとめるために、敵を作ることにした。そして――」

 彩原と目があった。お互いに悲しみに満ちた表情をしているのだろう。彼女は目を瞑ってゆっくりと開くと、その真実を外気に触れさせた。

「自らがその敵となってみせたんだ」



 なんで先輩が宮田先輩を傷つけたか。彼はクラスで人気と人望が厚くて、それで会長になったほどの人だ。そんな人を傷つけたら、クラスでは大混乱が起こるし、その反発は大きくなる。そして犯人捜しが過熱する。

 そして犯行時にウルトラマンのお面をつけることによってクラスメイトの怒気をあげた。

 最終的に犯人が分かったときに反発が強ければ強いほどまとまりは強固となる。春川先輩はそれらを全て計算していた。だからこそ、自分が犯人であるとクラスに伝わったとき、一人ずつ名前を挙げていき批判した。彼女に対する反発がどこかで乱れないように、全員に自分に対する敵対心を作るために。

 ああ、彩原が言っていた。この事件はおおげさだと。当たり前なんだ。先輩が大げさにしたんだ。じゃないと事件解決後の衝撃が少ない。クラスにダメージをそこまで与えられない。それじゃあ、元も子もない。

「この人の目的はそれだけじゃない。あの三人だ。確か、ここであの三人の事情聴取を終えたあとだったな。私たちは先輩からクラスにまとまりがないという話を聞き、先輩が昔からクラスの代表になっているということも聞いた。そして彼女は言っていた」

 その時の彼女の言葉の一つが自然と頭に思い浮かんだ。

『イジメをなくしたり、教室で一人の子に友達を作ったり、クラスをまとめたり』

 彼女は今までずっとそうしてきたと言っていた。そうだ、今回もそれなんだ。彼女はただ、自分の責務を全うするために行動しただけなんだ。

「あの三人はクラスでういていた。そして川平先輩はイジメにあっていた。それをなくすのにはどうすべきか。簡単だ。あの三人に共通点を作り、無理矢理仲良くさせる。そしてそれとほぼ同時にクラスにイジメの代わりとなる敵を出現させる。そうすれば川平先輩に対するイジメも自然と消える」

 それもただの共通点じゃいけない。彼らが本気で傷つき、腹が立ち、許せないという同じ感情を、同じ境遇で、同じタイミングで抱かせないといけない。そのために彼女は彼らを容疑者にした。そのために脅迫状を送りつけもした。

 次に最初から犯人がクラスの中にいることが分かるように教室にジャージとお面を隠した。そして捜査の指揮権を握り、彼らの中に犯人がいるという状況を作り出し、事件を大げさに扱った。これで彼女の計画はひとまず終わりだ。

 そして彼女は次へと駒を進めた。それが彩原だ。先輩の計画ではいずれ犯人が自分であるということを、出来る限り第三者の確たる証言で欲しかった。そしてそれと同時に、あの三人の疑いもはらす必要があった。それで先輩が目をつけたのが彼女だ。

 彩原ならきっと事件を解決できる。それを確信した先輩は僕らに依頼をし、事件へと介入させ、彩原が『先輩が犯人である』という結論に早期に至れるようになるべくヒントを出し続けた。

 そして彼女が事件を解決しても自分を庇う可能性があることをよんでいた。だから、扉の外であの三人を待機させて、彩原の推理をクラスの人間、彼女に敵対する人たちに聞かせた。そして彼らを媒体にしてクラスに真実を知せた。

 そしてクラスの敵意が全て自分に向くように、まるで人が変わったかのように振る舞い、みんなに嫌われるようにした。更にはクラスで「負けないでしょうけど」と言い放ち、彼らの心に彼女に勝ってやろうという熱意を宿させた。もちろん、先輩に勝つのは容易じゃない。だから、彼らは否応なくまとまるだろう。

 しかも自分が変わることによって彩原を失望させて、彼女の思考をそこで止めにかかった。先輩にとって彼女がそれ以上思考を働かせて、この真実に気づくのは避けなければならなかった。だから彼女を傷つけ、自分のことを忘れさせようとしたんだ。

 けど、けどこの計画は……。

「こんな計画、おかしいよ。だって先輩には痛みしかない」

「……ああ、そうだ。けど彼女がその痛みを一身で背負うことで生じることがある。彼女が望んだのはそれだ」

 それは聞いた。それは分かった……けど、だけど、そんなのはあんまりではないか。クラスのために、他者のために、そのクラスや他者に嫌われるなんて発想はどうかしている。

「先輩、これが真実ですね」

 彩原がそう訊くと、先輩は二週間ぶりにその笑顔をみせた。心を抱擁するかのような、優しい笑顔を。

「楠野君、君は前に話したわね。人にはその人の全うすべき役回りがあるの」

 先輩は僕が相談したときこう教えてくれた。『自分の役割は自分で見つけなきゃいけない、生み出さないといけない』と。それの言葉に元気をもらった。けど、こんな形じゃなくても……。

 先輩がようやく真実を告白した。痛みしかない、悲しきそれを。

「これが私の見つけた、私の全うすべき、私の役回りよ」



 チェス盤の上にあったたくさんの駒達が床に落ちていった。彩原がチェス盤の駒達を手で思いっきり払ったのだ。その行動に意味なんかない。表しようのない怒りの、悲しみの表現なんだ。

「他に方法はあったでしょうっ。あなたほどの人なら、方法なんかいくらでもっ。もう少し時間をかければ解決策だって見つかったかもしれない。どうして、こんな方法をえらんだんですかっ」

 彩原の言い分はもっともだ。先輩がこんな痛みしかない選択をする必要はなかった。彼女なら今すぐじゃなくて、時間をかければきっともっといい解決策を見つけれた。

 しかし先輩は首を横に振る。

「駄目なのよ、今じゃなきゃ。私たちは高校三年。三学期はほとんど学校に来ない。なら、残された時間はあと二学期だけなの。そしてその二学期には文化祭も体育祭も、彼らの大切な思い出になるイベントがある。だからそれまでの間に急いでクラスをまとめなきゃいけなかった」

 確かに高三のイベントは学生生活でも最後のものだ。できるなら華やかな、できるなら楽しい、できるだけ多くの人との思い出にしたいだろう。だからといって、彼女がここまで辛い役回りを背負うことはないはずだ。

「私はあのクラスの責任者だし、あのクラスの子達が好きなのよ。だから彼らが幸せならそれでいいわ」

 彼女は自分の胸のところに握りしめた拳を持ってきて、きりっと強く鋭い目をした。

「私は誰かが幸せになれれば、それでいいと思ってる。そのためなら私なんかどうでもいいとも考えれる。そして誰かを幸せにするためなら、血を吐いても、身が裂けても、骨が砕けたっていいわ。それが私の望みだもの」

 先輩は決して声を荒げたりはしなかったが、その言葉は今まで聞いたどんなものより、見えない強さを感じた。彼女の望みは赤く激しく燃える炎ではなく、青く静かに燃える炎のようなものだ。静かで目立ちはしないが、確かな熱を帯びている。そしてそれは中々消すことはできない。

「……なにが、人の幸せだ。ふざけるな、格好をつけるなっ」

 相反して彩原は感情を抑えきれずにいる。当たり前だ。

「なら私はどうなるんですか。あなたを信じて、あなたに裏切られて、あなたに傷つけられて、あなたの真意を知ってしまった私はどうなるんですかっ」

 それは幸せにはほど遠い。彼女にとってはあまりに過酷な現実だ。どう転んだって彩原に幸運はなく、この真実に気づかなくても傷ついていたし、知った今はもさらに傷ついている。これでは嘆いても仕方ない。

「あっ、そうだ彩原。この事実をクラスに知らせれば――」

 僕が出そうとした打開策は、馬鹿か君はという罵倒で出し切れなかった。

「こんな馬鹿げた真実を誰が信じるんだ。それに誰がクラスにいうんだ。君か、私か。忘れた訳じゃないだろう。あの結論を出したのは私たちだ。今更、前言撤回しますと言って信じてもらえるものか。きっと私たちが先輩に丸め込まれたと思われるのがオチだ。それに、私たちがこれを話したところで、この人がクラスでまた同じように振る舞えば何の意味もない。……分からないか、もうどうしようもないんだよ」

 彼女に言われて悟る。ああそうだ。いくらこれが真実だと告げても、これには物証はない。それどころか今のクラスは先輩に対する反発心が強い。そんなところに彼女がみんなのためにやったことだという話を持って行ったところで、信じられるわけないし、信じてもらっても先輩自身がそんなの嘘よと言えば、また無になる。

 もう僕らじゃどうしようもないんだ。この現実はもう戻せない。

「当たり前よ。私が自分が後戻り出来ないように計画したもの」

 しれっとそう言ってのける先輩はまるで後悔していない。

 当たり前か。そうなのかもしれない。先輩がそんな中途半端な計画をたてるはずない。けど、彼女は最後の最後まで自分を窮地に立たせているだけだ。それは確かにクラスにまとまりを生むのだろう。

 しかし、僕はこう思わずにはいられない。

「先輩、こんなの諸刃のつるぎですよ」

 確かに先輩の言うとおりクラスメイトにいい思い出はできるかもしれない。けど、それに先輩は含まれない。彼女は常に陰に回り、一緒の思い出を共有することをできない。それどころか残り少ない高校生活をみんなに忌み嫌われながら過ごし、なおかつ自分が好きなクラスメイトたちを傷つける。

 クラスにとって得でも、彼女にとっては損でしかない。

「……そうね。けどいいわ。耐えてみせる。私にはこれからどう行動すればクラスがまとまるか、手に取るように分かるわ。だって私の身の振り方一つで彼らの感情が大きく動くんだもの。こんなに扱いやすいことってないわよ」

 そんな話をしてるんじゃない。確かに先輩が痛みを一身に背負い込むのは非情とは言え、先輩の選択だ。だから僕が言いたいことはそんなことじゃない。

「彩原の言うとおりですよ。彩原はどうなるんですか」

 ここで初めて先輩の表情に影が出来た。

「あなたが人の幸せを願うなら、彩原は……」

 彼女だけは計画に利用すべきじゃなかった。どう転んでも彼女に幸福はない。先輩と同じで痛みに満ちた終わり方しか迎えれない。そんなのあんまりだ。惨いと形容できる。

「……やっぱり、私はあなたに勝てなかった。そしてそれさえも、あなたの計算のうちだったんですね」

 彩原がその場に膝をついた。彼女の当初の目的は先輩の依頼を達成すること。そしてそれで先輩を楽にさせたかったんだろう。けど、終わりを迎えてみればこれだ。彩原はただ駒として動かされたに過ぎない。彼女からしてみれば心に鋭く尖った爪を食い込まされたようなものだ。

 信じた人に利用され、信じた人に傷つけられ、そして知らず知らずのうちに信じた人を窮地に追い込んでいた。

「私は……とんでもない失敗をしてしまった」

「違うわナナ、それは違う」

 初めて先輩が言葉を強めて、崩れた彩原に駆け寄る。そして彼女の両方の頬を持って、彼女と向き合った。

「あなたは負けてなんかいないし、ましてや失敗もしてない。失敗したというならそれは私のほうなのよ。私は何が何でも、あなたが真実を知らないようにすべきだった。けどそれができなかった」

 先輩は彩原がこの真実に気づく可能性があることを分かっていたからこそ、あの時彼女を傷つけた。そしてその後に自分がどんなにクラスでひどい目にあっていても、当然の報いだと彩原に思わせるようにしておいた。

 しかし彼女は気づいた。先輩の計画を全て見破ってみせた。そしてそれと同時に、自分がしてしまったことへの罪悪感が生まれた。先輩に失望したままならば、彼女がどんな境遇でもどうとも思わなかった心が、彼女の真意をしることで激変する。

 自分が解決しなければ、先輩はそんな状況にならずにすんだ。自分がもう少し頭を働かせていれば、どうにかなった。

 こう思ってしまう。そしてその罪悪感はこの先ずっと、彩原につきまとう。

「やっぱり、ナナには勝てない。ここでもステイルメイトだもの。どうしてかしら、あなたには最後の一手がうてない……。あなたが私にチェックメイトって告げたとき、勝ったと思ったのに」

 ステイルメイト。先輩と彩原が初めてチェスで対決したときになった、引き分け。ただの引き分けじゃなく、圧倒的に不利な状況を引き分けに持ち込む荒技。彩原はもう先輩を助けることは出来ない。先輩はもう後に戻らない。けど先輩の計画を超えて、彩原は真実を突き止めた。だから、ステイルメイト。どうしようもない終わり方。

 彩原の両目から滴が次々と流れ、頬をつたっていく。先輩が彩原の涙を拭き、そして彼女の首に自分の両手を絡みつかせて抱きついた。

「ああ、どうしてあなたはこう、最高の後輩なのかしら。なんでこんなひどい先輩のために泣くのよ。私がどうなっても、あなたは私を恨めばいいのよ」

 そうできれば彩原の心は遙かに楽になるだろう。けれどそんなことができるはずもない。彼女が先輩を恨めるはず無い。ましてや真実を知りながら、そんなことできるものか。

 彩原が涙声で先輩に訴えた。

「お願いです……今からでも遅くない。みんなに真実を告げてください。そ、そうすれば、まだっ」

「ごめんね」

 返答は早かった。それには一辺の迷いも躊躇もなく、彼女の意志の固さを表していた。

「それはできない。私には私の役回りがあるのよ。……分かって、お願いだから」

 先輩が彩原から離れて、ゆっくりと立ち上がる。そして天井を見上げて、深く、深く息を吐いた。一体、どんな感情をはき出したんだろう。

 床に崩れおちている彩原が彼女を見上げたまま、絶望にくれていた。さっきの先輩の拒絶はこれから先の展開を決定づけるものだ。もう何もならない。あとは先輩の計画通りになるんだ。二人の女子高生の犠牲の上に。 

「もう、ここでお別れ。これ以上あなたちと向き合っていると覚悟が揺らぎそう。だから、ナナに楠野君、もうこの部屋には入っちゃ駄目よ」

 先輩が準備室の扉の方に足を進めながら、そう命じてきた。この部屋に入るなと言うことは、もう二度と私に会いに来るなということだ。それは明確すぎる拒絶だった。

「ま、待ってください。それじゃあ、あんまり――」

 反抗しようとした。そんなこと聞いてられるかと心底思った。だから口に出そうと思った。けど、それは叶わなかった。先輩がまっすぐと僕の目を見て、さらに言葉を続けた。

「これは委員長命令よ。いいわね?」

 その言葉には、その視線には彼女の威厳が、彼女の意志が含まれていた。反論できない。今目の前にいるのは、まぎれもなく、確かに『春川先輩』なのだ。僕らが誰よりも尊敬していた、あの人なんだ。

「次に私が戻って来るまでにこの部屋から出ておくように」

 先輩は準備室から出ようとして、ドアノブに手をかけてそれを回そうとした。

「……間違ってますから」

 そんな彼女の背中に悲しみに満ちた声が突き刺さった。声の主は俯いたままだが、はっきりとその言葉を繰り返した。

「あなたのやり方は、間違ってますから」

 ドアノブを回す手が止まり、少しだけ開いた扉の隙間からわずかだが風が入ってきて、それはカーテンを揺らした。

「分かってるわよ、そんなこと」

 扉が一気に開いて彼女が出て行った。その時、一瞬だが彼女が僕を見た。その視線で僕を射た。そしてようやく、ここにきてやっと、彼女の用意したもう一つの駒の存在に気がついた。

 先輩は彩原が真実にたどり着くことを読んでいた。そのため彼女を傷つけた。ならば、例え彩原が先輩に傷つけたれた後でもその真実に気づくことも考慮できたはずだ。そして彼女はそんな欠陥を見過ごす人じゃない。だからここにも一つ、駒が用意しておいたのだ。

 僕という。

 真実に気づいた彩原がひどく傷つくと考えた彼女は、その傷を知っている、その傷を共有できる、その傷を癒せる存在を必要とした。だから僕を調査に加えさせて、真実を知っているのを彩原一人じゃなく、僕もにした。

 この真実は一生僕らの胸に仕舞われる。もしも彩原一人がこの悲しすぎる真実を背負うことになったら、さすがの彼女でも耐えられないだろう。先輩は知っていたんだ。一人で背負い込むという辛さを。

 一人よりも二人の方がいいに決まっている。孤独というのはあまりに厳しい環境だ。だから先輩は彼女をそうさせないために……。

 僕の見つけた、僕の全うすべき役回りがここにあった。

 例え先輩が仕組んだことでも、そんなのは関係なく、僕は今ここで一人床に崩れ落ちている同級生の女の子を、大切な友人を放っておけない。せめて彼女の側にいよう。出来る限り、傷を癒そう。

 なるだけ優しい声で名前を呼ぶと彼女は泣きはらした顔を向けてきた。ポケットからハンカチを取り出して、それを渡す。彼女はそれで目元を押さえるが、今度は嗚咽が聞こえてきた。

 隣に腰を下ろして、そっと彼女の肩に手を回す。泣き止めとは言わない。けどせめて、一人じゃないと知ってて欲しい。君が一人じゃないというのが、あの人の望みでもあるから。

 少し視線を移すと、床に散らばったチェスの駒達が目に入った。テーブルの上にもまだ駒があり、それらはほとんど横に倒れていたのだが、チェス盤の上に一つだけ立っている駒があった。

 クイーンの駒だけが毅然と、けれど孤独に立っていた。



――エピローグ――



 教室から誰にも気づかれないように静かに逃げるように出て行く。三月の中旬ともなると、廊下は何かを羽織っていないと寒い。右胸にピンセットでとめてあった造花を取って、それを卒業証書やアルバムの入った鞄の中に入れる。

 今、彼女の胸の中には達成感で満ちあふれていた。ついに今日という日を、自分が望むような形で迎えられた。今までの人生、わずか十八年だがその中でもこれに勝る喜びはない。多大な犠牲を払った価値は十分にあった。

 クラスメイトたちは笑顔でこの日を過ごしている。式中には泣き出す女子もいた。一学期のあの状況ではこんな感動的な卒業式を迎えれなかっただろう。

 あの事件からクラスがまとまるように行動してきた。その分嫌われたが、今日のみんなの笑顔を見たら、そんなのはどうでもよく感じれた。彼らは一生、自分を嫌うだろうがそれでも構わない。覚悟していたことだ。

 さっきも教室でクラス全員で写真を撮ろうという話になっていたので急いで出てきた。彼らの綺麗な思い出に自分が入っては駄目だ。

 三年間使い続けた下駄箱で靴に履き替え、愛用していたスリッパを袋に入れて鞄にしまう。そのまま物思いにふけながら校門へと向かう。

 もうこの学校に来ることもないと思うと非常に感慨深かった。充実した三年間だった。最終的に全て失ってしまったが、それ以前に得たものはたくさんあって、それは今後の人生で大きく役立つだろう。

 校門の前のベンチに一人の女子生徒が座っているのが見えた。思わず足を止めると、彼女が立ち上がってこちらに足を進めてきた。その両手には綺麗な花束が抱えられている。

「卒業おめでとうございます」

 彼女はそう祝辞をするとその花束を差し出してきた。

「こんな私の卒業を祝ってくれるの」

 自分が傷つけた後輩。彼女がどれだけ傷ついたか、それは想像に及ばない。例えいかに正当な理由が存在しようと、彼女を傷つけたことは紛れもなく罪で、それが三年間の唯一の後悔だった。

「あなたは私の先輩なんです。どうあろうと、なにをしようと」

 部屋にはいってくるなという命令に素直に従ってくれたおかげで彼女を見るのは、最後に見たときから半年以上経っていた。

「あなたのしたことを私は許しません。間違ってるとも思います。けど、ここであなたが一人でいるのも間違っています」

 相変わらず優しい。

「せめて最後くらい、側にいます」

 この半年間、常に一人だった。そうなることを自ら望み、叶え、実行したのだから当然だ。覚悟もしていた。けれど、幾度も寂しいと感じたのは確かだ。それをどうにかかみ殺してきた。

 目の前の後輩はそんな彼女の気持ちを、一度もあっていなくても察してくれていたのだろう。

 花束を受け取ると、彼女はその手を伸ばして後輩の頭を撫でた。

「ありがとう」

 彼女は頭を撫でたあとは、その長い髪の毛を指でとかしてみた。自分に憧れてこの長さにしてくれたらしいが、自分のはあの事件の時にばっさりと切ってしまい、また伸びるのにまだしばらくかかりそうだ。

 彼女の肩を抱き寄せて、彼女の耳元で優しくささやいた。

「この春であなたにも後輩ができるわ。本当に私を先輩と思ってくれているんなら、最後に先輩らしく振る舞わせてね」

 彼女はそのまま後輩の頭をそっと優しく抱いた。

「いい先輩になりなさい。私みたいになったら、絶対に駄目よ」

 抱いている彼女が小さく震えだした。彼女が今の、私みたいなという言葉をどういう意味で受け取ったかは知らないが、これは先輩として心から願っていることだ。まだ見ぬ彼女の後輩のためにも、彼女自身のためにも。

「じゃあね。ありがとう」

 彼女から手を離してすぐさま背中を向けて校門へと向かう。

「……またいつか、会いに来てください。私がいい先輩になってるかどうか、ちゃんと確かめに来てください」

 立ち止まってどう返答しようか考えた。その間に風が吹く。 

「なってなかったら、また口うるさく叱るわよ」

 出てきた言葉は意識したものではなく、自然と口からこぼれ出たに近い。

「お願いします」

 いつぶりだろうか。こんな、先輩と後輩らしい会話は。

 校門の直前まで来て小さく振り向くと、彼女だけでなくもう一人の男子生徒が彼女の隣に並んで立っていた。恐らく彼女に二人で話させてくれと頼まれたのだろう。

 二人が同時に頭を上げて、礼をした。何も言わず校門からでる。今度ここに来るときはいつになるだろうなどと少し微笑んで考えながら。

 校門の上からはみ出した桜の木の枝を見つめる。その先には固く閉ざした蕾がもうそこまで来ていている春を今か今かと待ちわびている。その蕾を見ながら、彼女は祈る。

 どうか、この春が誰にとっていい季節であるように。出来るならば、あの二人にとって。

 目元を拭い、また歩き出す。これで終わりじゃない。まだ自分の全うすべき役割はこの先ずっとある。彼女はそれに向けて足を進める。

 見上げると空はひどく青かった。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。

この作品は第一話でもかきましたが、米澤穂信さんの「愚者のエンドロール」という作品に感化され、書いたものです。

やりたかったのは、ミステリ用語でいう「操り」です。

うまくいけてればよかったのですが。


ありがとうございました。

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