チェックメイトと彼女は告げる
第七手【チェックメイトと彼女は告げる】
翌日の放課後、彩原のクラスに足を運ぶと誰も居ない教室に彼女が一人、窓際の机の上に座って窓の外を眺めていた。放課後に準備室へ行くことになっていたのだが、彼女が一向に待ち合わせ場所に来ないので迎えに来たら、そんな姿の彼女を見つけた。
教室に僕が入ってきたのさえ気づいていない様子なので、ゆっくりと近づいてから、彩原と呼びかけると外を見たまま、ああと答えた。
「そうか。待ち合わせをしていたな。すまない」
「別に構わないけど、大丈夫か」
大丈夫でないことくらい知っている。昨日の夕方、彼女に聞かされた推理。あれが全て真実だとすれば彼女自身が一番どうにかなりそうなものだ。
「大丈夫と言えば嘘になるな。けどこう訊かれると大丈夫と答えるしかない」
ふふと気のない笑いをする。
「いや、僕はそんなつもりじゃ……」
「それくらい分かっている。言ってみただけだ」
言ってみただけということはないだろう。彼女は本当に大丈夫じゃないんだ。
「昨日言ったな。この事件を解決したからってどうなるんだろうかって」
彼女はこの事件に罰が用意されていないことに疑問を持って、事件を解決してもどうにもならないと言っていた。思えば彼女はあの時から先輩を疑っていたのだろうか。だからこそ、そんなことを考えていたのかもしれない。遠回しに解決なんかしたくないと。
「今日一日、ずっと考えていたんだ。私の推理通りならあの人は罰せられるべきだ。けど私は、そんなことは望まないんだよ。ならどうすればいい?」
彼女は今も考えているんだろう。窓の外を眺めながら、その風景を瞳に映しながらも頭の中ではずっとその難題に向き合っている。
「けど今ようやく決心がついた」
座っていた机に脚をのせてそこに立つ。そして僕を見下ろした。
「君の言う通りにしようかと思う」
それは彼女にとっては楽な選択だ。苦しまずにすむ最善の方法。けれどそれは彼女にとって自分の正義感と先輩の依頼を裏切るものとなる。それでも彼女はそれを選ぶ。今日一日でどれだけ葛藤しただろう。
「人の上に立つっていうのはどんな気分なんだろうな」
机の上に立ちながら窓の外を見下ろす。そこには多数の生徒が下校するのが見れるだろう。
「きっとこんな風景を毎日心の中で見るんだろうな。それもこんな分かりやすいものじゃない。もっと複雑で入り組んだものを」
春川先輩のような生まれつき人の上に立つことが定められたとうな人は、彩原でさえ理解に苦しむ、複雑で乱雑な人の動きを見ている。そしてそれを何とか整えようとしている。それはきっと僕みたいな凡人にはできない芸当なんだ。
「だからこそ、なのかな」
素直な感想を呟くと彩原はわからないと答えた。
「どうなんだろうな……」
彼女が机から飛び降りて綺麗に着地すると、春川先輩にあこがれて長くした髪の毛が波打った。
「じゃあ、行こうか」
彼女の覚悟が決まったようだ。ここからは彼女の戦いである。憧れの人との、一度差し違えた人との再戦。どう転んだってハッピーエンドにはならない。それを分かって足を進める彼女の背中を見て、もどかしくてならなかった。
準備室へ行くまで一切口をきかなかった。今どんな言葉をかけようと無意味だと理解していたし、彼女がそんなものを望んでいないとも分かっていた。
準備室の扉の前で彼女は一度立ち止まり、深く深呼吸をした。何を吸い込み、何をはき出したのか。僕が彼女の肩に手をのせると、僕を見て気丈にも笑ってみせた。
ノックをして返答も待たず扉を開けた。準備室にはいつも通り、テーブルでチェスをしている先輩がいて、僕らの方を見て笑みを浮かべる。
「来ると思ってたわよ。どうぞ、座って」
神妙な面持ちで僕と彩原が席に着く。テーブルの上には綺麗に駒が並べられたチェス盤があった。
「……依頼報告です。犯人が分かり、なおかつ証拠が掴めました」
「そう。それじゃあ、聞かせてもらいましょうか。あなたの推理を」
先輩が駒を摘みそれを動かそうとする。例のごとく、一人チェスをしながら彩原の推理を聞くつもりらしい。しかし今日はそうはならなかった。駒を摘んだんだ先輩の手を彩原が掴んだ。
怪訝そうな顔をする先輩。対照的にその明確な意志をたぎらせた表情をする彩原。
「今日は私が相手になりますよ」
一体、どれほどの思いを彼女はこの時間にこめるつもりだろうか。あれほど嫌がっていたチェスを、その嫌になる原因となった先輩とするというのは彼女の性格からすればとんでもないことだ。
「あら、嬉しいわね。血が騒ぐわ。じゃあ、勝負をしながら聞くことにするわ」
先輩が駒を置いて彩原を見つめる。そして彩原がゆっくりと駒を摘み、それを動かした。勝負が始まり、何かが終わる音がし始める。耳では聞こえないその旋律は、確かに僕の心を乱している。
「まず昨日も言いましたが、犯人はあなたですよね」
もしこれがテレビの二時間ドラマだったならこんな言葉は解決シーンの最後に出てくる物だ。けれど彩原はその確信をはじめに先輩に突きつける。
「……それを私に訊くのはどうかと思うわ。あなたが証明するんでしょう?」
先輩の言うとおり。彼女は昨日そう宣言し、それを先輩は受け入れた。
「そうでしたね。じゃあまず、あなたのアリバイからですね」
先輩が駒を動かす。すぐさま彩原がまた駒を動かすと、先輩は感心の声を漏らした。素人の僕でも分からないハイレベルな勝負に序盤からなっている。
「あなたが事件当日、この学校にいたことは証言が簡単に取れました」
「そりゃそうでしょうね。あの日は学校にいたもの。証言は誰がしたのかしら」
彩原が僕を横目で見たので急いで鞄から日誌を取り出して、あのページを開きそれを先輩に見せ、乾いていた口を開いた。
「これを参考にして小泉に訊きにいきました。先輩が当日学校にいたかどうか。そしてこの部屋から出たかどうか」
先輩に日誌を渡すと彼女はそれをまじまじと見つめた。
「そういえばあなた達と小泉くんは仲良しだったわね。そうそう、あの日は確かに当番は彼だったわ」
次にまた鞄から今日小泉から預かったゲームを取り出す。それをテーブルの上に置き、先輩に見せるが彼女は一切表情を変えない。やはり昨日の小泉のようにわかりやすい反応は示してくれないか。
それでも切り崩さなきゃいけない。この余裕の笑みをうかべる女王を。
「ゲームは学校に持ち込み禁止よ」
「このゲームを最初に学校に持ってきたのは先輩じゃないですか。小泉からの証言は取れてるんですよ」
昨日の放課後のことを思い出す。小泉がようやく認めた時、絶望の淵に叩き落とされた。あの感覚はもう忘れられそうにもない。
先輩はしばらく黙ってゲームを手にとっていた。そして何かを言おうとしたところで、何か思いついたような顔をして、口を閉じてわざとらしいくらいのため息を吐いて見せた。
「これじゃあ高い口止め料を払った価値が無いじゃないの」
ゲームをテーブルにおいて、残念と呟く。
「認めるんですね」
「ゲームを渡したことはね。けど、私にアリバイが無いだけよ。確かに怪しいけど、確たる証拠と言うには弱いわね」
今度は先輩が駒を動かす。駒の置かれた場所を確認すると、彩原が顔色を変えて、あごに手を当てて何か考え出した。どうやら予想外の一手がきたらしい。先輩はそんな彩原の反応をじっと観察している。獲物を狙う蛇のように。
口止め料とまで言っておいてまだ認めないというのか。けど、先輩の言うとおりだ。小泉は三時頃に先輩が準備室を出たのを見ただけで、それは証拠にはならない。僕たちが掴まなきゃいけないのは、その後の先輩の行動だ。
彩原の表情が少し明るくなり、すぐに駒を動かし、同時に口も開いた。
「あなたはここで私たちに初めて事件の説明をしたとき、確かこう言ってました。私には剣道部の弟がいると」
そう。確か竹刀が凶器に使われたという話になったときだ。剣道部の弟がいて、竹刀が家にあるから被害者がどの位痛いかよく分かると確かに彼女は言っていた。
「あなたの家には竹刀があった。なら凶器を学校に持ってきて襲えば、それで終わりです」
「話をわざと端折っているのかしら。あなたたちが突きつけるべきことは、そんな大雑把な方法じゃないでしょう。否定させてもらうなら、竹刀を学校に持ち込むってどうやってかしら?」
昨日小泉が言っていた。この学校には女子剣道部はないと。そうなると女性の先輩が学校に竹刀を持ち込むとかなり目立つ。先輩は有名人だし、竹刀なんて剣道部員でも持ってくる人とそうでない人が別れるくらいだ。
そんな目立つ物を持って普通に登校したら誰かの目にとまる。それは避けられない。そんなことになったら事件後、先輩は真っ先に容疑者になってしまう。けれど先輩はそんなミスを犯していない。事実、そんな目撃情報も出ていない。
「確かに女性のあなたが竹刀なんて普通に持ってきたら目立ちます」
「あら、案外素直に認めちゃうのね」
「ええ。ただ、普通に持ってきたらの話です。普通じゃなかったら出来る話ですよ」
普通じゃない竹刀の持ち込み方。彩原からこの推理を聞いたとき、信じられなかった。だってそれには結構な代価が必要で、僕には先輩がそこまでしなければいけなかったと考えるのが無理なのだ。
「その短髪、似合ってますね」
駒を摘んだまま先輩が硬直した。そして彩原はその先輩の姿を見ながら、自分の長髪をそっと撫でる。
「以前は長かったのに急に短髪にして、どうしたんですか」
二週間前、先輩は占い師に言われたからと伸ばしていたロングヘアーをばっさりと切り、ショートカットとなった。彩原が注目したのはここで、このショートカットならばあることが可能だという結論を導き出した。
「最初見たときはあなただと分かりませんでした。その短さなら、もしもあなたが男子制服を着ていたなら、きっと男子だと思ったでしょう」
「……なるほね。つまりあなたは私がこの短髪にしたのは、男子制服を着て学校に入るためだっていいたいのね。確かにこの短さで男子制服を着ていて、しかも竹刀を持っていたら剣道部員だと思われるだけで難なく学校に竹刀を持ち込めるわ」
しかしその計画の代価は中々のものだ。髪は女性の命とまで言われている物だし、先輩が大切に伸ばしてきたその髪を、たかが竹刀を持ち込むために切ったという彩原の推理を初めて聞かされたときはピンとこなかった。
だって他に方法はいくらでもありそうだ。いや例えなくても、そこまでして彼女がこの犯行をしなければならなかった理由が想像できなかった。
先輩が駒を動かして、これはどうかしらと呟く。すぐさま彩原が駒を動かすと嬉しそうに笑った。
「あなたの推理は面白いわ。筋は通せてる。推理の根拠も私の発言や、急に切った髪の毛に注目した物で理にかなってるわね。けどそれだけじゃ駄目。何度も言わせる気はないでしょう。確たる証拠にはならないのよ、それじゃあ」
状況がどれだけ物を言おうとそれでこの女王が折れるはずがない。そんな軟弱な人ではないし、それほど手ぬるくもない。彼女を黙らせる、あるいは全てを認めさせるほどの確たる証拠を突きつけるまで、彼女は自身の敗北を決して認めはしないだろう。
彩原が辛そうに目を瞑った。彼女が先輩をどれだけ慕っていたかは知っている。だから、先輩が負けを認めるまで彼女が追い詰めるということは、彼女にとっては地獄に等しい。いくら覚悟していたことだとはいえ、そう易々と受け入れれる現実じゃないだろう。
彼女がゆっくりと制服のポケットに手を入れ、それを取り出した。そして手のひらを広げて、先輩にそれを見せる。ここで初めて先輩の表情から余裕が消えた。彩原が見せたものを見て、何度も何度も瞬きをしている。
彩原の手のひらの上にはピアスがあった。手作りのビーズのピアス。先輩がこの世に一つしかないと言っていた、友人からの誕生日プレゼント。ここ最近彼女がずっと探していた物。それが今、彩原の掌中にある。
「これがあなたのであることはさすがに認めますね」
そればかりは認めざるをえないはずだ。先輩自身が世界に一つしかないと公言していたのだから。
「ええ、そうね。私が探してた物だわ。どこでこれを?」
昨日の放課後、彼女の予想通りの場所にはこれはあった。それを見つけたときの彼女の表情をしばらく忘れられそうにない。
「……職員室の落とし物箱の中にあった男子制服のポケットから見つけました」
先輩が持っていた駒を盤の上に落とし、乾いた音が室内に響いた。彼女は無表情のまま何かを思い出していて、そしてしばらくするとはっとした表情になった。どうやら自分の犯したミスを思い出したようだ。
そんな先輩が彩原が追い打ちをかける。
「あなたの計画はまず短髪にして、それを誰にも告げることなく男子制服を着て登校するところから始まります。誰かに教えたりしたらばれる可能性もありますからね。一応、マスクくらいして顔は隠していたでしょうけど。そして竹刀を持ち込んだあなたは、人目につかないところで制服を脱いで、女子制服に着替えます。いやきっとすぐに着替えれるように下に着ていたでしょう。けれどあなたは男子制服を着ていたとき、あるミスをおかした。いつもの癖でうっかりピアスをつけてしまっていたんです。それに気づいたあなたは急いでピアスを外し、男子制服のポケットにしまった。短髪でピアスは丸見えですから下手をすれば先生に呼び止められてしまいます。それだけでなくあなたの知り合いが見たら、ピアスだけであなただとばれることだってあり得る。それを恐れたあなたは急いだ。結果、男子制服を脱いだときにそれを取り出すのを忘れたんです」
校内に竹刀を持ち込んでそれを一時的に人目のつかないところに隠す。そしてすぐさま、女子生徒に戻りいつも通り学生生活を送る。しかし着替える場所が問題である。男子から女子へと戻るため、トイレは使えない。男子トイレで着替えても出てくるときの姿が女子になるし、逆にしても今度は入れない。
だからとにかく人目のつかないところで素早く着替えないといけない。そしてその焦りが彼女のミスを誘った。男子制服は持っていても仕方がないので、どこかに適当に捨てたのだが、それが運悪く誰かに拾われて職員室へ渡った。
「先輩、答えてください」
彩原が悲痛な声を上げる。
「どうしてあなたのピアスが男子制服の中にあったんですか。私たちが納得できるように説明してくださいっ」
「さて、どうしてかしらね。私にも分からないわ」
先輩が余裕の消えた笑みを浮かべながらそう曖昧に誤魔化した。そして何事もなかったかのように駒を動かす。すぐに彩原がテーブルを叩いて、その上にあった盤を揺らした。
「誤魔化さないでくださいっ」
「……あれは私のピアスよ。けどそれが男子制服の中にあっただけ。証拠にはならないでしょう?」
自分がどれだけ無茶苦茶なことを言っているのか分かっているだろう。それでも今の先輩にはそんな言葉しか出ないのだ。ここまでくれば彩原の勝ちが見えてきた。しかしそれは同時に彼女の絶望でもある。
肩を落としていた彼女がまた口を開けると同時に、駒を手にする。
「事件後、犯行に使われたお面やジャージは見つかっていますが、見つかってないものがあります」
それはまだ見つかっていない。けどそれこそが彩原が先輩へ突きつける、確たる証拠。先輩が全てを否定できなくなる物証。この事件を始め、終わらす物。
「凶器の竹刀はまだ見つかってません。けどあなたが犯人だと推測するなら隠し場所は容易に想像できます。そんな大切な物をいくら人目のつかないところとはいえ、ずっと置いていたら安心は出来ないでしょう。ならどうすべきか。私なら自分の手元に置いておきます。誰にも見つからないように、自分で管理できるところへ隠します。あなたで言うならば、この準備室です」
彩原がそう言い終えると僕は席を立った。そして準備室の奥へと足を進める。ここの扉はもう使わなくなった本が詰まった段ボールが積まれている。この後ろになら竹刀の一本くらい隠せる。
勇気を振り絞って、そのダンボールを一つずつどけていく。数個もどけると、それは見えてしまった。竹刀の柄の部分。それを掴んで引っ張り出す。そしてその竹刀を持って先輩の隣に立った。
彼女は何も言わず、そして何もせずその竹刀を見つめていた。
「先輩」
彩原が短く呼びかけて、駒を摘んだ。そしてそれを動かして、ゆっくりと盤上に置くと、涙目で目の前の憧れの人物を見つめて指さした。
「チェックメイトです」
長い沈黙だった。いや、実は大した時間じゃなかったかもしれない。けれど僕にはそれがとてつもなく長く感じれてしまった。
先輩がぱちぱちと乾いた拍手をしながら、はははと本当に嬉しそうな笑い声を上げ始める。そんな彼女の姿を僕も彩原も信じられないという思いで見ていた。彼女がここまで声を上げて笑ったことは今まで一度もなかった。
「お見事ね、二人とも。ブラボー」
先輩は自分の右手を胸に当て、ついのその言葉を口にした。
「そう、ご名答よ。私が宮田君を襲った犯人だわ」
ああ、誰か教えて欲しい。これほどのバッドエンドがあるなら教えて欲しい。
「まさかここまで追い詰めてくるとは思わなかったわ。いや、本当にすごいわ、私の期待以上ね」
彼女が僕らに何を期待していたのかは分からない。けれど彼女がどうしてここまで嬉しそうなのかは、彩原が推理していて、恐らくその通りなのだろう。けどだとしたら、もはや彩原の心は限界のはずだ。
「ナナ、ついでだから訊くわ。私の動機についても、もう分かっているんでしょう?」
彩原が目元を袖でぬぐい小さく頷いて、咳払いをして話し始める。
「動機は二つですね。一つは昨日、わたしがここで話したとおりです。容疑者たちにクラスで冷遇させるため。あなたはクラスの実質的な責任者で、クラスをまとめなければいう義務感があります。けどあの三人が浮くことで、クラスのまとまりはかけます。あなたは彼らが邪魔で仕方なかった。だから、もういっそ、潰してしまえと狂気を走らせた」
「狂気というのは気になる表現ね。邪魔者を排除しようというのは、しごく真っ当な考えだと思うわ」
邪魔者。この依頼を受けたとき先輩は自分でクラスメイトを疑うのは嫌だからと言っていた。けれど今、彼女は何の躊躇もなく自分が傷つけたクラスメイトを邪魔と断言し、報いを受けて当然と考えている。
狂ってる……。
「そのために、無関係の人間を襲ってもいいんですか」
思わず口を挟むと彼女は人差し指を左右に揺らし、分かってないなぁと呆れた。
「無関係の人間じゃないでしょ。宮田君はクラスの代表なのよ。クラスのために少しは役に立ってもらうのは当然なの。いいじゃない、彼は殴られただけよ。私なんて計画をたてて、それを実行しなくちゃいけなかった。結構疲れたのよ」
確かに宮田先輩はクラスの代表だ。だからといってそのために怪我をしていいってわけじゃない。
「何がクラスのためですか。あなたは自分の気にくわない人間を追い詰めるためだけにこの計画をした。今更、それを否定するんですか。ウルトラマンのお面をつけたのは、クラスの怒りを高めるためですね。その方が三人にとって状況は辛くなる」
彩原が怒気を含んだ声で責め立てても先輩は一切ひるむことがなかった。
「ええ、そうよ。見事にみんなそのように感じてくれたわ。ふざけてるのかって怒ってた。馬鹿みたいにね。けどこれはクラスのためでしょう。確かに私怨があったことは認めるけど、あの三人はクラスのゴミよ。それを掃除してあげたの。これって善事じゃない」
とても先輩の言葉とは思えない単語が次々と飛び出す。ゴミ。この人は今、自分のクラスメイトをそう評した。悪口でそう言うときはあるかもしれない。けどそれは普通の人の話だ。僕らの知ってる春川先輩はそんなこと言わない。
「あなたの不愉快な理屈に付き合う気はさらさらありません」
「分かってないわねぇ、ナナ。あなたは付き合えないのよ。だってこの感情は私みたいに、人の上に立つ人間だから芽生えるの。凡人には理解することは不可能よ」
「……ああ、そうですか。なら私が理解してることを話しましょう。あなたの二つ目の動機です」
明らかに蔑まれたというのに彩原はその怒りを飲み込んで、話を次へと進めた。彼女にとってはもはやこんな怒りなど小さなものなのかもしれない。もっと怒るべき事実を彩原は知っているから。
それでもあの春川先輩が彩原をあそこまで悪く言うなんて考えられない。もうこの人は先輩じゃないのかもしれない。ここにいるのは先輩の仮面を被った誰かで、僕らはずっと騙されているのかもしれない。その方が、よほど心が楽になる。
けどそんな非現実的なことは起こりえず、ここにあるのが事実。
「あなたは私にこの事件の解決を依頼しました。その目的は、実に単純な理由です」
先輩が頬杖をついてまた微笑む。そんな彼女の姿を彩原が忌々しい目でとらえている。そして指でチェス盤を数回叩いた。
「あなたの目的は、これです」
チェス盤を叩いていた指の手を強く握りしめる。
「あなたは私と何でもいいから勝負したかったんですね。あなたが唯一、勝てなかった私と」
それこそが先輩の望み。それを叶えるために事件を起こし、依頼をした。そして必要となる情報を提供し、あなたが容疑者だと言われたときも不適に微笑んだ。計画通りにいっていると狂喜した。
思えば彼女はこの依頼を僕らにした日さえ、彩原と勝負がしたいと願っていた。彩原の推測した、ある意味最悪の事実。これが今どれほど彼女の心を蝕んでいるか、それは僕の想像では及ばない。
「……完璧」
先輩が西原に向けて言い、かくして彩原の最悪の推測は現実だったと証明された。彩原は表情を変えなかったが、今どれほど心の中で取り乱していることだろう。一番間違ってて欲しいと思っていたことが、完璧と評された。それはもはや悲劇といえる。
「もう言い訳も無駄よね。さあ、ナナ、私をどうするのかしら。どう罰してみせる?」
挑発的に訊いてくる先輩に彩原は何も言わず、唇をかんでいた。どれだけ罪を犯そうが、どれほど変わってしまおうが、彩原にとって先輩は先輩なのである。罰など与えられない。罰せられるべきだと頭で理解していても、そうはできない。
だから彼女は決めていた。さっき教室で言っていた。君の言った通りにすると。それはつまり……。
「……罰などありません。この事件は、これで終わりです」
それが彼女の絞り出した答え。どれほどのものと葛藤したかも想像できないが、彼女はそう答えを出した。
「真実を知ってるのは私と楠野とあなただけです。ならば私と楠野さえ黙っていれば事件は未解決として終わります。あなたが自白したところで悪ふざけと思われるだけでしょう。宮田先輩の傷さえ癒えれば、クラスもこのことを忘れます。私は、私は……あなたに罰など求めません」
求めれるはずもない。どれだけで手酷く扱われても、どれだけ非常な真実を突きつけられても、どれだけふざけた動機を持っていても、彩原に春川先輩を裁くなどできない。だから彼女は昨日僕が言った、内密にするのも手だという言葉に同意した。そうするしかできなかった。
「……優しいわね」
一瞬、先輩がいつもの様に優しく微笑んでいるように見えた。
準備室の扉がものすごい勢いで開き、勢いをつけた扉が近くにあった段ボールに当たって跳ね返った。その音で一気に空気が変わり、さっきの静けさが消え去った。
扉のところには三人いた。どの人も見たことのある人物。この事件の当初の容疑者の三人。菅原先輩に藤巻先輩に川平先輩。春川先輩が邪魔者やゴミと比喩した人たち。この事件のある意味一番の被害者。
「ここは図書委員以外は立ち入り禁止ですよっ」
咄嗟にまずいと思い怒鳴った。この会話を聞かれるわけにはいかない。それでは折角、彩原が内密にしようとしたのが水泡と化す。それだけは避けないといけない。そうしないと先輩が……。
「うるせぇな。許可は取ってあるんだよっ」
菅原先輩の拳が頬に食い込んだのはその直後だった。衝撃のせいで少し飛ばされて、その場に倒れた。
「楠野っ」
唇が切れて血が少し出て、口の中に鉄っぽい広がっていく。心配をした彩原が駆け寄ってきてくれたが、心配ないよとなだめる。
状況は最悪だった。座った春川先輩は三人に囲まれてしまって、動けずいる。三人の表情から怒りが限界を迎えていることはすぐに分かった。それでも先輩は微動だにせず、チェス盤を見つめていた。
「おい春川、今の話は本当か」
菅原先輩が彼女の肩を掴んで揺らした。
「本当に決まってんじゃないのよ」
両腕を組んだ藤巻先輩が春川先輩を睨みつけている。
「あっ、これが証拠ですよっ。間違いありません」
川平先輩が竹刀を二人に見せていた。
どうすべきだ。春川先輩がこの事件の犯人で、その目的はあの三人を苦しめることにあった。もしこの部屋の会話が聞かれていたとすれば、あの三人は春川先輩をただでは済まさない。菅原先輩なんて今にも襲いかかろうとしている。
止めないと大変なことになる。何も考えず立ち上がり、あの三人と春川先輩の間にはいろうと足を進めようとしたが、それは叶わなかった。
テーブルが少し宙に浮いたと思っていたら、それはすぐに大きな音を立ててひっくり返った。その上に乗っていたチェス盤やその駒たちが周りに床に散乱し、準備室の空気がまた凍り付いた。
「ああっ、本当に邪魔な連中ね。いいところだったのにっ」
椅子に座ったまま足を振りあげた状態で、先輩が頭をかきむしる。誰もが口をきけず彩原など口元を押さえて、信じられないという表情のまま固まっていた。あの先輩がここまでの行動にでるとは信じられない。
「ええ、話は本当よ。今あの子が話してたことは何一つ間違ってなかったわ。憎らしい程ね」
先輩が堂々と何にもそれることなく立ち上がり、自分が蹴飛ばしたテーブルの近く落ちたポーンを一つ拾い、それを三人に見せつける。
「私の目的はあの子と勝負すること。あなたちはその駒になってもらった。それだけ。けど感謝して欲しいわ。私とあの子の勝負の駒になれたのよ、光栄でしょ?」
首を傾けて先輩が三人に笑いかける。
「てめぇ……」
菅原先輩が拳を振るえさせる。やばい。もう僕じゃどうしようもないところまで来てしまった。
「けど確かにあなたたちは今も邪魔だけど、入ってきてくれて良かったわ。この子、真実を隠すつもりだったらしいから。甘ちゃんよね」
春川先輩が固まった彩原の方を向いて、大きなため息をついた。
「これで真実は白日の下にさらされるわ。私がどれだけあなたちを恨んでいたか。あの役立たずの会長に苛立っていたか。あの迷惑なクラスをどれだけ嫌悪していたか。それが伝わると思うと、心から、心から清々するわっ」
先輩は持っていたポーンを菅原先輩に向けて投げ、それは回転しながら菅原先輩の額に直撃した。
「駒は駒らしく、私の指示通り動けばいいのよっ。どれだけ注意しても聞かないのはどうして? 頭が悪くて理解できないのかしら。頭が悪いんだったら、余計に私に従いなさいよっ。人の気も知らないで好き勝手行動して……。こっちの迷惑も考えなさい、このゴミども」
剣のように鋭い言葉が室内に飛び交う。
「ああっ、ちょっとスッキリしたわ。やっぱり思ってるだけじゃなく、言葉にしなくちゃ、行動に移さなきゃ体に毒よね」
「……良かったな、毒をはき出せて」
拳を振るわせた菅原先輩が春川先輩へ近づく。彼女は逃げもせず彼をずっと見ていた。
「けどこれからお前には苦しんでもらうぜ。真実をクラスの連中にばらしてやる」
「……本当に頭が悪いのね。真剣に同情してあげるわ、感謝なさい。私はそうなることを望んでるのよ。私の気持ちをクラスの連中に伝えてちょうだい。いくら頭が悪くても、役に立たない駒でも、それくらいはできるでしょ」
菅原先輩が春川先輩の胸ぐらを掴んで、拳を振り上げた。やばいと思い、両目を瞑った。
「やめなさいよ、こんな奴に構うなんて時間の無駄でしょ」
菅原先輩のすぐ後ろに立って藤巻先輩が彼を諭したあと、春川先輩に一瞥した。
「あんたが殴るより辛い仕打ちがこいつには待ってるわよ。それを見て、今度は私たちが清々しましょう」
人気者の会長を自分勝手な理由で傷つけて、クラスに対しての暴言をした。このことを彼らがクラスに知らせれば、先輩もただではすまされない。彼女は今までの地位や人気を失うどころか、地に叩き落とされるだろう。
「……そうだな。こいつには後でたっぷり苦しんでもらう。それでいいか、川平」
「う、うん。僕はそれで十分だよ」
あの物静かな川平先輩でさえ春川先輩の窮地を望んでいる。
「まあ、がんばってちょうだい。あなたたちで私を苦しめれるかどうかは微妙だけど」
とうの春川先輩はそんなことは恐怖でも何でもないようで、今でも余裕の雰囲気を醸し出していた。それが我慢の限界だったのか、菅原先輩の拳が振り落とされそうになった。
「やめろっ!」
その叫びで春川先輩の顔の直前で拳は静止し、誰もが叫び声の主、彩原に目を向けた。彼女は今にも泣き出しそうな表情で春川先輩だけを見ていた。
「……やめてください。これ以上、そんな姿を見せてないでください」
声から悲しみとか色んなものがにじみ出ている。
「ああ、ナナ」
春川先輩が菅原先輩から離れて、彩原の側に寄っていく。そして彼女の頬を撫でると、まるで氷のように冷たい言葉を浴びせた。
「あなたとの勝負は終わった。あなたの役回りはもう終わり。変な邪魔はしないで」
言葉を聞き終えると同時に彩原の目から涙一滴こぼれ落ち、それが頬を伝っていく。
「私は……私は、あなたを……」
彩原が途切れ途切れの言葉で何かを伝えようとしたが、先輩はそれを聞かなかった。
「憧れてた? 尊敬してくれてた? けど、そんなのはあなたが勝手にしたことよ。私には関係ないわ」
最後の最後、彩原は言葉に出来ない叫び声をあげていた。震えた口をぱくぱくとさせて、その奥から言葉を引っ張り出そうとしていたがそれも叶わず、目元を拭って準備室から走って出て行った。
「彩原っ」
そう声をかけても止まらず、足音だけを残し消えた。
「何をしてるの、楠野君」
背中から聞き慣れたはず声がした。けどそれは冷たく、今まで聞いてきたのとは明らかに異なっていた。
「早く追いかけてあげなさい。じゃないとナナ、ショックでどうかしちゃうかもしれないわよ?」
声の調子で分かった。彼女はこの状況を楽しんでいる。睨み付けるため振り返る。先輩は口元に笑みをうかべたまま僕を見ていて、その表情から、僕なんかが何を言っても無意味だというのを瞬時に察した。
この人は僕の知っている先輩じゃない。いや、僕らが先輩を知らなかったのか。これが彼女の本性で僕らはずっと騙されていたのかもしれない。さっき彼女が仮面を被っているんじゃないかと疑ったが、違ったんだ。彼女は仮面を脱いだのだ。
言葉も何もいらない。もう知るかという気持ちで僕は準備室を飛び出した。
校内を走り回り彩原を見つけたのは、あれから十分以上経った後だった。彼女は人目のつかない屋上にいた。フェンスに背中を預けて、三角座りをし頭を膝に埋めていた。
近づこうとしたが、できなかった。少し離れた位置からでも彼女の嗚咽がはっきりと聞こえてきたがそれを慰めるすべがない。あれから十分以上が過ぎているのにあれほど泣いていると言うことは、最初は泣き叫んでいただろう。近づいたってなにもしてやれない。
憧れの人からの頼みだから聞き入れ、必死に調査をしてたどり着いた推論がその人こそが犯人というもので、それを否定したかったけど、できなくて。挙げ句の果てに動機は自分との勝負で。
それでもまだ恨みきれないで彼女をかばうため真実を隠そうとしたら、そうするこさえできない。最終的には邪魔だと言われた。
一体、どんな精神をしていたらこれほどのものに耐えれるだろうか。
夕日が身を縮めた彩原の陰を伸ばして僕の足下までもってきた。手をその陰の上に伸ばしてみるけど、その先にいる彼女には何も出来ない。
伸ばした手は彼女に届くことなく、哀れに宙を彷徨った。
次回で最終話です。




