ナイトは秘密を抱えていた
六手【ナイトは秘密を抱えていた】
「どういうつもりだよ、お前」
準備室から出て行った彩原を追っていき、廊下で彼女の手をつかんで引き留め、そう追求した。
「自分が何言ってるか分かってんのかよ」
「分かってるさ。自分の言葉にくらい責任は持てる」
彼女は僕の腕をふりほどくとまた歩き出すので、彼女に歩調を合わせながら横に並ぶ。
「いいや、お前は分かってないね。お前が犯人だって言ったのは、春川先輩なんだぞ」
「何度も言わせるな。分かっている」
彼女が歩く速度をあげるがさすがにここは女子と男子の差がでて、簡単に追いつく。
「だって、だってそうだろ。論理的にあの人しか考えられないんだよ」
階段を下りながら彼女が悲痛な声をだし同意を求めてくる。そう、確かに彼女の論理には説得力があり、それしかないようにさえ思え否定できない。
「君だって、君だって否定してくれなかったじゃないか」
彼女が急に僕の方へ目を向けて、そう声をあげた。そうしてくれなかった。彼女は今そう嘆いている。さっきの準備室で僕が反論できず黙ってしまうと彼女は残念そうな顔をしたのを思い出し、それで気がつけた。
彼女はあの時、僕に否定してほしかったのだ。春川先輩が犯人なわけがないと。彼女自身、そういう結論に至ったが、それを一番彼女が受け入れたくなかった。だから、今こうして珍しく感情を表に出している。
言葉に詰まることなんて滅多にない彼女が、喉を震わせている。
「私が好き好んで、あんなこと言うわけ、ないだろ……」
放課後の階段は静かな物で彼女の詰まった声がはっきりと聞こえたが、もし今が昼間なら喧噪にかき消されてしまって聞き取ることは無理だろう。
「否定してほしかった、君にも、あの人にも。けどどちらも……否定してくれなかったじゃないか……」
あの時、彼女の声が徐々に強まっていたのは彼女の怒りだったんだ。自分に疑いを向けられても平然として否定しなかった先輩への。そして先輩の無罪を主張しきれなかった僕への。
「……ごめん」
そんな陳腐な謝罪しか口に出来無くて、自分が愚かに感じる。
彼女は僕に何か言いたそうだったが、決して言葉にはせず軽いパンチを胸にいれてきた。僕に責めたいことはたくさんあったのを、彼女はその一撃で許してくれたようで、これでいいと呟いた。
「急に言われて否定しろと言うのが無理な話なのかもしれないしな」
そこでようやく昂ぶっていた感情が落ち着いたようで、少し上を向いて息を吐くと、両の頬を自分で叩き、よしっと気合いをいれた。
「じゃあ楠野、君と私はここで別行動に移そう」
彼女の唐突な提案に驚きを隠せず、えっと声を漏らす。
「もう私は後戻りするつもりはない。こうなったら私はあの人が犯人だと証明する。それがたとえ茨道でも、そうする。それがあの人から頼まれた依頼だからな。けど、この役回りは私だけで十分だ」
それはつまり彼女はこれから一人で調査するということだ。そして彼女の頭の中で、もう犯人は先輩なのだ。そしてそれを確定させるためにこれからは、先輩を追い詰める調査をしなくてはいけなくなる。その役目は正直、僕にはきつい。いや僕だけじゃない、彼女だってそうだ。
しかし彼女はその重荷を全て自分で背負うと申し出ている。僕がそれを負うようにないように。しかし、それはあまりに冷たい。
「僕だってやるよ」
「……分かるだろ。これからは私はあの人を疑うんだ。それは辛い。けどこの結論を出したのは私だ。だったら君がそんな辛い目を見ることはない」
だから君はここで身を引け。
これが彼女の優しさだと言うことくらい分かっている。けどこれは、僕から言わせれば侮辱に近い。確かに役に立っていなかったかもしれないが、ここまできて逃げろというのか。人のことを臆病者だと考えている証拠じゃないか。
ただ彼女の優しさは嬉しい。そしてその優しさに揺らぎはない。彼女はどれだけ僕が言葉を重ねようと自分一人で行動するだろう。そうはさせるものか。
僕はさっきまでの先輩との会話を思い出し、彩原の目を見た。
「なら僕は先輩の無罪を信じる者として君の調査に付き合う。君が間違ったなら僕はそれを正す」
それが僕の見つけた、そして全うすべき役回りだ。自らにそう言い聞かせる。
僕の宣言が予想外だったようで彩原は目を大きく開き驚いたが、その目がすぐに細められ、彼女が嬉しそうに笑った。ようやく見れた、彼女の笑顔が。
「なら、お願いしようか」
先輩の無罪を信じているのは僕だけじゃない。疑うだけでは精神的にきついが、それとは全く別のことを側で人がしててくれれば、誰だって気持ちが晴れる。
合図などしていなかったにも関わらず、僕たちは自然と握手を交わしていた。これからもよろしくという意味を込めて。
「それで彩原、君はこれからどうするつもりなんだ」
調査というからには彼女は何かを調べるだろう。それが決まっていないということは考えられない。
「ああ、まずは当然ながらアリバイだ。だからあの日、先輩が放課後にいたかということを証言できる人物を捜す」
「君の推理では先輩は準備室に籠もっているんだったね。じゃあ、あの日の図書当番の人なら証言してくれるかも」
「冴えてるな、楠野。私もそう考えていたんだ。あの日の図書当番なら、図書日誌を見ればきっとすぐに分かる。図書委員なら知ってる人かもしれない。難しい調査じゃない」
図書室には毎日、放課後図書室の管理をしている委員の当番がいる。大概は一年か二年だ。そして彼らはその日に借りられた本や返された本や貸し出し者の名前を書く貸出ノートと、その日図書室に起こったことなどを記載する図書日誌を書くことが義務づけられている。そしてそれらには当然、当番の名前も書かれている。
「なら図書室じゃないか。どうしてこんなところまで来たんだよ」
準備室を出て、そのまま図書室も出て行くもんだからどこか目的地があるんだろうと考えていたのだが、彼女が最初に調査しようと思っていたものは、ふりだしの図書室にある。
僕がそう指摘する彼女はなぜか黙って降りてきた階段を上り始める。しかしすぐに足を止めて、背中を向けたまま振り返らずに告白した。
「どうかしていたんだ。少しぼぉっとしていただけだ」
止めていた足を再び動かし始める。階段を上がっていく彼女を見ながら、どんな理由でも一緒に行動するように話がまとまって良かったと痛感した。彼女は混乱していて、そしてそれを指摘されるまで気づかなかったんだ。
少し頼りない足つきで階段を上がる彼女を追いかける。今はとりあえず、側にいようと決心しながら。
図書室に戻って今日の当番だった二年の先輩に日誌を貸してもらった。そしてそれを図書室のテーブルの上で開き、事件の日に捲っていく。
「あった、ここだ」
彩原が日誌を僕にも見やすいように出来るだけ開けてくれた。確かに事件当日の日付がちゃんと書かれていて、そこには『本日も特に異常なし』と丁寧な字で書かれていた。この日誌は図書室で起こったことなどを書くが、図書室で何か起こることなど滅多にないので毎日、この一文が書かれる。
「楠野……これ」
彩原が呼びかけながら、日誌に書かれていた『当番名』の欄をゆっくりと指さした。そこに目をやり、思わず隣の彼女に目を向ける。彼女も同じように僕を見ていて、二人してそこに綺麗な字で書かれた名字に驚きを隠せていなかった。
そこには僕らの見知った名字が書かれていた。
小泉と。
「そういえば小泉は図書委員だったな。忘れかけていた」
剣道場へ向かう途中、彩原が僕と同じ感想をもらした。
「まあ、あいつは部活の方に力を入れているからね」
あの日誌で彼の名前を見つけるまで確かに忘れていた。確か僕が入ったと聞いて、面白そうだという単純な理由で入ったんだった。
剣道場は今日は熱気であふれていた。打ち合いをしている生徒たちの声や、竹刀が相手の防具や竹刀を打つ音が響き渡っていて、それと同じように部長と思われる人の指導の叫びが飛び乱れている。
僕はこういう光景は見慣れているが、彩原は初めてだったので素直に、すごいなと感心していた。
剣道部員は当然全員が防具を着込んでいるので誰か判断するのは人目では難しい。一応、剣道場をぐるりと見渡したが小泉が誰かは分からなかった。確実にこの中にはいるはずなのだけど……。
どうしようかと考えていると彩原が僕の肩を叩き、道場の隅っこで素振りをしている一人の生徒を指さした。
「小泉はあれだ」
一体どうやって判断したのか想像も出来ないが、よく目をこらして見ると確かに小泉だった。防具から見れる微かな顔でやっと判別できる。
近くにいた剣道部の先輩に小泉に用があると言うと、すぐに彼を地が揺れるような大声で呼び出す。それに反応し、すぐさま彼が素振りをやめてこっちに駆け寄ってきた。
「なんだよ、楠野。今日は駄目だって言ったろう……あれ、サイレンまでいる。珍しいな」
僕がここに小泉を訪ねにくるのはいつものことだが、彩原は初めてだ。彼女はいつも一人でさっさと帰ってしまう。小泉の部活がないときは三人で帰るときもあるが、それも指で数えるほどしかない。
「部活の邪魔をしてすまんな。ただ君に訊きたいことがってね」
「おお、入部出来るかって。残念だな、サイレン。うちは女子剣道部はないんだよ」
いつもの様に明るく適当に振る舞う小泉だが、彩原が出す並々ならぬ雰囲気を感じ取ると、困ったような目つきで僕を見てきた。
「おいおい、どうしたんだよ二人とも。昼から変だぞ」
僕らの様子に調子を狂わされた小泉が焦るが、そんなのお構いなしに彩原が彼の目の前に、さっきの日誌を開けて見せた。
「これは君が書いた。間違いないだろうな」
開けられたページを防具越しにまじまじと見て、小泉は頷いた。
「日誌か。ああ、あの日は俺が当番だったからな。間違いないよ。怪我もしてたし大変だったんだ」
彩原がこちらに視線を向ける。同時に頷き、今度は僕が質問した。
「その日のことなんだけど……春川先輩はいつも通りいたか」
「女王陛下か。ああ、いたぞ。俺が図書室入ってしばらくしたら来たよ。カウンターでちょっと話した後、準備室に籠もったぞ」
わずかだが望んでいた。小泉が、そんなことはないと答えるのを。そうであれば先輩が学校にいたということが証明できない。アリバイがあろうとなかろうと、学校にいなかった先輩には容疑がかけにくくなる。
けど現実はそうではない。予想していたとおりの、非情な答えが出てきただけだ。これで状況が、最悪に一つ近づいた。
「……落ち込んでないで、次に進むぞ」
黙っていた僕を彩原が肘で小突き、質問を次に進めた。
「少し思い出して欲しいんだが、あの日、あの人は準備室から出たか」
たとえ先輩が学校にいたとしても犯行をしたかどうかはまだ不明だ。これこそが意味のある質問。準備室から廊下に出るには、必ず図書室を通らないといけない。もし先輩が犯行をするため準備室をでたなら、カウンターで当番をしていた小泉に目撃させるはずだ。
準備室の扉は不要な本が詰まった大量の段ボールなどで埋まって隠れている。どけて通ることも可能と言えば可能だが、それにはかなりの体力が必要だし、何かの物音を必ず立ててしまう。春川先輩は女性だし、それを一人でやるにはきつい。
この質問が彼女が白なのか黒なのかを決める。
小泉はしばらく腕を組んで、唸り声をあげながら思い出そうとしていた。そして、あっと声を上げて何かを思い出したよ。
「出てねぇよ。あの日は確か四時まで当番してて、帰ろうとして準備室にいる先輩に声をかけたんだ。鍵締めは自分がするから先に帰っていいっていうから任せて帰ったんだった。うん、その時もちゃんと準備室にいた。その時以外先輩とは話してなかったけど、外に出てはない」
「ほ、本当かよ小泉」
その答えがあまりにも嬉しかったので、つい彼の肩を掴んで揺らしてしまう。彼はそんな僕の反応に動揺したようだが、間違いないと何度も頷いた。
心の中で広がっていた不安が一気に引いていき、少し身軽になる。
彩原を見ると彼女もその答えが嬉しかったようで、胸をなで下ろしていた。疑ってかかるとは言っていたものの、彼女だって先輩の無罪を強く信じているのだ。ただ無罪を信じるだけでは何もならないので行動しているに過ぎない。
「どうしたんだよ、二人して。これでいいなら部活に戻らせてもらうけど」
「ああ、構わない。時間を取らせて悪かったな」
小泉は不思議がりながらもそのまま部活に戻っていった。その姿を見届けると彩原はすぐにくるりと背中を向けて、剣道場から出て行き今度は校舎に入っていった。
「で、先輩のアリバイはとれたよ。次は何をするの」
「あの人な、最近ずっとピアスを探していたんだ」
そういえばさっきも先輩はピアスを探していた。どうやらそのことを彩原にも言っていたようだ。けれども、それがどうしたと言うんだろうか。
「ピアスなんてそうそう落ちるもんじゃない。けどもしかしたら、激しい動作をしたら、弾みでとれてしまう可能性もゼロじゃない」
先輩のアリバイは取れたというのに彼女はまだ可能性を疑う。さっきの小泉の返答で嬉しくても、彼女はまだ調査する。それが彼女の選択なので文句は言わない。
準備室で彼女は先輩に、確たる証拠を突きつけると言った。もしピアスが激しい動作、たとえば誰かを襲ったりしたときに落ちていて、それが証明できればそれは確たる証拠になり得る。
「この学校は落とし物は職員室でしばらく管理してあるはずだ」
確かにそうだった。自転車の鍵や、部室に忘れられた水筒、教科書や、ウォークマンと言ったものまで校内で生徒が落としたと思われるものは全て職員室で管理してある。
稀に校則で持ってくることが禁止されている携帯電話やゲーム機なども落とし物として管理されている。取りに来た生徒には一応注意はしているそうだ。そんなものでさえちゃんと預かっているだから、ピアスも拾われていればあるはずだ。
もしそのピアスが犯行現場で拾われていたということになれば、また状況は変わる。
「けど彩原、先輩は準備室から出ていない。どうがんばっても犯行は無理だよ」
「一見そう考えられるが、可能性はある。当番であった小泉はカウンターの中にいた。なら、準備室から身をかがめて出て、そのままカウンターに隠れながら図書室を出て行くことも可能だ」
流石の頭の回転だった。安心はしても、可能性を完全に消さないで、また新たな可能性を見いだす。けどここで引けを取るわけにはいかない。
「けど戻ってくるときはどうするの。先輩は四時に準備室にいたんだよ。一度隠れながら出ることは出来るかもしれないけど、今度は図書室へ入るのが問題になる。いくら何でも誰かが入って来たなら小泉は気づく。その時もまた身をかがめていたというのか。君の言う可能性としては考えられるけど、先輩がそんな危ない賭に出るかな」
彼女が可能性を作るなら、僕はそれをつぶしていく。役回りを果たす。
「窓から出るという強行手段もあり得る」
確かに準備室には窓がある。しかし、それはまずないだろう。
「あそこは四階だよ。万一のことを考えるとあり得ないだろ。それに窓の外に人が居たら、いくらテスト中とは言え誰かに見られる。それの方がより目立つよ」
「だろうな、言ってみただけだ」
こうして彼女が示す可能性をつぶせていることが本当に嬉しい。しかし、同時に僕の胸の内にはある疑問が広がっていく。僕がすぐこうして否定できている。ならば、あの春川先輩なら、あの場で瞬時に自分の無実くらい証明できたはずだ。
けど彼女はそうはせず、彩原の前に立ちふさがった。宣戦布告を受け入れ、今も彩原が再度訪れるのを持っている。それはどうしてだろうか。
否定するのも馬鹿馬鹿しいからか。考えられなくもないが、あの人の性格ならそれでも優しく否定しそうなものだ。ならば、否定する必要が無かったからか。それはつまり――。
嫌な想像が頭を巡るので首を強く振って、そういうものをなぎ払う。
「何をしてるんだ」
「いや、何でもないさ」
適当に流しておいたら、ふんと鼻を鳴らされた。
「変なことを考えるな。言ったろう、それは私の役回りだ」
こちらの考えることくらいお見通しというわけか。こいつといい、春川先輩といい、人の心を読める技術でも備わっているのだろうか。
職員室では数人の先生が忙しそうに書類を書いたり、生徒指導の先生が生徒を叱っていたりしていた。職員室の奥に落とし物が入れられた段ボールがある。高級そうなものが落ちていた場合は別の場所においておくらしいが、たいていはその中に詰められている。
幾人かの先生に頭を下げながら箱へと近づく。箱には予想通り水筒や弁当箱、どういうわけか中身がぎっしりと詰まった筆箱まであった。僕と彩原は二人でその箱の中身を一つずつ取り出し、何かないかと丹念に調べた。
しかし結局お目当てのピアスさえ出てこないで、箱の中は空っぽとなった。別に落胆はしていない。予想通りであり、望み通りである。横に目を向ける彩原が落とし物箱に詰められた男子制服を凝視していた。
「何してんの」
僕がそう問うと無言のまま彼女は制服にホッチキスで張られた小さな紙切れを指さした。それには日付が書かれていて、その日付は事件の翌日のものだった。
そういえばジャージも箱には入っていたが、確かそれにも日付の書かれた紙が張ってあった。どうやら衣服には日付をいれているらしい。確かに名前の縫われていないジャージや制服などは落とした日付で持ち主が自分のかを判断しやすい。
「他の服は全部ここ数日のものだ。これだけなんだよ、先週のはな」
ジャージであれ制服であれ、服なんか落としたらすぐ気がつくし、そうすれば誰だってここに来て、すぐに自分のを持って帰る。
「だからどうしたのさ。まだ来てないだけだろ。確かに日付は気になるけど、服は事件と関係ない。犯人はジャージを着てた。けどそれはもう見つかってて、それを基に推理を展開したのは君じゃないか」
そもそも男子制服に興味を持つことが理解できない。事件と関係ないと思えるのだ。
「……まあ、そうだな」
釈然としないようだったが彼女は箱から離れ始め、職員室の出口へと向かう。後ろへついていき、次はどうするかを訊こうとしたら急に彼女が立ち止まって、思わず背中にぶつかってしまう。
「どうかしたの」
そう呼びかけても彼女は返答せず、ずっと前を向いたままだった。どうしたんだろうかと前へ回り顔をのぞいてみると、何か考えている気むずかしい表情をしていたが、それがすぐに落胆の表情へと変わっていく。顔色も青くなり、みるみるうちに表情というものが無くなってしまった。
「ど、どうしたんだよ」
あまりの変化に心配になり彼女の肩を掴んで揺らした。近くにいた先生が寄ってこようとしていたが、その時になってようやく彼女が行動を起こした。すぐさま僕の腕を引っ張って、ものすごい早口で寄ってきた先生たちに失礼しましたっと言いながら職員室を走って出て行く。
そしてそのまま人気のない場所まで走っていき、ようやくそこで止まった。
「何だよ急に。どうしたって言うんだ」
さっきからずっとどうしたと心配しているのに、彼女は僕の言葉など聞こえないように無視し、僕が持っていた日誌を奪い取るとさっきのページを開き、何度も何度も目線を縦横させる。
「……やっぱりか」
日誌を閉じると彼女はそう肩を落とした。僕もその日誌は何度も見返したが、何か彼女が落ち込むようなことは書かれていなかったはずだ。小泉の名前と、本日も異常なしという常套文句が綺麗な字で書かれていただけで。
「楠野。もうどこからでもいいから、話せ」
彩原が一歩僕に詰め寄って、突然そう言ってきたの。
「話せって……なにを」
「先週からでも今週に入ってからで構わないから、小泉と話したこと、あいつがした行動、知ってる限り全部話せと言ってるんだっ」
また一歩詰め寄って、彼女の顔がすごく近くなる。その表情は苦痛に満ちていて、その瞳にはいつも彼女が持っている余裕は無く、そこには目の前にいる僕が少しだけ歪んで映っていた。
どうして彼女がこんなにも苦しんでいるのかさえ理解できないが、彼女の言うとおりにした。とりあえず今週から。先輩から依頼を受けて、その後一緒に小泉と帰ったところから話し始める。
夏の長い陽がようやく陰を見せ始めた夜の七時頃。部活動を終えた生徒がぞろぞろと校門から出ていく。校門のところにいる警備員さんと別れの挨拶をして、また一緒に汗を流していた友達との会話に花を咲かせながら帰路についていた。
僕と彩原は校門の近くのベンチでずっと小泉を待っていた。どうしても彼に訊かなければならないことが増えた。そしてそれは今後の僕らの行く末を大きく左右するもので、僕らはここで一時間ほど待機しているが、気の重さのせいでほとんど会話をしていない。
さすがに一日に二度部活の邪魔をするのは申し訳なかったし、彩原が剣道部員がいないほうがいいと言うので今まで待つことになった。
「なあ彩原、さっきの話だけど……」
隣に座りずっと俯いている彩原に声をかけると彼女は分かりづらいくらいにわずかに首をあげて僕を見た。
「内密にするっていうのも僕は手だと思うよ」
いつもの彼女ならこんなふざけた提案、一瞬で棄却するに決まっているのに、沈んだ顔の今の彼女は、そうだなと受け入れた。らしくないけど、それを責めるつもりも指摘するつもりもない。
しばらくしてからお気に入りの竹刀を持った小泉が数名の剣道部員と一緒に校門に近づいてきた。彼は僕らに気がつくと怪訝そうにしながらも、剣道部員たちに突然の別れを告げて、僕たちの方へ駆け寄ってくる。
「二人そろって何してんだよ。もう七時だぜ」
僕らを交互に見て首をかしげる。彩原は他の剣道部員たちが校門から出て行くのを確認すると、膝においてあった日誌を広げて、またあのページを開けた。
「何度も確認するが、これは間違いなく君が書いたんだな」
「ああ、そうだよ」
彩原の隣に小泉が腰掛けると、ほぼ同時に今度は彩原が立ち上がった。
「そうか。……そういえば君は最近、楠野とゲームにはまってるそうだな」
日誌を閉じてそれを僕に投げて渡してくるので、受け取ってまたページをひらけて、そのままにしておく。
「ああ、すげぇ面白いんだよな」
小泉が笑顔で同意を求めてくるのでああと答えた。笑ってやりたがったが、それはできなかった。
「それは良かったな。で、君はそのゲームを親から買ってもらったと楠野に話したそうじゃないか」
ここで初めて小泉の表情に変化がみれた。笑顔が少し引きつった。そしてそれを僕も彩原も見逃しはしなかったが、今はとりあえず触れないでおく。
「そうだよ。それがどうかしたか」
「別に何でもない。ああ、そういえば、竹刀の使い心地はどうだった?」
次々と全く関係の無いような質問をされて小泉は理解できないでいる。それでも、ああと返事をした。
「ああ、最高だよ。やっぱり自分のっていうのが嬉しいな。素振りの音さえ違って聞こえてくるぜ」
「いいことじゃないか。わざわざ小遣いを貯めて買ったかいがあって良かったじゃないか」
彩原がそう言いながら小泉の持っていた竹刀を手に取り、軽く振ってみせる。袋に包まれているせいで鈍い音しかでない。
「話が何度も変わってすまいないと思うが、君は楠野に私たちと食事にでも行こうと誘われたらしいな」
それは今日の放課後の話。時間にすると数時間前だ。覚えていないはずはなく、小泉は瞬時にそうだと返答した。そして、あの時と同様の言葉を繰り返した。
「ただ金もないし、テストのせいで親からも借りれないから、当分は無理だけどな」
これが彩原の待ち望んでいた、いや予想していた、推理通りの回答。そしてあらゆる矛盾を生み出し、それを一つの回答へとつなげる言葉。
「そうか。残念だな」
彩原がわざとらしく肩を落とし、すぐに鋭い眼光を小泉に向ける。それに気圧されたのか、彼が息を吸い込んだの分かった。
「……小泉、君は何か秘密を抱えているな。水くさいじゃないか、友達である私たちに隠し事なんて」
立っていた彩原が座り、小泉の隣に密着するように座り、彼の顔をのぞき込む。あまりの顔の近さに小泉が少し遠ざかり、顔を赤くした。
「な、何を言ってるんだよサイレン。ていうか、顔が近いって。いくらおれと前の仲でもこれはない」
ふざけているのか、本当に照れているのかは分からないが、とりあえず彼は秘密などないと否定した。しかしそんな単純な逃げ言葉で彼女があきらめるわけがない。
「そうか、君が認めないなら……私が認めさせてやろう」
言葉の後半は彼女の声色が一転した。さっきまでの明るさはなく、目の前にいる男を威圧するほどの恐怖をにじませている。
「まず君はゲームを親から買ってもらったと言っている。そしてそれに反して、竹刀を小遣いで買ったとも言っているんだ。少しおかしな話じゃないか。ゲームなんてあまり役に立たなさそう物を買ってるくれたのに、竹刀は買ってくれなかったのか」
僕が彩原に小泉との最近の会話をすべて教えた後、彼女が最初に抱いた疑問がそれだった。恥ずかしい話になるが、彼女に言われるまではそんなことは一切不思議に思わなくて、普通に聞き流していた。
しかし彼女の投げかけた疑問の通り、彼の証言はおかしい。
「そうは言っても事実なんだから、そうなんだよ。確かに変わった親だよな。なんせ俺の親だし」
はははと彼が笑うが、僕も彩原も表情は変わらない。そんな雰囲気に耐えかね、すぐに彼が気まずそうに笑うのをやめた。
「そうか。そういえば、そのゲームの発売日は先週の月曜日だったな。少し前だというのにもう懐かしいよ、あのテストのことが」
小泉の顔色がまた青くなる。そうだ。これもまた彼女に言われるまで気づかなかった。あのゲームは先週の月曜日発売で、その日はまさに期末テストの初日。生徒たちが真剣に気合いを入れ始める日。
「さっき君はテストのせいで親には頼めないと言った。さっきだけじゃない。今週に入ってから君はその発言を繰り返している。楠野と同じで、君もテストの結果が芳しくなかったんだろう」
「余計なお世話だよ。悪いね、お前みたいに成績優秀じゃないんだよ」
「授業を寝ずに聞いておくだけで悪い結果にだけはならんぞ。次からはがんばるんだな」
今は関係ないが彩原は学年でもトップクラスの成績を誇っている。とは言っても天才というわけでなく、テストが近づくと遠くから見てても分かるくらいの努力はしている。とくに学年何位になってやろうという目標はなく、やるだけのことはやっておきたいだけだそうだ。そんな崇高な考え方をできれば、僕も少しはましになるだろう。
「君の親はテストの結果にはとやかく言うくせに、テスト初日に発売されたゲームは買ってくれるのか。発売日じゃないにしても、君が楠野にゲームを自慢したのは今週の月曜。なら買ったのは絶対に先週だ。成績にうるさく言う親が、テスト期間中にゲームなんて買ってくれるかな」
たとえテストが終わった後でもテストの結果が分かるまで親が子供になにか買い与えるなんてあまり容易には想像できない。
ついにこの状況に我慢できなくなったのか、小泉が声を荒げ始めた。
「何なんだよっ、いいだろう、そうだったんだから」
「ああ、本当にそうなら私だって口なんか出さない。そこまで無遠慮じゃないさ。けど君の話には辻褄が合わないところがある。それは無視できない」
「辻褄って言ったって、これが本当のことなんだから……」
仕方がないと続けようとした小泉を黙らせたのは、彩原の視線だった。餌に飢えたどう猛な肉食獣さえ静かに出来るんじゃないかと思うような力を持った視線。
「いいや、君は本当のことなんか話してない」
否定しようと口を開きたい小泉だが、下手な言葉はより自分を追い詰めるだけかと思ったのか、ついにだまり始めた。
「黙秘ときたか。いいだろう、なら君の代わりに、私が辻褄を合わせてやる」
挑発的な笑みを小泉に向け、彩原は一人で話し始める。
「君の発言におかしな陰を落としているの、間違いなく君の親の存在だ。私が矛盾点を感じるのは君の話にたびたび、君の親御さんが出てくるから。けど君のお話からそれを排除すると、驚くほど辻褄があっていく。まず竹刀を買ったのは君自身だろう。それに嘘偽りはない。ここに親の存在は元々介入していなかったからな」
小泉が彩原の話に耳を立てながら、横目で僕を見た。どうにかしろと語っているその目から僕は逃げ出して、沈みかけている太陽を見た。
「ならおかしいのはゲームの方だな。あれをどう辻褄を合わせようか。親が買ってないと想定するなら、誰かに買ってもらったと考えるべきだろうな。君の小遣いで買ったなら、君が嘘をつく必要など無い。恐らくだが、もらった誰かに、このことは秘密にしておけと釘を刺された。違うか」
黙秘は続き小泉は何も言わない。否定も肯定もせず、彼女の言葉など聞こえないように振る舞っている。
「つまりゲームは口止め料だったんだよ。これをやるから黙っておけというな。どうだろう小泉、私の言っていることは何か間違っているかな」
これには証拠も何もない。彼女が僕の話から辻褄の合う話を推理したに過ぎない。けれど根拠など無くても彼女の推理には説得力があり、それを覆すことは容易でない。小泉もそれを分かっていて、へんに否定の言葉は口にしないのだ。
ただ黙秘というのも今の彼の立場を考えると、賢い選択というわけじゃない。彩原は彼がこう行動することさえ読んでいたのだから。
「口をきけなくなったのか。なら、君が口を開けたくなるような面白い話をしてやろう。君のもう一つの秘密についてだ」
黙秘を貫いていた小泉の肩がびくんと揺れた。なるほど、彩原がそこまで分かっているとは想像していなかったようだ。
そんな小泉の反応に彩原は嬉しそうに微笑む。今の動揺はもはや自白並みに彼女の推理を確かなものにする。僕は日誌のあのページを開いて、小泉に見せた。そしてわかりやすいように彼が書いた当番名のところに指を指した。
「君は意外と字が綺麗だな。正直もうすこし雑な字を書くとばかり思っていたよ」
小泉の字を見たとき、僕もそう思った。彼は性格から見て字なんか自分が読めればいいと思うような乱雑な字を書きそうなものだが、案外この日誌は丁寧に書かれている。彼が日頃からそうしているかは知らないけど。
「書道でもやっていたのかい。いや、書道くらいじゃこんな綺麗な字は書けないよな。教えてくれないか。怪我をしていた手でここまで綺麗に字を書ける技術ってものを」
彩原がそこまで言い、ようやく小泉は自分のもう一つの自分が完全にばれていることを察したのだろう。目を大きく見開いて、その後、あきらめたかのようにゆっくりと閉じた。
「君は確かテスト期間中は右手首を痛めていたな。けどこの日誌が書かれたのはテスト期間中だ。どうして君はこんな綺麗な字を書けたんだろうか。……もしかして、君は怪我なんかしてなかったんじゃないか」
この学校はテスト一週間前に入るとテスト週間と含め、二週間全部活動は活動を中止する。かれはそのテスト一週間前の直前の金曜日に部活中に手首を痛めたと言って、テスト期間中も勉強が出来ないと騒いでいた。
けどそれが嘘だとしたら……。
「そういえば忘れかけていた。剣道部から竹刀が一本消えたらしいな。一体誰が盗んだんだろう。もし犯人が分かれば、きっと剣道部員たちに袋叩きにされるだろうな。かわいそうに。いたたまれんよ」
彼女の言葉には少しもいたたまれないという感情はこもっていなくて、ひたすら隣で三を丸くし、顔色を悪くしている友人を追い詰めるものだった。しかし、どんなに親しい仲であろうと今の彼女は誰にも容赦などしないだろう。恐らく、たとえ僕でも。
「――君が部活中に怪我をしたのは嘘だな」
ついに彼女が確信を突く。
「なぜそんな嘘をついたか。……まだ何も言わないか。私は君に罪はないと思うぞ。ようは君が部活に熱を入れている真面目な学生だというだけだ。君は竹刀を買うための金を貯めていた。自分愛用の竹刀が欲しかっただけじゃないだろう。君は今朝言っていたな、これで家でも練習できると」
小泉は部活動には非常に熱心だ。それは言わなくても分かっている。だからこそ彼は嘘をついた。それについての罪は確かにない。
「君は部活中に怪我をすることで、保健室にでも行ったんだろう。これで君には先輩や顧問の目が行き届かない隙が作れる。君はその隙に竹刀を一本、恐らくだが体育館の近くに隠した。そして部活が終わって、部活のメンバーと別れてからそれを見つからないようもって帰った。仕方ないよな。確かに部活熱心な君にとって、二週間部活が出来ないという空白は怖い。だから家で練習したい。当たり前の心情だ。まあ、方法は褒められたものじゃないが」
もし先輩や顧問が保健室までついて行くと言っても、そんなものは簡単に断れる。そして保健室に行くと言いつつ、それまで使って竹刀をどこかに隠すのも容易なはずだ。そしてそこまでして、そんな行動を取る必要があるのは、家でも練習がしたかったという思い。
「君の家に行けば案外わかりやすいところに竹刀があるだろうな。証拠は簡単につかめる。いや、そんなことをせずとも君が怪我をしていないという事実はこの日誌で分かる。小泉、私の推理、君の先輩に話してやろうか」
彩原の推理だけでも剣道部の中で小泉に疑心の目が向けられるのは確かだ。そして部活熱心なこいつなら、そんなことは絶対に避けたい。それは僕も彩原も同じだ。誰が友人を喜んで苦しめるものか。
長い沈黙の後、蚊の泣くような声で小泉が彩原に頼み込んだ。
「頼む……頼むから、黙っててくれ」
黙秘が自白へと変わった。首を垂れ下ろしていた小泉の胸ぐら、彩原が掴み、顔を無理矢理上げさせる。
「ああ、黙っておく。それは約束しよう。その代わり、言え。君は誰に何を口止めされた」
僕らはそのことだけが知りたかっただけだ。小泉が素直に質問に答えていれば、追い詰めるようなマネもしないでいるつもりだった。
「……女王陛下だよ。春川先輩にあの木曜日にゲームをもらった。その代わりに今からのことは誰にも言わないで欲しいって」
一番出てきて欲しくない人の名前が出てきた。もう辻褄などどうでもいいので、僕たちの知らない人の名前が出てきてくれた方が表現できないほど嬉しかったろう。この予想が当たることが嫌で仕方ない。
「……答えてくれ。あの人はあの日、準備室から出たんだな」
小泉が首が落ちるかのようにかくんと頷いた。両目を辛そうに瞑り、彩原が最後の質問をした。
「何時頃だ」
「……三時頃だったと思う」
小泉の胸ぐらを掴んでいた手が力なく彼から離れた。彩原は苦悩で歪んだ表情をしたまま、僕らに背を向けて夕日の方へ向いた。沈みかけている夕日は綺麗な朱色でなく、どこか黒ずんでいる。それはその向こうにある、先行きが見えない明日への恐怖さえ駆り立てた。
「……ふざけるな」
彼女の背中が徐々に震え出す。そうさせているのは悲しみか怒りか。
「ふざけるなっ」
慟哭にも近い彼女の叫びが一辺に響き、跡形もなくすぐに失せた。
次回から解決編です。




