ビショップは依頼を引き受ける
第二手【ビショップは依頼を引き受ける】
「えらく突拍子のないお願いですね」
まず口を開いたのは彩原だった。彼女は急に聞かされた生徒会長襲撃事件にある程度の驚きは示したものの、すぐに落ち着いたようだ。彼女と知り合ってからその冷静さには何度か驚かされている。
「そうね、ちょっとお話が唐突なのは否めないわ」
「というか先輩、どういったことが起きたんですか。何が起こったかわからない事には何も……」
僕がそう情報を求めると横で彩原がうんうんと頷いていた。おそらくではあるが、どんな事件であっても彼女は先輩の依頼を引き受けるだろう。断るわけがない。いや、断れないと言ったほうが正しいのか。
「話すと長くなるわ。まあ、楽にして聞いて頂戴。まずさっきも言ったけど事件があったのは先週の木曜日、時間は午後三時らしいわ。宮田君は誰から呼び出しを受けて、B棟の二階のコンピュータ室の前で音楽を聞いてた。そこを急に襲われたのよ」
先輩はそういうとさっきまで一人チェスをしていたチェス盤からすべての駒を払いのけて、近くに置いてあった小箱に仕舞っていく。しかし二つの駒、キングとポーンをだけを盤上に残したかと思うとポーンでキングを弾いて倒した。どうやらこのキングが宮田会長のモデルらしい。そしてポーンが犯人だろう。
B棟というのはこの図書室のあるA棟と平行に並んである校舎であり、A棟とは渡り廊下でつながれている。
「どういう風に襲われたんですか」
彩原が質問をしながら倒れたキングを摘んでまた盤上に立たせる。
「突然後ろから頭を殴られたそうよ」
「ああ、誰かを彷彿させる犯行ですね」
僕がある特定の人物に対して嫌味をこめて言うと、横から突き刺さるような痛い視線を感じた。これは目があったら殺されてしまうと思ったので、彼女とはまったく違う方向へと目を向ける。そんな僕らのやり取りを先輩は笑いながら見ていた。
「仲がいいって素晴らしいわね。けど楠野君、あなたはまだ本だからいいわ。まあ本も駄目だけどね」
そういうと先輩は彩原へ視線を向けるが、とうの本人は先輩とはまったく違う方向へと視線を向けるので、その仕草がまたまた面白かったのか、先輩はさっきよりも笑い声を大きくした。
「二人とも、してる事が同じよ。本当に仲がいいんだから」
それはどういう意味だという視線を僕が送ると、なんとしたことか彩原までも同じ行動をしていた。二人同時にその事実に気づいて、つい動きが止まってしまう。
「ほぉらね。まったく愛らしい後輩たちだわ。もう、これじゃあ話が進まないじゃないの」
おほんっとわざとらしいせきを彼女がして、場の雰囲気を持ち直させた。
「宮田君はなんとあろうことか竹刀で後ろから殴られたんだって」
それは痛い。剣道の授業で面を何度か食らわされたことがあるけど、防具をつけていても痛いんだ。それを生身に食らわされたと考えると、それだけで幻痛がしてくる。
「あれは痛いわよ。私も弟が中学で剣道部に入ってるから家に竹刀があるから分かるわ」
僕が宮田先輩の不幸を心から可愛そうに思っているときに、彩原は別のことに想像を巡らしていたらしい。
「竹刀で殴られたってことは、いくら強くても一発じゃ意識はなくしませんよね。となると痛みに堪えながら振り返って犯人を見ることもできたんじゃないですか。それこそさっきの楠野みたいに」
彩原がそう訊くと先輩はにやりと笑った。その笑みが期待通りと言っている。
「その通りよ、ナナ。ただ犯人も同じことを考えてたみたい。宮田君は何とか振り向いたわ。けどその瞬間、目に何かスプレーを吹きかけられたんだって。彼の話じゃ、多分催涙スプレーじゃないかってことらしいわ」
竹刀で頭を殴って、しかも苦しんでいる相手に姿を見せないため更に催涙スプレーを吹きかける。なんというか、とても冷徹な犯行だ。そこに人間の感情を感じれない。おそらく計画された犯行なのだろう。そして犯人はそれを忠実におこなうために動いている。いや違うな。おこなうためだけにと言ったほうが正確だ。
そこには躊躇も容赦も慈悲もない。まるで機械のように罪を犯す。
「目潰しをくらった彼はそのままうずくまった。そこに犯人はまた竹刀で殴ったり蹴ったりしたそうよ。数分間、暴行を加えた後そのまま立ち去っていったそうよ」
やっぱり人間味を感じない。
彩原は右手の人差し指を立てて、それでキングの駒を少し強めに叩いて倒した。目を瞑って、口を一文字にしている。彼女が何かを考えてるときの顔だ。彼女がそうしてる間に僕は率直な意見を先輩にぶつけることにした。
「無理ですよ先輩」
それが事件の概要を聞いた僕の意見だった。先輩は僕のほうに目を向けて、どうしてかしらと言うように首をかしげる。
「この学校の生徒が何人いると思ってるんですか。それくらいの犯行なら誰にだってできる。容疑者は全校生徒。そこから一人を導き出すなんて、警察か、そうじゃないと神様くらいにしかできませんって」
決して間違った意見ではないと自分では思っているし、どちらかというとこの回答が当たり前だろう。しかし僕の返答を聞いた先輩はため息は吐くし、彩原には馬鹿かと罵られるはと何故か呆れられてしまったようだ。
「いいかい楠野、わかりやすく説明してやるから落ち着いて聞くといい」
彩原はそう言うと首にかけていたヘッドフォンを外して自分の鞄に入れた。
「先輩がさっきから言ってるように事件があったのは先週の木曜日の午後三時。この日付と時間帯が何をさすと思うか、少し考えてみろ」
彼女に言われたとおり僕は先週の木曜日のことを思い出す。するとすぐに、本当に自分でも驚くほどすぐにある結論が出た。
「そうか期末テストか」
「そうだよ。期末テストだ。それで事件が起こったのが午後三時。テストなんて午前中に終わってるし、テスト期間中は当然部活なんてない。そしてその次の日もテストだ。分かるだろう。あの木曜日の午後三時に学校にいる生徒なんてかなり少数なんだよ」
なるほど。確かにこれで全校生徒が容疑者なんていう悲劇的な状況にはならずにすむわけだ。彼女の言う通り、そんな時間帯に学校にいる生徒はほとんどいないだろう。テスト期間中でも活動してるところは、生徒会で毎日行われる定例会議、そしていつでも誰でも入れる自習室、外国人教師が生徒たちに英語に触れてもらおうと思って切り盛りしているグローバルコミュニケーションルーム、そして最後にこの図書室。この四つくらいだ。
「けど、楠野の言うこともあながち間違ってはいません。容疑者は大幅に減りますが、それでもある程度の人数はいますね。それにさっき考えていたんですが、おかしなことが一つ。そんな事件が学校では噂にもなってませんが、それはどうしてですか」
「どうしてって……まあ、早い話が緘口令があったからよ。宮田君と教師の間で、この事件はあまり公にしないでおこうっていうね。彼にしたって襲われたっていうのはあまり広まって格好のつく噂じゃないし、学校側としてもそんな不穏な噂が流れては嫌だろうし、下手をしたら警察が乗り込んでくるかもしれない。学校のイメージを守るためには事件をなかった事にするのが一番ってことよ」
一応は近所で有名な私立の進学校だ。確かにクリーンなイメージを守りたいだろう。しかしだからといって一人の生徒が校舎の中で暴行されたのを無かったことにするのは、一つの学校としてどうなんだろうか。
それに宮田先輩だけでなく、これ以上被害者が増えたらなどとは考えないのか。少なくとも今現在、この学校内には人間味を感じさせないで平気で人を竹刀で殴れるような奴がいるんだ。そういう情報は僕ら普通の生徒にとってはとても大切な情報なのに。
言い表しようの無い憤りを何とか胸のうちで殺し、膝の上で拳を丸くする。
「……腐ってますね」
そんな憤りを彩原はたった一言で表現し、先輩もあなたの言う通りねと同意した。
「けど宮田君はうちのクラスだけには話してくれた。決して誰にも喋らないでくれって言ってね。だからこそ、私は犯人を突き止めたいのよ。このふざけた、お調子者を」
そういうと先輩は盤上にあったポーンを手にとると強く右手で強く握った。
「――少し懲らしめるためにもね」
先輩がにやりと笑う。しかしその笑みにいつもの優しさは一切感じられない。彼女から感じられるのはただならぬ冷たさ。彼女が怒ったときにでる空気だ。
「二人とも心配はご無用よ。私だって後輩に無茶を押し付ける気は毛頭ないわ。実をいうと容疑者もある程度絞れてるし、現場の状況も結構分かってるのよ」
彼女はそういうとさっき駒を仕舞った小箱から、再び駒を取り出す。今度は三つのポーン。そしてそれらを盤上に平行に並べると、向かい合うようにキングを立たせた。ポーンのうち二つは白く、残り一つは黒だ。
容疑者が絞れてると聞いて、なんだ杞憂だったのかと思ったのは僕だけのようで、彩原は特に何の反応も示さなかったところをみると何となく予想はついていたのだろう。春川先輩がそんな無茶を押し付けるわけがないと、彼女を信頼していたのか。
「容疑者は三人に絞れてる。多分だけど、この中に犯人がいるはずよ」
「……そこまで絞れてるのに、あなたが調査しない理由がわかりません」
彩原の言い分はもっともだ。先週の木曜日の段階で不特定多数の容疑者がいたにも関わらず、月曜日の今日の段階ですでに三人まで絞れてるという。そこまできたのならもういっそ三人を締め上げれば、白状するんじゃないだろうか。いやそんな手荒な真似をしなくても、先輩ならちゃんと調べれば直ぐにでも答えにたどり着けそうな気がする。
しかし先輩は、そうもいかないのよと最近切ったばかりの頭を掻きだした。
「私が結論を出すより、全くの第三者が答えを出してくれたほうが説得力があるのよ。それに……私はあんまり、クラスメイトを疑いたくはないの」
先輩の最後の言葉に少しうつむき加減だった彩原がビクンッと首を上げて、彼女にしては珍しく激しい反応をする。もちろん、僕も似たように驚いた。
「容疑者の三人は全員、私のクラスメイト。例えこの三人が犯人じゃなくても、犯人はうちのクラスメイトなのよ。状況がそう言ってるの」
春川先輩はそう言うと暗い顔で時折ため息を交えながらゆっくり説明してくれた。
まず宮田先輩は暴行されている最中になんとか犯人を見たらしい。けど目を痛めていたし、頭を手でガードをしていたためそこまではっきり見えなかった。かろうじて見えたものが三つある。一つは犯人の服装で、うちの学校のじゃないジャージをきていたという。そして二つ目は犯人の顔。これはすごい手がかりではないかと思ったが、先輩はここを説明するときに一番深くため息を吐いた。
「顔を見たのはいいけど隠されてたみたいなのよ」
「隠されてたっていうと覆面でもしてたんですか」
ううんと彼女は首を振って、またため息を吐いた。どうもその事実が彼女を悩ませてるようだ。
「お面をしてたそうよ、ウルトラマンの」
僕と彩原の表情が小さく口を開けたまま固まった。漫画であれば僕らの頭上にはクエスチョンマークが二つほど浮かんでるんではないだろうか。そんな僕らの反応を見て、先輩はだよねぇと呟く。
「私もそう思う。意味不明すぎるわ。ふざけてんのかしら」
ふざけてるのならまだいい。そこには人間味がある。しかし、僕や彩原が感じてるのは不気味さだろう。どう考えても歪んでる。同一人物の行動のはずなのにそこには一貫性がない。あるのはアンバランスな行動と、一切読めない真意だけだ。
「三つ目はスリッパ。犯人は赤色のスリッパを履いてたらしいわ。赤は三年の色だから、この時点で下級生ではないってことは分かるの」
この学校では色で学年わけがされていて、今年は三年が赤、二年が緑、そして僕ら一年が青という年だ。確かにスリッパが赤色だったってことは三年で間違いないだろう……。いや、待てよ。可能性としてはありえることが一つある。
「犯人がスリッパを履き替えてた可能性はないんですか。犯人を三年だと錯覚させるためにわざと赤のスリッパを履いてたのかも」
「うん。私もそれは思った。けど、どうやら三年生ね。さっきも言ったけど容疑者は絞れてる。その理由は、ジャージとお面は見つかってるのよ。私のクラスの教室の中でね」
彼女はそういうと足元に置いてあった自分のカバンの中を探り出して、あるものを取り出した。
ウルトラマンのお面が彼女の右手にあり、それで自らの顔を隠す。顔が小さめなのですっぽりとお面に顔が収まる。しかも最近ショートカットにした髪型のせいで見事なまでに全て隠れた。
「これとジャージが教室の中にあった掃除用具箱の上にあったダンボールの中から見つかったわ」
「先輩、教室のカギなんて誰だって持ち出せます。犯人が犯行を終えて、職員室にカギを取りに行けば――」
自分でそこまで言っておきながら、ようやく彼女の言わんとしてることが分かった。あの日はテスト期間だ。そしてこの学校ではテスト期間中に生徒が職員室に入室することを禁止している。用がある生徒とは扉をノックして出てきた先生に対応してもらうことになっている。
テスト期間中、教室の鍵は担任が持っているらしい。カギがいる生徒は担任から渡してもらう必要がある。もしも犯人がそのクラス以外の人間ならカギを持ち出すことはよっぽどのことがないと無理だし、例え可能だったとしても先生の記憶に残る。
犯人はクラスメイト以外ありえないという彼女の推理はこれに基づいていたのだ。
「妙ですね。午後三時以降にカギを借りにきた生徒がいるとしたら、例えそのクラスの人間でも目立つでしょう。ジャージを隠したのはほぼ間違いなく犯行直後のはずです。そんな姿で校内はうろつけませんし、ジャージの上下となると荷物になる。そんな荷物を持った生徒がいたら、今度は校門のところにいる警備員さんに覚えられるかもしれない。何とか隠してもって帰れたとしても、じゃあどうしてまたジャージを学校に持ってきたんだという謎が残ります」
彩原が早口で言うもんだから僕には理解するのに彼女が喋り終えてからも数秒を要したが、先輩はそうでは無かったようだ。彼女の言葉を聞き終えるや否や、流石ねと関心を表してからポケットからあるものを取り出して、それを机上に置いた。
僕と彩原がそれを覗き込むように見る。先輩が取り出したのはキーホルダーも何もついていないカギだった。
「これは私のクラスの合鍵よ。クラスの中に鍵屋の子がいてね、彼がこっそり作ったの。クラス全員知ってたわ。学校にバレるとまずいけど、便利だからって黙ってたの。いつもは教室の前にある消火器の後ろにセロハンで貼り付けてるんだけど」
「つまりあれですか。このクラスの人間しか知らない合鍵で犯人は犯行後、教室へ入りそこで着替え、荷物になるものを隠した。しかし運悪くそれがすぐに見つかってしまった。そしてこの合鍵を使えるのは存在をしっていたクラスメイトしかいない」
僕が頭の中でなんとか要約した状況を説明すると、彼女はその通りと大きく頷き、よくできましたとウィンクをした。
「これで事件の説明はお仕舞いよ。二人とも、どうかしら?」
依頼を引き受けるかどうかという意味の質問だろう。正直に言うと面倒に巻き込まれるのはご免だ。この事件に調査するということはどうやっても三年の先輩たちとの接触を避けては通れない。目をつけられたりしたらきっとややこしいことになる。
しかし先輩がせっかく僕らを信頼して頼みごとをしてくれている。それを無下にはしたくない。そして何より……僕がこんなに迷っていても、彼女は迷わないんだろう。そして彼女が依頼を受けるなら、僕が断るわけにはいかない。出来ることなんてせいぜいサポートくらいだが、それに徹する。
自分の中で答えが出たので隣に目を向ける。彼女もこちらを見ていた。目を合わせて二人で小さくうなずく。
「わかりました。どこまで出来るか分かりませんけど、調べてみます」
僕が二人の代表して答えると先輩は安堵の笑みを浮かべてから、頭を少しだけ下げた。
「ありがとう」
先輩にそんな態度を取られるとは思ってもいなかったので、僕はどういうことを言っていいか皆目検討がつかなかった。ただ先輩がこの事件を解決するのにどれだけ真剣かということはひしひしと伝わってくる。
どうしようかと焦っていると、彩原が急に席を立った。
「とりあえず明日にでもその容疑者三人をここに連れてきてください。調べるのはそこからです。じゃあ、私はこれで失礼します」
それだけ言うと彼女は自分の鞄を持ってそそくさと準備室から出て行ってしまった。どうやら先輩のこういう姿をあんまり見たくはなかったらしい。しかしそれは僕だって同じ気持ちだ。取り残されたら余計にどうしたらいいか分からない。
あの野郎と彩原を恨めしく思っていると、彼女の座っていたところに本が一冊置いてあるのが見えた。僕の頭を殴ったときに使った凶器だ。どうやら忘れていったらしい。
「ああ、あいつ、本を忘れてますよ。しょうがいな、届けてやります」
鞄を持って、本を手にとって立ち上がった。そして先輩にさよならと別れの挨拶をして、一目散に準備室から出た。そしてそのまま図書室も出ると、廊下でヘッドフォンをした彩原が腕を組んで持っていた。そして右手をこちらへ伸ばしてくる。
僕が無言でその手に本を渡すと彼女は本を鞄にしまった。
「一人で逃げるなんてずるいんじゃないか」
一応は抗議しておこうと思いそう言うと、彼女は鼻を鳴らした。
「逃げる機会はあげただろう」
そりゃそうだけどと言葉を続けようとしたが飲み込んだ。彼女の方が早くあそこから出たかったのだ。きっと先輩に頭を下げられて焦ったのは僕より彩原の方だろう。憧れの人にそうされては誰だって困る。彼女としては今現在もそういう感情を顔に出さないだけで精一杯なのかもしれない。
「ああ、小泉から伝言を預かっていたんだった。道場で待ってるから来てくれと言ってたぞ。なんでも話があるそうだ」
小泉というのは中学のときから友達だ。彼も図書委員だが、どちらかというと所属している剣道部の活動のほうに力を入れている。彼は僕が図書委員になったと聞いたら、何か面白そうだと言って入ったのだ。
「話ってなんだろう……。なんかあったのかなぁ」
全く思い当たるふしがないので僕が頭を抱えていると彩原がくるいと背中を向けた。
「どうせ卑猥なことだろ」
彼女の言葉のせいで危うく近くの壁に頭をぶつけそうになった。たまに平気でそういう事を言ってくるのだからたまらない。
「年頃の女の子がそういう事を言うもんじゃないよ」
「年頃の男の子なのだから恥ずかしがらなくてもいいぞ」
背中を向けたまま彼女は歩き出した。どうやら今日はもう帰るらしい。僕が背中に向けて、また明日と声をかけると片手を挙げてひらひらとさせて別れを告げたかと思ったが、急に首を回してこちらを見てきた。
「程々にな」
そんな言葉を残し去っていく彼女の小さくなっていく背中を見ながらため息をついた。
二階建ての体育館の一階部分が剣道部と柔道部の活動場所だ。ちょうど半分が畳で、そしてまた半分がすべるほど綺麗な床板だ。僕はその床板で正座をしながら剣道部員たちの気迫ある練習を見ていた。
体育の授業の一環として剣道はしている。ゆえにこういう試合の風景を見るのは特別珍しいことではない。しかしやはり試合のレベルが数段違う。僕なら到底打てそうにない面を平気で繰り出して、そしてそんな攻撃を見事に防いでいる。しかもそこからまた攻撃を仕返す。そしてまた相手がそれを防ぐ。
攻撃をするときの叫び声もまた迫力がある。見学してるだけの僕でも思わずビクッと震えてしまう。
小泉が部活を終えるまでいつもこうして見学をしながら待っている。こういうすごい光景を見れるから待つことは苦ではないのだが、いかんせん足が痺れる。これだけはどうにかしてもらいたい。
「おい小泉ぃっ!」
しばらくすると先輩が小泉を道場が震えるんじゃないかと思うような大声で呼んだ。道場の隅で打ち合いをしていた小泉はすぐさま先輩のほうをむいて、これまた大きな声ではいと返事をする。
「友達待たせてんだろ。今日はもう帰っていい」
「はいっ。ありがとうございますっ!」
小泉が深々と礼をする。そして先輩たちに頭を下げ、お先に失礼しますと挨拶をしながら僕の方へ歩みよってくる。
普段剣道部の練習は午後六時を過ぎてもやっているらしい。結構練習熱心な小泉もいつもはそれまで残って汗を流しているのだが、たまに僕を呼びつけてほかの部員たちよりも一足早く帰る。そうは言ってもこういうことをやってるのは小泉だけではない。ほかの部員たちもしょっちゅう使ってる手だ。彼はまだ少ないほうだろう。
防具を脱いですばやくそれを片付ける。久々の部活が楽しかったのだろう。ああ疲れたぁなどと小声で漏らしてはいるものの、その表情からは笑みが消えない。そういえば彼はテスト一週間前に入る直前の金曜日に部活中に手首を痛めていたのだが、どうやらそれはもう大丈夫らしい。一時は、やべぇ勉強できねぇよと嘆いていたが怪我をしなくても勉強はしなかっただろう。
片付け終わった彼は最後に道場に向かって礼をした。
「ありがとうございましたっ」
挨拶ができない若者などという言葉を幾度か聞いたことがあるが彼には関係ないだろう。
道場からでると彼はさっそくある物を見せてきた。そしてそれを見た僕はつい歓喜してしまう。彼が見せてきたのは先週の月曜日に発売したばかりのゲームソフトだ。僕も彼もこのゲームの前作が大好きでその話でよく盛り上がっていた。
「なんだよ、お前買ってたのかよ。この間まで金がないって騒いでたくせに」
「いや、親が買ってくれてさ。お前に自慢したくてウズウズしてたんだ。どうだ、今日は俺んちに寄って行かないか。盛り上がろうぜ」
僕は勿論だと興奮しながら何度も何度も頷いた。これは親に帰るのがそうとう遅くなるというメールを送らなければいけない。
スキップを踏みたい気分で小泉とそのゲームの話で盛り上がったり、お互いのテストの結果を教えあい落胆したりしながら彼の家に向かっているときに僕はふとあることを思い出した。
「そういえば小泉、最近剣道部で何かおかしいこと無かったか?」
突然の質問に彼は戸惑ったようだが、すぐに思い当たるものがあったらしく、あっあったと騒ぎ出した。
「竹刀が一本消えたんだよ。ちゃんと管理してたのに消えたもんだから顧問は盗まれたんじゃないかって言ってたけど……。なんだ、どうかしたか」
やはり。ジャージとお面は見つかったと言っていたが竹刀は聞いていなかった。どうやら犯人は剣道部から拝借した竹刀で犯行に及んだらしい。じゃあ、その竹刀は今どこにあるのだ。犯人が持っているのか、それともどこかに隠したのか。
どのみちこの情報は明日彩原や先輩に教えないといけない。
「何難しい顔してるんだよ。それより他にいいもんを仕入れたぜ」
「なんだよ、それ」
「決まってんじゃねぇか。あれだよ、あれ」
彼はそういうと実にいやらしい笑みを浮かべた。そういえばこの間、先輩から本をゆずってもらうと言っていた。日ごろ本など読まない彼が喜んで仕入れてこんな喜び方をする本は、世界広しといえどもあれ以外は思いつかない。
例の彼女の台詞が頭の隅をよぎった。まったく……とんだ推理力だ。明日から期待できる。
「どうしたんだよ」
「いや、なんでもない。程々にしとこうと思っただけさ」
ゆっくりときた動き出した方ですが、次回から捜査開始します。
ちなみに、物語自体は8話構成です。




