第一章「終末治療」
僕が最初に知ったのは、幸せから最も遠いものだった。
父は酒癖が悪く、いつも暴れていた。その暴力は物心着く前から振るわれてきて、痛みと言うものに鈍感にならざるを得なかった。
ごめんなさい。
なにもしてなくても、たとえ寝ていても殴られ、いつも僕はそう言っていた。母は見ないふり。
きっと僕は、恵まれない環境にいたのだろう。
それでも、僕は両親が好きだった。
昼は一緒に遊んでくれて、好きなところにつれていってくれた。
なにかがずれている。漠然と僕は幼少の頃より、現実と言うものに疑問を感じていた。
次に知ったのは、全てを失う喪失感だった。
両親が事故で死んだ。よく分からなかった。
あんなにもちぐはぐで、あんなにも自分だけを愛していた人たちも、他人に振り回されて死んだらしい。
ざまあみろ。そんなばかな。しなないで。
独りに、しないで。
さまざまな感情の波に溺れ、次に僕がはっきりと覚えているのは、小さな女の子が僕を見下ろしているところだった。
一緒に遊ぼう。
そうして、僕は外へと出た。一人きりの閉ざされた場所は無理矢理にめちゃくちゃに壊された。
自由。
この空は、僕のものだ。
この世界は、僕たちのものだ。
凄く楽しかった。彼女との日々は、傷つきすさんだ心に、少しばかりの癒しを与えてくれた。
そして、それもおわりを告げた。
義母の仕事の都合で、上京することになった。
彼女も泣いたし、僕も泣いた。現実は、やはり僕らを引き裂いた。
それから、幾年かが経ち、義母が死んだ。
──そして、今ここに僕はいる。
「わたしね、ずっと寂しかった。お社から出られなくて、誰も話をしてくれなかったから。でも、やっと君と一緒にいられる」
不思議だった。彼女はアラヒトガミで、村の誰もが崇めているモノで、こんな風に外で遊んでると僕は怒られるはずなのに。
「うん、僕も寂しかった。周りの全てが僕を拒絶しているようで、東京なんて、人が多いだけで便利でもないし、なにより、君がいない」
死ぬと分かっただけで、ここまで変わるのか。
手を繋げば爪をもがれ、口づけを交わせば唇の肉をもがれ、猟奇的で狂気的でふざけたやつらだったのに。
死ぬと分かっただけで、こうも興味を失うのか。
「おかしいでしょ。これがこの村の在り方。私も貴方も、ここからは逃げられなくなってしまった」
しきたり。掟。信仰。
全部全部、彼らの願望と我儘のカタマリ。
「ねーえ、私ね?子供作らなきゃなの。誰でもいいからって、村の男共に襲われかけたのよ?」
音が消えた。
「駄目!!」
ゴッ!
「かけただけ!私は無事!だから、そんな奴らの血で手を汚さないで!」
ガッ!
ああ、気持ちいい。あのときと同じだ。血の臭い。肉を潰す音。骨を折る衝撃。
ガッ!
ああ、これが俺だ。狂気と猟奇の集まった何か。
気持ちいい。
最高に、気持ちがいい。
それから、夜が明け、太陽が頭上を越えそうになった辺りで、僕は帰ってきた。
「ごめん。やっちゃった」
「もう!こんなに汚しちゃって、洗うの私なのよ?」
「うん、ほんとーにごめん」
昨日、あのあと川辺で僕は寝てしまったようで、泥にまみれて汚れてしまったようだ。
前もこんなことがあった、気がする。
けどよく分からない。
「もう、こんなんじゃもうここにいられないわ…」
あのあと、村人がみんな総出で山狩りに行ったらしい。
「でも、今なら逃げられるよね、海に行こうよ」
終末治療、彼女は死ぬための治療を受けるらしい。
意味が分からない。今生きている彼女は、死んでいない。なのに、死ぬために生きている。
よく分からない。けど、そうじゃない。
「最後なんだ。僕と、世界を見に行こうよ。まだきっと、知らないものも、知りたいものもあるから」
ドラゴンは、なんでお姫様を浚ったんだろう。
いつも不思議だった。お伽噺なのに、ドラゴンはいつも殺されて、お姫様は空っぽの笑みを浮かべて国に帰っていく。
僕だって、ドラゴンだ。暴力と狂気の体現。僕は、狂ってしまっているから。
ほんとは知ってる。村の人たちはもう何処にもいない。あの泥がなんで赤いのか、知ってる。
またやってしまった。
「私たちは、狂ってるの。世界は流れに逆らう異物を許さない。今の私たちなんか、すぐに潰されるわ」
彼女は僕の隣に座り込んでそう呟いた。その手は僕の太ももに置かれている。
「ねえ、さっきの話の続き。アラヒトガミは子孫を残さなくてはならない。私ね、貴方と子供作りたいの。ダメ?」
何かがおかしい。子供?死ぬのに?君は、死ぬのに?
「ねえ、君はいつ死ぬの?」
「分からない、けど、少なくとも一年は生きてられるって」
おかしい。僕が俺になると、いつも彼女は傷だらけだったのに。
「ねえ、君は僕が何をしたのか、知ってるよね?」
「何のこと?それより、ねえ、しよう?私たちの子供を、作りたいよね?」
可笑しい。これは違う。現実と違う。残酷で、非情で、願いは潰えて、望みも持てず、毎日が少しずつ心を削ってきたあの日々と、違う。
「ねえ、君の名前は、***?」
ソウヨ。チガウワ。
「ええ、そうよ?今さらなに?まだ具合わるいのかしら」
「君は、死ぬんだよね?」
エエ、ソウヨ。カナシイヨネ?クルシイヨネ?
「何を言ってるの?私が死ぬわけないじゃない。大丈夫?」
ドラゴンハ、ワタシヨ?
僕は、ドラゴンになりたかった。
これが、あのとき逃げ出した罪の罰だ。
現実は、僕を見放した。ここから、僕の狂気は始まった。
ここから、彼女の一人きりの戦いが始まった。
「ねえ、***?私は信じてるよ?貴方は強い。私をあのとき救ったように、今度はあなた自信を救ってみなさい。儚き人の子よ。朕はお主の行く先を見届け、星とならん。人の子よ。どうか、乗り越えて…」
償うのは、僕で、赦すのは、誰だ?