始まりに
じめじめと湿った空気にコケ類特有の匂いが鼻をつく。よく晴れた昼間であるはずなのに辺りは薄暗く幼い子がこれば泣き出してしまうであろう気味悪さもあった。鬱蒼と生い茂るひび割れた幹を持つ大きな木々。その先を見ようとすれば首が痛くなりそうだ。ほとんどの光は木々の葉の光合成に使われ、地にまで届くのはチラチラとほんの少しである。深い深い大きな森。その森の中心にはこの森の守り神である大きな大木がある。その大木の周りには半径20m以内に1本も木が生えていなかった。その代りやわらかな草花がサワサワと揺れている。
『今日も静かだな・・・・。温かい私の枝で体を休める鳥のさえずりも、目を凝らさねば見えぬ羽虫の羽音もサラサラとぶつかり合う草の音も、風が木々を撫でる音も・・・全てが心地良い。私は幸せ者だ。』
森の中で唯一地に光が多く降り注ぐ場所。温かい日差しを受けながら太くたくましい枝に一人の少年が腰かけていた。守り神、いや、この木々の別の姿だ。今にも消えてしまいそうな程白い肌は安っぽい着物から細くすらりと伸び、少し色素の薄い黒髪は地に付きそうな程長く、男にしては美しい顔立ちにやさしげに細められた漆黒の瞳。
『―――――っ!』
少しだけ眉をピクリと動かすと重力を無視した様にふわりと飛び降りた。根元に降り立つとぽっかり空いた祠を覗き込んだ。小学校低学年が入れるくらいの大きさだ。
そこには小さな子ウサギがいた。
「お家へお帰り。もうじきここにはお客さんが来るからね。」
そう言って手を差し出すとそっと走り寄ってきてスンスンと匂いを嗅いだ。
「・・・ありがとう。また来るね。」
言葉ではない思いが守り神に伝わるとジグザグとウサギらしい走りで去って行った。そんな姿を見ていれば自然と守り神の口元は緩む。薄く安っぽい着物の袖をまくるとしゃがみこんだ。普段高い所から世界を見ることが多いため地に近い景色を見るのはなんだか新鮮である。愛しそうに青草へと手を伸ばす。
『・・・さて、あの子はここにたどり着けるのだろうか・・』
捲り上げていた袖を下して立ち上がると大木へと溶け込んでいったのだった。