とあるメイドの日課
ここはとある貴族の屋敷。
静まり返った夜遅く、使用人達も寝静まる頃、ぱたんと扉が閉まる音がとある使用人部屋に響いた。
小さく息を吐き、きつく結んだお団子髪をほどきながら、一日の仕事を終えたロレーヌは自室に入るとまっすぐに自身の机に向かった。
作りつけの棚から迷うことなく一冊の柔らかな皮の装丁の本を手に取り、忙しなく机の上にそれを置くと同時に席に着き、慣れたしぐさでしおりを挟んでいたページを開くと片手に羽ペンを持つ。
書き出しはいつも同じだ。
『レイデンバッハへ。』
見開きのページにいくつも出てくるこの名前。ロレーヌは、深いため息を吐いて続きを書き始めた。
『私の愛しいレイデンバッハ。
あなたとこうして夜毎語り合えるのが、つまらない私にとって唯一の慰めであり、楽しみであり、幸福であると声を大にして言いたい。でも、それは私自身が許さないから、仕方のないことですね。
今日も、あなたにあの変態について聞いてもらいたいのです。あの外面だけは最高の自己中男はついに今日婚約者の毒牙にかかるところでした。
あの姫が5年も待ったことが私には奇跡としかいいようがないけれど、あの変態はそんなこともわからず晴天の霹靂とでも感じているのでしょう。あぁ、幼い頃より不本意ながら近くに居た私としては、その馬鹿さ加減に閉口するばかりです。
けれど、ついに姫が取り込んでくださるかと期待した今日の出来事も、心優しい旦那様のお心遣いで事なきを得ました。
旦那様はなんて優しい方なんでしょう。あの麗しいお姿に、春の日差しのような微笑は幼少の頃から私の心を掴んで離しません。ですが、奥様以外あの方のお隣に立てる方がいらっしゃらないのも事実。私は心から奥様を尊敬しております。そんな素晴らしいお二人にお仕え出来ることは、私の誇りです。
しかし、あの変態はどうにかならないのか。ことあるごとに人の容姿を辛く評価し、装え、女らしくしろなど、馬鹿なのでしょうか?おそらく真性の馬鹿なんでしょう。でなければ、齢5歳の頃から水に映る自身の姿にほれ込む男が居るわけがありません。とりあえず、私は旦那様と奥様に申し付けられた己の職務を全うするだけです。』
怒涛の勢いでここまで書ききったロレーヌは、ふうと大きく息を吐いて顔を上げた。
「あぁ、こうやって愚痴るしかないなんて……。やはり、私は私の幸せを見つけなければダメね。このままだと一生変態について終わりそうな気がする」
そういってぶるりと背を振るわせるロレーヌは、引き出しから一枚の紙片を取り出した。そこにはここ一週間の出入りの業者や、他の貴族の子弟たちの名が連なっている。
「全く、これだけの人が出入りしているというのに、なぜ既婚率がこれほどまでに高いのかしら。貴族に限ってはまだわかるけれど、領内の役人たちまで若い未婚者が少なくなっているっていうのはどうなの?」
そこに書かれる名前の横には細かな情報が書かれている。ある男性には華やかな女性遍歴及び現在通っている女性の名前。またある人物には女性に引かれる原因となる趣向や借金などが紙面が黒くなるまで記されており、空欄がある、または丸を描かれている人物が極端に少ない。
「はぁ……。最近になってようやく結婚願望を持つようになったのがいけないのかしら……。でも、それもこれも全てはあの変態から逃れ、全うで幸せな私個人の未来のため。ここは踏ん張らなければならないわ」
連なる名前を指でなぞり、ロレーヌは再び本に目を移す。
『レイデンバッハ。私は多くを求めてはいないわ。でも右を見ても左を見ても、左手の薬指にはまる指輪がちかちかと目障りでしょうがないの。あぁ、いつか私だけの王子様が現れてくれないかしら。お母様がお父様と出会ったように、誠実で御しやすくて、可愛い素敵な王子様が現れたら文句ないのに。
レイデンバッハ。あなたにいつか飛び上がるような幸せな報告をしたいわ。そのときには、きっと私はあの変態のことで愚痴ることもなく心穏やかに受け流すことができる立派な大人になっているでしょう。それまで、もうしばらくの間、私の傍にいてね。
愛をこめて。 ロレーヌ』
書き終えると、一日の疲れがどっと押し寄せたのかロレーヌは目頭をもんだ。ゆっくりとした動きで腰を上げると、湯浴みのためにまた部屋を出て行ったのであった。