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桂の木の下で

作者: なおくん

桂の木の下で


5月に現れる緑の海。


窓枠一杯に広がった新緑は、風が吹くと波の音のようにざわめいた。ゆらゆらと揺れる葉が波の様に輝いて見えるのは、葉の裏が白いせいだろう。子供の頃、私は風が薫る季節に、二階の窓から桂の木を眺めるのが好きだった。


桂は大樹である。時に一本で大景観となる。京都では葵祭の木として知られ、市の木の一つでもある。この京都に縁の深い木が、私の生家の前にもあった。


桂は公園の木である。しかし、生家と公園は道一本を隔てているだけであり、ほとんど庭にあると言っても良かった。


樹高は20mほどもあっただろうか、四方に枝を伸ばした姿は雄大だった。しかし、枝はどれも曲線的で、むしろ女性的な優美さを持っていた。冬枯れの頃、雪が積もるとその曲線美が際だち、そこに西日が差すと神々しくすら感じた。


春になると、もみじに少し遅れて芽吹き始め、5月には美しい新緑となる。二階の窓から見た景色が緑の海となるのはこの頃だ。


夏になると沢山の蝉が寄って来る。とりわけクマゼミが多く、夏の朝はうるさいほどの大合唱となる。午後になると主役はアブラゼミに代わり、気怠い鳴き声となって行く。夏休みの間、私は蝉の声で時間の経過を感じていた。


桂に秋が来るのは早い。大文字の送り火が過ぎ、8月も20日を過ぎる頃になると葉が黄色く染まりだす。地蔵盆の頃にはかさかさに乾いた葉が散り始め、夏休みが終わりに近づいた事を教えてくれた。


桂は不思議な木で、普段は何の香りもしないが、枯葉になると独特の甘い香りを出す。子供の頃の私は桂の落ち葉を踏みしめながら、夏休みが終わってしまうという淡い悲しみとともに、この香りを感じていた。そのせいもあってか、実はこの香りにあまり良い印象は無い。


この物語は、そんな桂の木の下であった、遠い日の記憶である。






昭和40年、4月。私は幼稚園の年中組に入園した。


私の通った幼稚園は、京都を囲む山の懐にあった。生家からは比較的近くにあり、バス通園ぎりぎりの距離だった。


バスは公園の中の道を通って来る。山の方から下って来たバスは神社に突きあたり、鳥居の前で私の家の方角に向きを変える。そして、私の家の手前で再び向きを変え、西にある大通りへと下っていく。


私は毎朝母に連れられて、桂の木を見上げながらバスが来るのを待った。


バスが止まると、勢いよく扉が開いて迎えの先生が顔を出す。「おはようございます。」という明るい声に迎えられて私はバスに乗り込む。幼稚園に近いぶん、私はいつも一番乗りだった。初めてこのバスに乗った時、どこでも好きなところに座って良いよと言われ、私は一番前の席に座ろうとした。しかし、運転手さんから、そこはだめ、動かれると気が散るし、前に何もないから危ないと言われ、仕方なく二番目の席にした。


以来、バスの左側、前から二つ目の席が私の指定席となった。二列目でも前に誰も座らないから見通しは良い。だから、バスの通り道はいつもよく見えた。


私を拾った後、バスは道を下って大通りへと出る。下りた先は神社の前で、楼門を左に見ながら神社を迂回し、境内の南沿いの坂道に入って上り始める。そして、大鳥居の前に来ると、今度は右折して南に続く参道に入る。そのまま暫く走ると、最初の待ち合わせの場所に着く。


待ち合わせ場所では、幾人かの園児とその母親達が待っていた。どの場所でも、母親同士は決まってにこやかに話をしている。バスはその母子の輪の前に停車し、勢いよく扉を開ける。そして、私の時と同じように先生が飛び出して、「おはようございます。」と明るい声で出迎える。すると幾人かの園児がバスに乗り込んできて、思い思いの場所に座る。母親達はにこやかに手を振って、我が子を見送る。これを何度も繰り返しながら、バスは南へ南へと進んでいく。


バスは京都の古くて狭い道と、新しくて広い大通りの間を縫うようにして走った。古い道の脇には瓦屋根と格子戸、それにばったり床机があり、大通りには商店やビルがあった。今なら町の風情の変化を楽しむところだが、幼稚園の年中組に過ぎない私にとっては、正直言って長くて退屈な道のりだった。


最後にたどり着くのは、尾根を走る坂道だった。その坂道の途中で一度谷底に向かって下る箇所があり、その時が一番嫌いだった。何だか奈落の底に連れて行かれる様であり、毎日通っていてもその感じは変わらなかった。

その谷底から這い上ってくると、やっと最後の待ち合わせ場所だった。その頃になるとバスの中は園児で一杯となっているのだが、一番前に居る私には判らない。幼稚園に着いて降りるときに、席がほとんど埋まっている事に気づくのである。


幼稚園への戻り道は早かった。裏道は一切通らずに大通りを一直線に北に向かい、大きな寺の門の前まで止まらずに走った。その門を潜って暫く走ると、ようやく園舎が見えてくる。


私の通う幼稚園は、その大きな寺の経営だった。上に中学、高校、そして短大まである女子学園であるが、幼稚園だけは男女共学だった。この幼稚園は短大生の幼児教育の場という意味もあった。


お寺の経営だけあって、教育には宗教色があった。まず、バスを降りると「のの様」という宗祖の子供の頃の像に手を合わさなければならない。のの様に、朝のあいさつとともに感謝の気持ちを捧げなさいと言われるのだが、幼稚園児の私にその意味は判らなかった。しかし、とにかく言われるままに手を合わせて、祈りを捧げるふりをしてから教室へと向かった。


園舎は木造だった。建物は大きく二棟に分かれており、立派な玄関があって、年中組と年長組がある母屋が北側、講堂と年少組のある小さめの別棟が南側だった。母屋と別棟は鍵型に並んでいて、渡り廊下で繋がっていた。


その鍵型の空いた部分が園庭である。それほど広くはなかったが、幼稚園らしく、ブランコや滑り台、それに登り棒などが置かれており、園児が遊ぶには十分な広さだった。


母屋と別棟の間の小さなスペースには砂場があった。この砂場はコンクリートで仕切られており、夏になると中の砂が掘り出されてプールになるという、不思議な場所だった。ブールとは言っても泳げるほどの広さは無く、ただ水に浸かっているだけというしろものだったが、ともかくもプールがあるというのが幼稚園の売りの一つだったらしい。


幼稚園の授業は、お遊戯、お絵かき、絵本、歌の時間など、普通の幼稚園と変わりは無かった。ただ、お寺の幼稚園らしく、宗祖様の生い立ちという紙芝居を見せられる事があった。のの様が幼い時から苦労を重ねてやがて偉いお坊様になるというストーリーだが、正直言って意味は判らず、ぼんやりと眺めていただけだった。


年に何度かお寺に連れて行かれる事もあった。大抵はお寺の行事がある時で、広い本堂に皆で座り、お坊様のお話や読経を聞かされるのだが、私にはきらびやかな仏様や豪華な装飾品が珍しく、それほど退屈な時間では無かった。


幼稚園での友達は、すぐに出来た。組内での班分けは背の順番で行われる事が多く、二番目に背の高かった私は、一番大きな酒田君と仲良しとなった。その酒田君の仲間に小野君や木戸君が居て、自然に一つのグループとなった。


ところが、このグループには困った事があった。お遊戯の時などは良いのだが、休み時間になると、とたんに動かなくなるのである。私が何かをして遊ぼうと誘っても、酒田君は疲れたと言って座り込んでしまう。すると、小野君や木戸君もまた、教室の隅へ行って座り、そのまま動かなくなってしまうのである。最初は私も付き合ったが、とてもではないが、休み時間中何もしなしいのは苦痛であった。


仕方なく、私は仲間を捨てて放浪の旅に出るようになった。仲間に入れてくれる様なグループを見つけるために、園庭を彷徨い歩くのである。最初は大変で、一人遊びを余儀なくされる事もあったけれど、次第にいくつかのグルーブに入れる様になって行った。


探すのは同じ年中組のグループである。まず、それを見極めるところから初めて、次に自分でも面白いと思える遊びをしている仲間でなければならなかった。最初に仲間に入れてくれたのは、隣の組の西山君だった。


彼らがしていたのは追い駆けっこだったのだが、西山君に近づき、思い切って「混ぜて」と言うと、すぐに「良いよ」という答えが返ってきた。うれしくなった私は、訳もわからずに一緒になってただ駆け回っていただけなのだが、ともかくも楽しい時間を過ごす事が出来た。


それ以来、休み時間になるとまず西山君の姿を探すのが私の日課となった。ところが、別の組だったからだろう、そういつも見つかるものでは無かった。そうなると、また違うグループを見つけなければならない。私は園庭をあきらめて講堂に行ってみる事にした。


そこには、やはり別の組の田口君だちのグループが居て、ハンカチを三角に折ったピストルを持って戦争ごっこをしていた。私もすぐにハンカチを取り出して三角に折り、ピアノの下に潜り込んでいる田口君の横に滑り込んで、「混ぜて」と言うなり、ピストルを撃つまねを始めた。初めはきょとんとしていた田口君だが、すぐに遊びに戻って私を受け入れてくれた。


西山君も田口君も見つからない時は、さらに他のグループに入れて貰った。最初に「混ぜて」と言うときには少し勇気が要るが、言ってしまえば大抵は仲間になる事が出来た。こうして、私の休み時間は、仲間を捜して歩くことから始まった。今日は楽しく過ごせるだろうかというのが毎日の不安であり、楽しみでもあった。


本当に誰も見つからない時は、女の子のグループに入れて貰った事もある。たとえば、女の子同士でかくれんぼをしているグループに近づいて、やはり「混ぜて」の一言で仲間に入れて貰うのだが、男の子相手とは勝手が違いすぎ、心底楽しめるという訳にはいかなかった。


ある時は、ままごとの仲間に入れて貰った事もある。言われるままに雑草を摘んできたり、その草を野菜代わりに刻むまねなどをしていたのだが、女の子達は次第に自分の世界にはまり込み、ほとんど一人遊びの状態になってしまったので、手持ちぶさたになった私は自分の方から離れてしまった。


どうしても一人遊びをしなければならない時は、砂場に行くことにしていた。ここは主として年少組の遊び場であり、面倒を見る先生が何人か付いていた。また、中には短大の実習生が居て、私たちと遊んでくれたのである。彼女達にすれば、年中組は年少組のついでではあるけれど、私にとっては実習生と居るのは楽しい時間だった。


ただ、その砂場には時として恐るべき相手が居た。吉田さんという同じ組の女の子で、何かにつけて私の面倒を見たがるのである。ズボンに砂が付いていると言っては払い、ハンカチがはみ出ていると言ってはポケットに入れてくれ、ボタンが外れていると言っては止めてくれるといった具合だった。嫌いではなかったけれど、あまりに付きまとわれるので正直面倒な相手だった。


ある時、この吉田さんが、「大きくなったらお嫁さんになってあげる。」と言い出した事がある。それは、講堂に行こうとして砂場を通りかかった際に、吉田さんに捕まった時であった。仕方なく並んで座りながらおしゃべりをしていると、突然吉田さんがお嫁さん宣言をしてしまったのである。当然、周囲には先生達が居て聞き耳を立てている。


私にすれば冗談ではなかった。好きでも何でもなく、今も呼び止められたから一緒に座っているだけけなのにと思ったのだが、断然断るのも彼女を傷つけてしまいそうで言えなかった。一生懸命に考えて答えをひねり出し、そういう事は大人になってからゆっくり考えようと言うと、彼女もまた、それもそやねと言ってその場は納得してくれた。


収まらないのは周囲に居た先生達で、その場はさすがに笑いをこらえて居たが、職員室に帰ってから大爆笑になったそうである。この話は先生達の間で持ちきりになっただけでなく、私の母親にまで伝えられる事となった。そして卒園までの間、何かにつけては持ち出されるので、私の頭痛の種となったのであった。


女の子で仲の良かった子と言えば、大仏さんが居る。本名は谷口さんという同じ組の子で、眉間にほくろがある事から、私は彼女の事を大仏さんと呼んでいた。合の休み時間や給食の時間に一緒になる事があり、そういう時は大仏さんとからかいながら、おしゃべりをするのが楽しい相手だった。


私の年中組の時間は、小さな事件を挟みながらも、こうして穏やかに、楽しく過ぎていった。


一年が経ち、年長組になると小さな変化があった。


年長組になって最初の日も、相変わらず送迎バスは一番乗りだった。いつもの様に指定席に座ると、いつものようにバスは走り出す。大通りから左折して神社を南側に迂回すると、やがて大鳥居が見えてくる。先月までは右折して素通りするだけの場所だったのだが、この日は違っていた。道の角に見慣れない女の子と母親が立っていたのである。


「今日からやね。」


と先生が運転手さんに言うと運転手さんはうなずき、バスを女の子たちの前に止めた。先生と母親の間で、


「おはようございます。」


「よろしくお願いします。」


というあいさつが交わされた後、女の子がバスに乗ってきた。


「どこに座っても良いよ。」


と、私の時と同じように先生が言うと、彼女は私の前の席に座ろうとした。


「その席は、」


と先生が言いかけたのだが、


「今日からは満席になるから良いよ。」


と運転手さんが遮った。3月まではわずかに余裕のあった送迎バスも、この4月からは満席になったのである。そして、そのままバスは走り出した。


これまで遮るものが無かった私の視界の中に、彼女の後ろ姿が入ってきた。とても小柄な子ではあるが、たぶん同い年だろうと感じた。彼女の髪は、肩のあたりできれいに揃えられていた。とても細い髪で、きめ細やかに見えた。時にバスが東に向かうと、朝日が正面から差し込んでくる。その光が彼女の髪を透かせて黄金色に染めた。シルエットになった細いうなじと黄金色の髪と、私は何か不思議なものを見ている気がした。


幼稚園に着くと、うれしい驚きが待っていた。あの西山君が同じ組になっていたのである。これでもう休み時間に仲間を捜して歩かなくて済むと思うと、それだけで嬉しかった。


女の子では、吉田さんは隣の組となったが、大仏の谷口さんはまた同じ組だった。彼女は私を見ると近づいてきて、良かったねと言ってくれた。私もまた、からかい相手が居てくれる事は嬉しかった。


そして、もう一つの驚きがあった。今朝私の前に座った女の子が、同じクラスに居たのである。最初の時間に、先生が彼女を転入生として紹介した。私は彼女が鎌倉から引っ越してきたのだと知った。


鎌倉という町には、大仏があると聞いていた。また、東にあるという事もおぼろげながら知っていた。鎌倉についての知識はそれくらいでしかなかったのだが、彼女の言葉はとても新鮮に響いた。まったりした京言葉の中で育った私にとって、歯切れの良い彼女の関東弁は別の世界の言葉の様に感じられたのである。


彼女の名前は、正直言って覚えていない。それどころか、顔の記憶も無い。それはある時期、懸命に忘れようとしたからであるが、完全に記憶を消し去る事は出来なかった。そして、年とともによみがえり、今では彼女の言葉や声までも思い出す事が出来るのだが、どうしても顔と名前は出てこない。やむなく、ここでは亜紀ちゃんという名にしておく。


亜紀ちゃんは風変わりな女の子であった。それとなく様子を見ていたのだが、他の女の子たちと話をしようとせず、いつも一人で過ごしている様だった。その姿は寂しそうでもあり、平気な様にも見えた。暫くたった頃、私はお節介にも彼女に近づき話しかけてみた。


「ねえ、何で一人で居るん?遊ぼうと言ったら、みんな一緒に遊んでくれるよ。」


亜紀ちゃんの答えは、しかし、とても意外なものだった。


「放っておいてくれる?私はこの人たちとは遊びたくないの。」


思いのほか強い調子の彼女の言葉に私はたじろいだ。可憐な女の子に見えたのに、こんなに気の強い女の子だったのか。しかし、たじろぎながらも私は言葉を続けた。


「寂しくないん?」


「私は一人が良いの。」


ここまで強い拒絶に会ったのは初めてだった。どうしよう、もうこの子に話しかけるのはやめて離れようかと思っている私に意外な言葉が待っていた。


「それとも、あなたが私と遊んでくれる?でも、他の女の子と遊んじゃだめ。口も利いちゃだめ。その代わり、私もあなたとだけ遊ぶ。それでどう?」


思わぬ提案に、谷口さんや吉田さんの顔がよぎった。この子はいったい何を言い出すのだろう。他の女の子と口を利くなとはどういう事? 訳のわからぬ事を言うこの子と関わるのは止めた方が良い?様々な思いが忙しく私の頭の中を巡った。


しかし、亜紀ちゃんへの好奇心が捨てられないた私は、少しずるい考えを持った。いつも彼女が見張っている訳でもあるまいし、他の女の子とは彼女が居ないところで話しをすれば良いじゃないか。ここは彼女の言う事を聞くふりをしておけば仲良くなれるチャンスだ。


一瞬の間に考えをまとめた私は、


「ええよ。」


と亜紀ちゃんに答えた。そう言いながら、谷口さんたちに後ろめたい思いがよぎった。


「わかったわ。じゃあ、私の家に遊びに来て。でも遊ぶのは家でだけ。幼稚園では話しかけないで。」


何から何まで変わった提案に私はとまどうばかりであった。


「家って、どこにあるん?」


「私のバスの乗り場は知っているでしょう?鳥居の前から、下に数えて3軒目が私の家よ。」


「今日、行ってええの。」


「幼稚園から帰ったらすぐに来てちょうだい。もう話しかけちゃだめよ。」


そう言い終わると亜紀ちゃんは背を向けて向こうに行ってしまった。


家に帰ると、私は母に新しい友達の家に行って来ると告げた。母は珍しい事もあるもんだと言ったが、特に咎める事もせず、ただ行き先だけを聞いた。私が神社の向こうの家と答えると、そう遠くない場所と安心したのか、気をつけて行くんやでと送り出してくれた。私は幼稚園の制服のまま家を出た。


大鳥居に行くには神社を横切らなくてはならなかった。家から見える北の鳥居をくぐり、短い階段を下りるとすぐ左手に本殿が見える。その本殿の塀に沿って真っ直ぐ進むと、やがて階段の上に南の楼門が見えてくる。大鳥居はその楼門を潜った先にあった。


いつもバスで通る坂道を歩いて下る。坂の一番上は大きな料亭である。その長い壁がつきるところに、出格子の付いた二階家があった。その隣は、白い塀で囲まれた料亭風の建物だった。その隣も同じような造りで、その家の玄関には暖簾が掛かっていた。こっちが亜紀ちゃんの家だろうと見当を付けて、暖簾の無い方の家にあった小さな階段を上がり格子戸を開けた。


格子戸の向こうにもまた階段があり、その先には庭が広がっていた。庭には植え込みがあり、灯籠があった。その庭を取り囲む様に洒落た建物がコの字型に建っていた。庭に面しては大きな窓になっていたが、どこも雨戸が閉まっていたのでどこか暗い印象がした。


一見して入り口が判らなかったが、左手に小さな格子戸があったので、そこを開けてみた。中は玄関になっていて、その奥がこぢんまりとした和室になっていた。そこには誰も居なかったが、右手に襖がありその奥から何人かの子供の声が聞こえてきた。気がつくと、足下の靴脱ぎに小さな靴がいくつも散らばっている。あれっ、と思いながら亜紀ちゃんの名を呼ぶと、少しの間を置いて、襖の向こうから彼女が現れた。


「いらっしゃい。こっちへ入って。」


亜紀ちゃんに招かれるままに玄関を上がり、襖の入り口を入った。すると、次の部屋で何人もの男の子が思い思いに遊んでいた。どの子も幼稚園で見た顔である。ただ、仲の良い子は一人も居なかった。彼女はそのまま部屋を横切り、向こうの襖を開けて


「こっちへ来て。」


と私を呼んだ。その部屋に入ったのは私一人だった。私は思わず亜紀ちゃんに言った。


「二人で遊ぼうという事やなかったん?何であんな子たちが居るん?」


それには答えず、


「ちょっと待って。」


と亜紀ちゃんは襖を閉めて、隣の部屋に戻って行った。そして、男の子たちに向かって、


「さあ、あの人が来たから帰って。」


と言って追い出しに掛かった。男の子たちはぐすぐすしている様子だったが、


「約束でしょう。早く帰って。」


と亜紀ちゃんが強い調子で言うと、仕方なしといった感じで帰っていった様だった。


「さあ、何して遊ぶ?」


部屋に戻ってきた亜紀ちゃんは、事も無げに言った。私はちょっとたじろぐ思いがした。亜紀ちゃんに興味を持った子は、私一人ではなかった様だ。その中から亜紀ちゃんは私を選んだらしい。それは意外でもありうれしくもあったが、あんな強い調子で物を言えるなんて信じられなかったのである。


「帰してしまって良いの?」


と私は亜紀ちゃんに聞いてみた。


「知らないわ。駄目と言っているのに、どうしても言うから来てもらっただけ。でも、あなたが来るまでよと言ってあったから大丈夫。」


まだ驚いている私の後ろに、亜紀ちゃんのお母さんが現れた。


「あなたが言っていたのはこの子?」


「そう。」


「判ったわ。でも、もうあんなに沢山呼んじゃ駄目よ。」


「判ってる。もう来ないように言っておいたから。」


「じゃあ、仲良くしてあげてね。」


お母さんは最後に私にそう言うと、また奥の部屋に戻って行った。


事情が良く飲み込めないまま、私たちは家の探検から始める事にした。家がコの字型になっているのは外から見たとおりである。後から考えれば、料亭用に造られた貸家だったのだろうけど、当時の私にはとにかく変わった家に思えた。


玄関にあった部屋は、部屋の準備が出来るまで待つための待合だったのだろうか。その隣に子供たちが遊んでいた部屋と私が通された部屋があり、その奥さらにお母さんの部屋があるらしかった。これが北側の棟の間取りである。


南側の棟は客室だったのだろう。長い廊下に面して畳の間が三部屋ばかりあり、廊下とは襖で仕切られていた。どの部屋もがらんとして中には何も置かれてはいなかった。そして、外から見たとおり、大きなガラス戸が庭に面して嵌められていたが、どこも雨戸が閉めてあるので中は薄暗かった。


どこにも明かりが無い中で、コの字の縦線にあたる部分に坪庭があり、唯一の明かり取りになっていた。このため、坪庭の周辺だけが薄明るく、その明かりが南の棟の中をわずかに照らしているのだった。


坪庭の横には階段があり、二階に上る事が出来た。二階も客室用の造りになっており、似たような部屋がいくつかあった。薄暗さは南の棟以上であり、その薄気味悪さが子供心にはおもしろく感じられた。


その後、何度かこの家に行ったが、その都度二階に上がりかけてはわざと怖がるという遊びをした。亜紀ちゃんも自分の家なのに、一緒になって怖がってくれた。


階段の下は物入れになっており、開けようとしたらお母さんに怒られると言って亜紀ちゃんに止められた。ここも秘密の部屋として、二人の遊び場となった。


亜紀ちゃんに父親は居なかったらしい。一度も父親の話は出たことが無く、家にも父親がいるらしい気配は無かった。はっきりと聞いた訳では無いけれども、たぶん母子家庭だったのだろうと思う。


お母さんは、いつも家に居たらしい。と言うのは、私が行ってもほとんど姿を見せなかったのだ。見かけたのは最初の日と最後の日、そしてもう一度は何時だったか、部屋に掃除機を掛けている姿だった。当時、掃除機はまだ珍しく、私の家にも無かった。これを見たとき、亜紀ちゃんの家はきっとお金持ちなんだなと思った記憶がある。ただ、姿は見えないけれども、いつも奥の部屋に居る気配は感じられた。


親がその場に居ないのを良いことに、良く磨かれた廊下をスケート場よろしく、靴下をはいて滑るという遊びもした。これをすると、足の裏が妙にくすぐったくて、気持ちが良かったのである。


今思えば、亜紀ちゃんは女の子らしい遊びをしようとは一度も誘わなかった。大抵は私が遊びを提案すると、すぐにそれに乗ってくれた。男勝りなところがあったのだろう、女の子ではなく、男の私を遊び相手に選んだ訳はここにもあったと思う。


反対に、亜紀ちゃんが私の家に来た事も一度だけある。幼稚園で亜紀ちゃんにそっと近づき、今日遊びに来ないと誘うと二つ返事で乗ってくれた。亜紀ちゃんは私の家を知らないので、とにかく神社を真っ直ぐに抜けて来る様に言い、私は家の外に出て待っている事にした。


私は嬉しくて家に帰るなり母親に今日彼女が遊びに来る事を告げ、すぐに表に飛び出して亜紀ちゃんを待った。そんなにすぐ来るわけがないと親に笑われたが、亜紀ちゃんが迷うといけないと思ったのである。


どれほど待っただろう、鳥居の所に彼女の小さな姿が見えた時は嬉しかった。私は手を振って亜紀ちゃんに合図した。すると亜紀ちゃんもすぐに気がついて、道の向こうから駆けて来た。勢いよく走ってきた亜紀ちゃんは、私の前であわてて止まった。亜紀ちゃんもまた、いつかの私のように制服のままだった。


「いらっしゃい。中に入って。」


いつもは遊びに行くばかりなので、私はうきうきしていた。ところが、亜紀ちゃんはいつもとは違う余所行きの顔をしていた。初めて来る家で緊張しているのだろうかと思ったけれども、何となく勝手が違って私はとまどった。


亜紀ちゃんは私と違って、私の母にきちんとあいさつをした。偉いね、あいさつが出来てと褒めた母は、亜紀ちゃんが気に入った様子だった。私は亜紀ちゃんがそうしてくれたように家の中を案内する事にした。でも、いつまで経っても余所行きの顔は変わらず、何だか調子が出なくて困った。


あまりに亜紀ちゃんが乗って来ないので、何をして良いのやらと迷ったあげく、その頃流行っていたシールを貼らないかと誘ってみた。これには亜紀ちゃんも反応を示し、どうやれば良いのと聞いてきた。


このシールはガムのおまけに付いていたもので、包み紙がシールになっていた。このシールを貼るのには、ちっょとしたコツがあった。紙が二重になっていて上のシールだけを一度はがし、表面を確かめてから貼らないと裏返しになってしまうのである。私はそれまでに何度も失敗し、先日やっと出来る様になったばかりであった。ところが、亜紀ちゃんに説明しながら貼っていると、見事に裏返しになってしまった。表と裏を間違えてしまったのである。ちょっと情けなくて泣きたいような気持ちになっていると、すぐ上の兄が現れた。そして、彼女のシールを手に取ると上手に剥がし、表を確かめてからこうしてご覧と言って亜紀ちゃんに手渡した。


「出来た。」


と喜ぶ亜紀ちゃんを見て、兄に良いところを持って行かれた私は、何だか複雑な気分だった。


もっと遊んでいけばと誘う私に、もう帰らなきゃと言って亜紀ちゃんは帰っていった。帰り際、


「また来る?」


と聞いた私に、うんと答えた亜紀ちゃんは、いつもの亜紀ちゃんに戻っていた。


次の日、私はまた亜紀ちゃんを家に誘ってみた。ところがなぜか彼女は元気が無かった。どうしたのと聞くと、お母さんに叱られたのだと言う。亜紀ちゃんはどういう訳か、私の家に来るのを止められていたのだった。昨日も話せばきっと駄目だと言われると思い、黙って出て来たと言うのである。それがばれて、彼女は二度と遊びに行ってはいけないと釘を刺されたのだった。


昨日亜紀ちゃんの様子が変だったのは、親に内緒で来ていたからだった。でも、なぜ駄目なんだろうと聞く私に訳は話さず、遊びに来てもらうだけにしなさいと母に言われたとだけ言った。


やがて幼稚園は夏休みとなり、亜紀ちゃんと会う機会は無くなった。家が近いのだから遊びに行けば良さそうなものだが、断りもなしに行くのは、はばかられたのである。私は少し寂しい思いをしながら、夏が過ぎるのを待った。


桂の木に秋が来て、やがて夏休みも終わった。幼稚園が始まると、亜紀ちゃんとは元通り仲良く遊んだ。おもしろい事に、亜紀ちゃんの言葉はいつしかすっかり京言葉に染まり、あの歯切れの良い関東弁は姿を消していた。


ところが、日が経つにつれて遊びに来てはいけないと言われる事が多くなり、2回に1回は駄目になり、やがてが3回に2回になった。私はその理由が判らず、亜紀ちゃんに嫌われ始めたのかと気を揉んだ。


事態が急展開を見せたのは、秋も深まりを見せて来た頃である。その日も亜紀ちゃんは遊ぶのを渋っていたが、やっと来ても良いと言ってくれたのだった。黄色く染まった桂の葉は大半が散り、桜の葉も赤く染まって舞っていた。そんな落ち葉を踏みしめながら、私は亜紀ちゃんの家に向かった。


いつもの様に階段を上がって格子戸を開け、玄関の扉を開いた。すると、座敷には掘りごたつがしつらえられていた。私は少し早い冬を感じた。そして、そこには見知らぬおばあさんが座っていた。私はちょっととまどった。正直言って、良い印象のおばあさんではなかった。私の周りにいるお年寄りとはどこか違う感じがしたのだ。あえて言うなら、油断がならない、そんな感じだった。


誰やろ、もしかしたら亜紀ちゃんのおばあさんかな、そやったら黙って奥に行くのは悪いかな。


そんな事を考えて立ちつくしていた私に、おばあさんは、


「あの子に会いに来たんか。」


とにこやかに声を掛けてきた。私は「うん。」と答えたが、その笑顔がかえってなじめないものを感じた。


「まあ、こっちに上がり。あの子は今奥に行ってる。じきに戻って来るよって。」


私はいよいよ亜紀ちゃんのおばあさんに違いないと思った。いつもなら亜紀ちゃんを呼んでさっさと奥に入ってしまうのだが、それではおばあさんに悪いと思い、座敷に上がって掘りごたつに入った。


「どうや、お菓子でも食べへんか。」


そういって、おばあさんは信玄袋から駄菓子を出してくれた。


「ありがとう。」


と言って受け取った私だが、何を話せばよいのだろうとそればかりを考えていた。そんな私を見て、


「おとなしい子やな。あの子の友達か。」


とおばあさんは話しかけてくる。うん、と私が答えようとした時、突然奥の部屋との間の襖が開いた。そこには幼稚園の制服を着た亜紀ちゃんが立っていた。そして、大声で叫び始めた。


「何してんの。帰ってて言うたやろ!」


ものすごい剣幕だった。亜紀ちゃんの気が強い事は十分承知していたが、こんな勢いでまくし立てるのは初めて見た。亜紀ちゃんは誰に言っているのか。まさか自分のおばあさんにあんなきつい言い方はしないだろう。だとすると私言っているのか。今日は本当は来て欲しくなかったのか。良いと言ったと思ったのは聞き間違い?私が無理に押しかけたのを怒っているのか。とまどう私の横から、意外にもおばあさんがしゃべり出した。


「お母さんを呼んでて言うたやろ。奥に居るのは判ってるんや。はよ呼んで来て!」


「お母さんはいいひん!さっき言うだやろ!」


「あんた嘘ついたらあかんえ!」


「嘘なんかついてない!はよ帰り!」


「嘘つきはあんたのお母さんえ!上手いこと言うて、ちょっとも約束どおりしてくれへん!あんたのお母さんは、ほんまにひどい人え!」


「お母さんは、そんな人とちゃう!嘘つきはあんたや!ええから、はよ帰って!」


幼稚園児にまくし立てられて、おばあさんも面食らったのだろう。顔を真っ赤にして肩を震わしていたが、幼児相手にこれ以上喧嘩も出来ないと思ったのか、


「ええか、お母さんにまた来ると言うといてや!」


と捨て台詞を残し、信玄袋を手に帰って行った。


二人のやりとりを呆然と聞いていた私は、このままここに居ても良いのかと思った。何とも居心地が悪かったのだ。そんな私を見て亜紀ちゃんは、まだ興奮がさめやらぬ様子で、


「何でこんなとこに居てるの!はよ奥に入って!」


と、いつに無い強い調子でまくしたてた。私もおばあさんのとばっちりを受けた格好だ。どうしたのかと声を掛けようと思いつつ、堀ごたつから出て隣の部屋へと入った。するとまた驚く事が待っていた。亜紀ちゃんのお母さんがそこに居たのである。


「あの人帰った?」


お母さんは、そっと小上がりの方をのぞき込む様にして、小声で亜紀ちゃんに聞いた。


「帰ったわ!あの人、ほんまに好かん!」


「困った人やわ。」


そう言ったお母さんの顔は、本当に困ったというより、どこかずるそうに見えた。それっきりお母さんは奥の部屋に引っ込み、姿を見せなくなった。


私はやっと亜紀ちゃんに、


「おばあさんに、あんな事言うてもええの?」


と聞く事が出来た。


「あんな人、おばあさんちゃうわ。」


「え、自分のおばあさんやないの?」


「違うて言うてるやろ。全然知らん人や。」


まだぷりぷりと怒りながら、亜紀ちゃんはつっけんどんに答えた。


私は何が何だか判らないまま、亜紀ちゃんの機嫌が直るのを待つしかなかった。亜紀ちゃんがやっと落ち着いたのは、二階への階段を半ば上がり掛けた時だった。


「せっかく来たんやし、ゆっくり遊ぼ。」


亜紀ちゃんにはそう言われたが、私はとてもそんな気分ではなかった。と言って帰る気にもなれず、いつものように二階をのぞいたり、廊下を滑ったり、秘密の扉をそっと開けかけたりして遊んだ。亜紀ちゃんの機嫌はすっかり直ったが、おばあさんの事は二度と口にしなかった。そして、私たちはいつもの様に別れた。


次の日、バスの乗り場には、亜紀ちゃん一人が居た。先生が、


「今日は一人?」


と聞くと、


「はい。」


と小声で答えて彼女はバスに乗ってきた。私の方をちらりとも見ないのはいつもの事なのだが、黙って前に座った亜紀ちゃんの後ろ姿を見ながら、何かあったのだろうかと私は気を揉んでいた。


幼稚園に着き、バスを降りた時に私は亜紀ちゃんに話しかけた。


「どないしたん?」


すると私は、意外な言葉を浴びせかけられた。


「もう私に話しかけんといて。それから、家に遊びに来てもあかんし。」


突然の絶交宣言だった。なぜと問う間もなく、亜紀ちゃんは背を向けて教室に入って行った。何か気に入らない事でも言っただろうかとあれこれ思いをめぐらしたが、見当は付かなかった。やっぱり、昨日遊びに行ったのが良くなかったのか。でも、昨日は仲良く遊んで帰ったはずなのに。


訳の判らぬ私は、中休みに亜紀ちゃんに近づき、訳を聞こうとした。でも亜紀ちゃんは、


「話かけんといて。」


と冷たく言い放ち、私から離れていった。なぜか突然、私は彼女から嫌われてしまっていたのだった。


元々亜紀ちゃんとは幼稚園では話さない様にしていたので、絶交されても遊び相手には困らなかった。西山君も同じ組に居たし、他にも仲間は何人も居た。彼らといつもの様に遊びながらも、私は亜紀ちゃんの事を忘れる事が出来なかった。亜紀ちゃんの方をそれとなく見ていると、いつものように他の女の子とは遊ばず、一人で絵本を見たりお絵かきをしていて、特に変わりは無いようだった。そんな亜紀ちゃんを見ながら、私は心のどこかに穴が開いたような寂しさを覚えていた。


それから数日後、さらなる変化が待っていた。亜紀ちゃんが登園して来なくなったのである。いつもの様にバスが大鳥居の前を回っても、いつもの待ち合わせ場所に亜紀ちゃんの姿は無かった。


「あれ。今日はお休みかな。連絡はありました?」


「いや、何も聞いてないけど。」


先生と運転手さんは短いやりとりをした後、


「仕方がないわね。」


と言ってそのまま通り過ぎた。次の日も同じだった。次の日も。また、その次の日も。そのうちに、先生も運転手さんも何も言わずに、ちょっと徐行するだけで亜紀ちゃんの待ち合わせ場所を素通りする様になった。冬休みが来ても、とうとう亜紀ちゃんは姿を見せなかった。


やがて年が改まり、幼稚園も最後のシーズンを迎えた。正月を過ぎても亜紀ちゃんの姿は待ち合わせ場所に現れなかった。


その頃になると、年長組の話題は、次に上がる小学校の事で持ちきりとなった。みんな新しい世界に入ることに、期待と不安を抱いていたのである。そんな中、私は大きな問題を抱えていた。なんと私の行く小学校には、幼稚園の仲間が一人も行かない事が判ったのである。


正確には何人か一緒に行く子達は居た。でも、どの顔も普段遊んだ事がない子たちばかりで、西山君を初めとする私の仲間はことごとく違う学校だった。幼稚園では大勢の友達に囲まれていた私が、小学校に上がったとたんに一人ぼっちになってしまうのである。


これはとんでもない話だった。女の子ではただ一人、谷口さんだけが一緒だった。亜紀ちゃんが居なくなった後、私は谷口さんとまた話す様になっていた。彼女は同じ学校で良かったねと言ってくれたが、彼女一人では心許なかった。どうにかしなければと思った私は、同じ学校に行く子たちの中で仲良く出来そうな子を探した。やっと一人、二人と見つけたが、やはりいつもの仲間とは勝手が違った。


そんな中、私はふと亜紀ちゃんの事を思った。そうだ、彼女が居る。あの子は間違いなく同じ小学校だった。でも、亜紀ちゃんには絶交されたままだった。そして何より、何があったのか今は幼稚園にも来ていない。


幼い私には、何もかもが荷が重すぎた。あれほど楽しかった幼稚園が、急に気重になって来た。このまま小学校に持ち上がればよいのに。どうにもならぬ事とは知りつつ、そんな事を思ったりしていた。


そして、一月も過ぎようとしていたある日、再び変化が訪れた。亜紀ちゃんが登園して来たのである。


その日、バスが大鳥居の前を曲がった時、どうせ今日も素通りかと思われたその場所に、亜紀ちゃんの小柄な姿が見えた。


「あれ?」


という声とともに、先生が運転手さんに止まるように声を掛けた。


「どうしてたの?お母さんは?」


心配そうに聞く先生には答えず、亜紀ちゃんは


「おはようございます。」


とだけ言って、さっさと私の前の席に座った。私の方をちらりとも見ないのは以前のままだった。


何があったのかは判らないけれど、久しぶりに亜紀ちゃんの姿を見た私は嬉しかった。私はバスに乗っている間、亜紀ちゃんの黄金色に透ける髪を飽かずに眺めていた。でも、亜紀ちゃんに話しかける事は出来なかった。亜紀ちゃんは以前にも増して冷たく装い、私を近づけようとはしなかったのである。


久しぶりに登園した亜紀ちゃんには、少しだけ変化が見えた。絶対に遊ばないはずの女の子達と、話をし出したのである。ずっと肩肘を張って女の子を近づけなかった彼女が、他の子と本をのぞき込んだりお絵かきをしている姿は、ごく普通のおとなしい女の子に見えた。


二月に入ると、卒園式の稽古が始まった。卒園式で歌う歌を習ったり、卒園証書を受け取る練習をするのが日課となった。私は卒園と同時に襲って来る孤独を思いながら、卒園の歌を歌っていた。


そうしている内に二月はあっという間に過ぎ、三月に入った。もう後少しで卒園式となったある日、先生がみんなを集め、次に上がる小学校の名を言う様に言った。それぞれの進路先を確かめ合い、小学校に上がっても仲良くしようという趣旨だった。


仲間たちが次々に小学校の名を言っていく中、私は言いようのない寂しさを感じていた。私も彼らと同じ学校なら良かったのに。けれども、自分の順番が来たとき、私はやっと覚悟を決めることが出来た。○○小学校です、と少数派の名を言った時、仕方がないとあきらめる事が出来たのである。


自分の事はとりあえずけりを付けたが、気になるのは亜紀ちゃんだった。亜紀ちゃんとはずっと口を利いていなかったが、きっと私と同じ小学校の名を言うはずだった。ところが、亜紀ちゃんの番が回ってきた時、立ち上がった彼女はじっと俯いたまま、何も言わないのだった。


教室に、異様な沈黙が流れた。亜紀ちゃんは懸命に何かをこらえるように、ずっと下を見ていた。私は彼女が○○小学校の名を知らないのだろうと思った。彼女は一年前に鎌倉から来たばかりであり、きっと地元の小学校の名前は覚えていないに違いない。


私はよっぽど亜紀ちゃんに耳打ちしとてあげようかと、やきもきしなが彼女を見つめていた。ところが、沈黙を破ったのは先生だった。先生の声はいつになく尖っていた。


「なんであなたは黙っているの。あなたの家はどうなっているの。お母さんは何も返事をくれないけど、授業料も溜まっているのよ。」


私は、先生は何を言い出すのだろうと思った。普段はとても優しい先生で、およそ園児を叱ったりする人ではなかった。なのに、今の言葉は明らかに亜紀ちゃんに厳しく当たっている。


「お母さんは悪くありません!」


亜紀ちゃんは突然叫んだ。いつかの日、あのおばあさんに向かって言ったのと同じ調子だった。先生も驚いた様子だったが、さすがに落ち着いた調子で、


「このままだと、あなたは卒園出来ません。先生からも言うけど、あなたからもお母さんに伝えるのよ。判った?」


先生にそう言われると、亜紀ちゃんは小声で、


「はい。」


と答えてやっと座った。


休み時間、私はどうしても放っておけず、亜紀ちゃんに近づいてそっと囁いた。


「なんで○○小学校て言わへんの?知らんかったん?」


ところが亜紀ちゃんの返事はきついものだった。


「○○小学校なんて行かへんわ。もう、話かけんといてて言うてるやろ!」


取り付く島も無いというのはこういう事を言うのかと思いつつ、じゃあ亜紀ちゃんはどこに行くと言うのだろうと考えた。でも、いくら考えても、幼い私には答えは出なかった。


やがて卒園の日を迎えた。


卒園式は母親同伴だった。親たちは一様ににこやかに笑い、無事に卒園を迎えた事を称えあった。小学校に上がる事は、なるほど目出度いに違いなかった。でも、私の中の不安は消えていなかった。小学校で友達になれそうな何人かの子にあたりは付けたけれども、正直言って心許ない相手ばかりだった。


卒園式は無事に終わり、最後のお別れを言うべく皆で教室に戻った。私は不安を隠すため、出来るだけ快活を装って仲間と別れのあいさつを交わした。


近くに住む子達には、


「また会おな!」


の一言を添え、遠くに住む子には、


「大きくなったらまた会えるって。」


と言った。どちらも私にとっては希望の言葉だった。いや、不安を打ち消すための魔法の言葉だったかも知れない。親たちは私の言葉を笑って聞いていたが、私は祈る様な気持ちで、仲間にまた会えると言っていたのだった。


気がつくと、亜紀ちゃんがお母さんと二人で立っていた。あの日、先生はきつく何かを言っていたけれど、二人の様子は何事も無かったかの様に見えた。彼女のお母さんもまた、控えめながら笑顔で立っていた。ただ、どのお母さんとも話をしようとはしなかった。


私は亜紀ちゃんにもあいさつをしたかった。けれども、話しかけないでと何度も言われた以上、近づく事はためらわれた。


本当は亜紀ちゃんと仲直りをし、一緒に小学校に行けたらどんなに良いだろうと思っていた。亜紀ちゃんとなら行き帰りは同じ道だし、また帰りに家に寄って遊んで帰る事も出来る。学校で嫌な目にあっても、亜紀ちゃんと一緒ならきっと何とかなる。そう思っていた。


けれども、亜紀ちゃんは○○小学校には行かないと言ったきりだった。その後、話す事も出来ないまま今日まで来てしまっていた。毎日バスではすぐ前に座っていたにも関わらずだ。


一通りあいさつを済ました私は、母親の側に行った。もう幼稚園でする事は何も残ってはいなかった。あとは先生にあいさつをして帰るだけのはずだった。ところが、ふと横を見ると亜紀ちゃんがすぐ隣に来ていた。そして、素早く私の耳に囁いた。


「今日の夕方、家に行くから待ってて。」


亜紀ちゃんはそう言うと、驚いた私を残して、さっさと母親の下に戻っていった。亜紀ちゃんのお母さんは、私と彼女を等分に見比べ、何をしていたのと亜紀ちゃんに聞いていた。ううん、何もと答えた亜紀ちゃんは、素知らぬ顔をして向こうを見た。亜紀ちゃんのお母さんは少し首をかしげ、それから私を見てにこりと笑って会釈をした。


家に帰った私は制服を脱いで普段着に着替えた。卒園したのだから、もう制服は着ていられないと思ったのだった。そして、いつかの様に家の表に出て亜紀ちゃんが来るのを待った。話しかけるなと言っていた亜紀ちゃんが、家に来ると言ったのは意外だった。しかし、最後の日に会えるのは嬉しくもあった。また、何を言われるのだろうと不安でもあった。


やがて、鳥居の向こうから亜紀ちゃんが出てくるのが見えた。亜紀ちゃんはまだ制服のままだった。私の前で駆けて来て止まった亜紀ちゃんを、私は家の中に誘った。とこころが亜紀ちゃんは、


「外がいい。家の人に会いたくないの。」


そう言って私を桂の木の下に引っ張って行った。桂の木は、ちょうど芽吹き始めたところだった。上を見上げれば、冬枯れの枝にうっすらと緑が萌えているのが判った。私は亜紀ちゃんが何かを言い出すのを待った。


亜紀ちゃんは暫く黙ったあと、堰が切れた様に話し始めた。


「ごめんね、ずっといけずゆうて。ほんまは、ずっと話たかってん。もっと遊びたかってん。でも、お母さんがあかんて言うてん。もうあの子と遊んだらあかん、家にも呼んだらあかんて。」


亜紀ちゃんはいったい何を言い出したのかと思った。聞き間違えたのかとも思った。亜紀ちゃんは謝っている。そうか、私に冷たくしたのはお母さんに止められていたからなのか。だからあんな事を言ったんだ。でも、お母さんの言いつけだったのなら仕方がないか。亜紀ちゃんの言葉を聞き、私の心の中にあったわだかまりがすっと消えていくのが判った。


「良かった。嫌われたかと思てた。」


「ううん。ずっと一緒に居たかってん。何回も話しかけてくれたの、嬉しかってん。でも、もう話したらあかんて言われてたん。」


一生懸命の顔で亜紀ちゃんは言った。


私の思いは亜紀ちゃんに通じていた。私は目の前の霧が晴れ、心に暖かいものが満ちあふれて来る様な気がした。


「私な、もう幼稚園にも行ったらあかんて言われてたん。外にも出たらあかんて。でも、幼稚園だけは行かせてて頼んだん。泣いて頼んだん。」


なぜお母さんがそう言ったのかは判らなかった。聞いても亜紀ちゃんは答えなかっただろう。でも、私にはお母さんの事情はどうでも良い事だった。


「もうええよ。それより、小学校一緒に行こな。○○小学校に行くんやろ。」


心から安心した私は亜紀ちゃんにそう言った。きっと、小学校も楽しくなる。でも、行き帰りに一緒に歩くのは彼女が嫌がるかな。家の近くなら良いか。またあの家で遊べる、小学生になったら何をして遊ぼうか。


ところが亜紀ちゃんは声を落としてこう言った。


「○○小学校には行けへんて言うたやろ。」


意外な彼女の言葉に私は動揺した。


「けど、他にどこに行くところがあるの。」


「判らへんねん。」


亜紀ちゃんは俯いてそう言った。そして、やがて決心した様に私に言った。


「私、引っ越しするねん。そやから、小学校には一緒に行かれへん。」


引っ越し?引っ越しって何だろう。亜紀ちゃんがどこかに行くという事?小学校には一緒に行けない?そう言えば亜紀ちゃんは鎌倉から来たのだった。じゃあ、また鎌倉に帰るのか。せっかく仲直りしたのに、もう会えなくなる?そんなの嫌だ。それとも、引っ越すって京都の市内?京都の中なら何とかなる。


一瞬のうちに、様々な思いがよぎった。ついさっき見つけた暖かな幸せが消えようとしていた。このままじゃ駄目だ。何とかしなきゃいけない、何とか。そう思った私は、あの台詞を口走っていた。


「大丈夫。大きくなったらまた会えるって。」


本当はずっと一緒に居たかった。でも、幼い私たちでは、離ればなれになっては、また会うことは難しいのは判っていた。だから、私は亜紀ちゃんとの絆をこの言葉でつなぎ止めようとしたのだった。大きくなったらまた会えると。


でも亜紀ちゃんは寂しそうに言った。


「もう無理やわ。」


「何で。そんな事あれへん。」


「私、遠くに行くの。」


「遠くってどこ。京都のどこか。」


「私、兵庫行くねん。」


兵庫?兵庫ってどこだ?確か西の方?大阪なら知ってる。おばあちゃんが居る所だ。大阪なら電車で行ける。兵庫はどこだっけ。大阪より向こう?それとも手前?電車で行けるのかな。どこかで乗り換えるのかな。乗り換えの電車は判るかな。


時刻は日暮れ時だった。西日が桂の木を赤く染めていた。私は夕日を探した。夕日は西に沈むと教えて貰っていた。あの日が沈む山の向こうに兵庫があるはずだ。でも、どうやったらあそこまで行けるのだろう。


亜紀ちゃんの顔も半分西日で染まっていた。心が一杯になった私は、亜紀ちゃんにこう言った。


「大丈夫。大きくなったら絶対会えるって!」


私はこの魔法の言葉に縋った。もう会えなくなとは、どうしても思いたくはなかった。


「そやね、そうやったらええね。」


亜紀ちゃんは寂しそうに言った。


「ほんまは、引っ越すて、誰にも言うたらあかんて言われてたん。ここにも来たらあかんて言われてたん。家の人の迷惑になるからって。でも、どうしても来たかってん。そやからお母さんには黙って来てん。」


私はもうどうしようも無い事を悟った。幼い私の力で出来るのはここまでだった。でも、せめて亜紀ちゃんとの最後のこの時間を思い出に残るものにしたいと思った。


「なあ、もうちょっとええやろ。最後に遊ぼ。何して遊ぶ。」


「あかんわ。もう帰らなあかん。今日引っ越しやねん。遅なったら、お母さんに叱られる。」


私はもう言うべき言葉が見つからなかった。私は亜紀ちゃんをつなぎ止める術を全て失ったのを知った。


「いっぱい遊んでくれてありがとう。優しくしてくれて、ありがとう。嬉しかった。」


そう言った亜紀ちゃんの目には、一杯の涙がたまっていた。


「それじゃ、行くね。」


さよならとは言わず、亜紀ちゃんは走り出した。鳥居に向かって駆けていく亜紀ちゃんは振り向く事はしなかった。その代わり時々腕を顔の前で交差した。きっと涙を拭いているのだろうと思った。やがて亜紀ちゃんの小さな姿は鳥居の向こうに消えて行った。


私は不思議に涙も出なかった。失ったものが大きすぎる時、悲しいとも感じないものらしいと幼な心に思った。ただ、心に大きな隙間が出来た様に感じた。


そして、同時に亜紀ちゃんの事は忘れようと思った。忘れなければ前に進めそうになかった。小学校に一人で通うには、亜紀ちゃんを失った痛手を抱えては居られなかった。だから私は、懸命に亜紀ちゃんの事を忘れ様とした。


でも、年とともに亜紀ちゃんの記憶は鮮明に蘇って来た。彼女の置かれた数奇な境遇は、今はおぼろげながら想像が付く。そして彼女が抱えていたであろう悲しみも今では判る。


親の身勝手な都合に翻弄された彼女に、私も巻き込まれた形だった。でも、彼女を恨む気持ちなど毛頭無い。亜紀ちゃんと過ごした楽しい記憶は、今でも私の宝物である。そして、亜紀ちゃんが残した別れの言葉も。


兵庫に行った亜紀ちゃんは、その後幸せに暮らせただろうか。今となっては知る術も無いけれど、幸多かれと願うばかりである。

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