第7話 最初の敵は内部の腐敗
辺境の朝は、決断を先延ばしにさせない。
夜の間に凍りかけた地面が、陽が差すと同時にぬかるみに変わり、兵も荷も人も、それぞれの持ち場へ追い立てられる。王都のように、遅れて始まる優雅な朝などここにはない。動かなければ、その日の暮らしそのものが崩れるのだ。
レティシア・エーヴェルシュタインが客間を出た時には、すでに中庭には慌ただしい気配が満ちていた。
昨日命じた在庫再点検が始まっており、兵たちが主倉庫と補助倉庫を行き来している。木箱を運ぶ音、帳簿の頁をめくる音、兵の怒鳴り声と、それに交じる言い訳めいた声。普段なら朝靄の中へ溶けて消えるはずのざわめきが、今日ははっきりと不穏な輪郭を持っていた。
中庭の中央では、ディルク・ヴァルゼンが数名の兵に指示を飛ばしていた。
「第三倉庫の封を確認しろ。立ち会いは二名。帳簿は必ずその場で照合だ」
短く、無駄のない命令だ。
彼はレティシアに気づくとすぐ歩み寄ってきた。
「おはようございます」
「おはようございます。ずいぶん早いのね」
「逃げる者が出る前に動かねばなりませんので」
その一言に、レティシアは目を細めた。
「もう出たの?」
「ええ」
ディルクは声を落とした。
「昨夜のうちに、主倉庫付きの番長が一人、姿を消しました」
やはり、とレティシアは思う。
倉庫の数字を見た時点で、帳簿だけでは終わらないとわかっていた。末端だけが勝手にできる隠し方ではなかったし、もし末端だけがやっていたとしても、露見の気配を感じた時に真っ先に動くのは、責任を押しつけられやすい者だ。
「名前は?」
「ザイド。十年以上この砦で倉庫を任されていた男です」
「家族は」
「町に妻子がいる」
「なら、遠くへは行かないわね」
レティシアはすぐに言った。
「本気で逃げるなら昨夜のうちに荷と馬を押さえているはず。でも家族を残したまま消えたなら、隠れるか、誰かを頼るかよ」
ディルクはその考えを否定しなかった。
「すでに兵を出しています。町の北側と、旧鉱山道、それから南の街道筋へ」
「南ではなく東も見て。水路沿いに逃げる者は案外多いわ」
「……なぜそう思われます」
「見つかっても“薪を取りに来た”“水路の見回りだ”と言い訳がしやすいもの」
ディルクは短く頷き、近くの兵へ追加の指示を飛ばした。
そのやり取りを、周囲にいた兵たちはもう驚かない目で見ている。王都から来た令嬢が現場へ指示を出すこと自体が、昨日までよりずっと自然に受け止められ始めていた。
朝のうちに開かれた簡易の報告会では、さらに悪い事実が積み上がった。
主倉庫と補助倉庫の差分は予想以上に大きく、乾燥肉、豆、塩、大麦のすべてで帳簿と実数が合わない。しかも欠け方に法則がある。腐りやすい物、換金しやすい物、単位の誤魔化しがききやすい物から順に抜かれているのだ。
会計役の男は青ざめたまま「現場裁量」「冬季の損耗」「流民の盗み」を繰り返したが、もはや誰も真面目には聞いていなかった。
レティシアは帳面の上に指を置いた。
「流民の盗みなら、豆や塩ばかりがこんなに綺麗に消えるはずがないわ。腹を満たすなら穀物から手をつけるもの」
会計役が唇を引きつらせる。
「そ、それは……」
「それに“冬季の損耗”にしては、春へ向かうこの時期に新しい袋へ詰め直した跡が多すぎる。傷んだ在庫を隠したいなら、むしろ古い袋のまま奥へ押し込む方が手間がないもの」
その場にいた若い書記官が思わず呟いた。
「……言い逃れが、できない」
その声は小さかったが、室内の全員に届いた。
ディルクが会計役へ向かって低く言う。
「鉱山担当とのやり取りも含め、過去三年分の原簿を出せ」
「げ、原簿は、その……一部、旧帳場の方に」
「なら今すぐ取ってこい」
会計役は返事もろくにできずに飛び出していった。
代官はその横で顔を強張らせている。直接の実務に手を染めていないとしても、知らなかったでは済まぬ顔だった。
レティシアはそこで視線をディルクへ移す。
「倉庫番長の家は見た?」
「今からです」
「私も行くわ」
部屋の空気が止まる。
代官が慌てて言った。
「お、お嬢様、そのような場所へは……!」
「どうして?」
「危のうございますし、町人の家です。公爵令嬢がお運びになるような場所では……」
「だからこそ行くのよ」
レティシアはきっぱりと言った。
「そこで何が抜かれていたのかを見るには、帳簿より早いこともあるわ」
ディルクは数秒だけ考え、それから頷いた。
「護衛を増やします」
「お願いするわ」
倉庫番長ザイドの家は、砦の外れ、町と兵舎の中間のような位置にあった。
石と木で組まれた平屋で、暮らし向きは悪くない。少なくとも、今の町の平均よりはずっとましだった。戸口には子供用の小さな靴が二足。窓辺には新しい布。倉庫番長の給金だけでこの暮らしが成り立つとは思いにくい。
兵が戸を開けると、中には泣きはらした顔の女がいた。ザイドの妻だという。
夫が昨夜から帰っていないと知ると、彼女は最初こそ怯えたように身を竦めたが、ディルクの横に立つレティシアを見ると、逆に混乱した様子で目を見開いた。
「……奥様?」
「いいえ。レティシア・エーヴェルシュタインです」
淡々と名乗ると、女はぎこちなく膝を折った。貴族にどう接していいかわからぬ戸惑いがありありと見える。
「少し、家の中を見せてもらえるかしら」
「そ、それは……何も、何も知りません。あの人はただ……」
「知っていることだけでいいわ」
レティシアは女の言い訳を遮らず、けれど逃げ道も与えぬ声で言った。
「知らないと言うなら、それでも構わない。でも、ここにある物は嘘をつかないもの」
家の中は決して豪奢ではない。だが、辺境の倉庫番長にしては整いすぎていた。蓄えられた乾燥肉、質のいい毛布、銀ではないにせよ上等な錫の食器。しかも収納の奥からは、砦の倉庫で使われるものと同じ印の塩袋まで見つかった。
ディルクの顔が険しくなる。
「言い逃れは難しいぞ」
女はとうとう泣き崩れた。
「……あの人は、最初は少しだけだと言っていたんです。どうせ余る分を回すだけだって。代官様だって知ってる、会計の人だって見て見ぬふりをしてるって……!」
その一言で、部屋の空気がまた変わる。
ディルクの視線が鋭くなる。
「代官も会計役も、知っていたと?」
「全部じゃないと思います! でも、何も知らないなんて、そんなわけ……っ。冬の前に兵糧が足りないって話が出た時も、あの人、“上の方で帳尻は合ってるから大丈夫だ”って……!」
そこまで聞けば十分だった。
レティシアは女へ向かって静かに言う。
「あなたと子供たちは、しばらく砦の管理下へ置くわ」
女が震える。
「と、囚人に……?」
「違うわ。あなたたちを放っておけば、夫の責をあなた方へ押しつけたい者も出るでしょうから」
ディルクが少しだけ驚いた顔をした。
レティシアは続ける。
「ただし、隠し事があれば守れない。夫がどこへ向かうと言っていたか、思い出せることは全部話して」
女は何度も頷き、震える声で断片を語り始めた。
旧鉱山道。
北の伐採小屋。
水路沿いの廃屋。
“あの人に会えば何とかなる”と言っていたこと。
その“あの人”が誰か、女自身も知らないらしい。だがもう十分に糸口はあった。
砦へ戻る道すがら、ディルクが低く言う。
「家族を先に押さえるとは思いませんでした」
「押さえたのではないわ。保護よ」
「結果としては同じです」
「でも、意味は違うでしょう」
レティシアは前を向いたまま言う。
「本当に腐っているのは、こういう末端の家だけではないもの。責任を背負わせる順番を間違えると、上の者が隠れやすくなるわ」
ディルクは何も言わなかった。
だが否定もなかった。
午後、兵が一人駆け込んできた。
「総司令! 見つけました!」
中庭にいた全員が振り返る。
「どこで」
「東の水路沿いです。廃屋に隠れていました。抵抗はしましたが、取り押さえました」
ディルクの目が鋭く光る。
「連れてこい」
ほどなくして、縄をかけられた男が引き立てられてきた。四十前後、骨張った顔に無精髭、そして見るからに昨夜ろくに眠っていない目。倉庫番長ザイドだ。
彼は最初、レティシアの姿を見てぎょっとした顔をした。
「な、なんで……貴族様が……」
「あなたが逃げたからよ」
レティシアは静かに答えた。
「逃げなければ、もっと穏やかだったかもしれないのに」
ザイドは唇をわななかせる。
「俺は……俺だけじゃねえ。俺だけじゃねえんだ」
「知っているわ」
即答だった。
「だから、誰がどこまで噛んでいたのかを話してもらうの」
その返答に、ザイドの顔色が変わる。
彼は最初から、自分一人が切り捨てられることを恐れていたのだろう。そこへ「知っている」と言われれば、逆に縋りたくもなる。
「……話したら、俺の家族は」
「関わりがなければ守る。けれど、嘘を混ぜれば守れない」
ザイドは一瞬、ディルクとレティシアの間で視線を揺らし、それから崩れるように膝をついた。
「最初は、本当に少しだけだったんです……。冬前に塩が足りねえ、干し肉が足りねえって騒ぎになって、代官のとこから“帳面の上では王都への報告を減らすな”って……。でも足りねえもんは足りねえから、少し抜いて外へ回して、金に換えて、その金で別のもんを――」
「別のもの?」
「鉱山の方です。あっちはあっちで、掘っても掘っても金が出ないって……いや、出てるはずなのに、どこかで消える。だから皆、“上で動いてる話だ”って」
レティシアは表情を変えない。
だが内心では、ようやくいくつかの線が繋がる感覚があった。
倉庫。
兵糧。
鉱山。
そして帳簿だけが整っている理由。
「“上”とは誰?」
ザイドは怯えた目を上げた。
「名前までは……。でも、会計役と、鉱山の監督役、それから町の商人の一人は……。代官様も、全部じゃなくても、少なくとも気づいてはいたはずで……」
その場にいた代官が真っ青になった。
「で、でたらめだ! 私は知らん!」
だがその叫びはあまりにも遅い。
レティシアは代官を見た。
「知らなかったなら無能。知っていたなら共犯。どちらを選ぶの?」
代官は口を開き、何も言えずに閉じた。
ディルクが兵へ命じる。
「代官と会計役、鉱山監督役を別室へ。帳簿と照合しながら順に取り調べる。逃がすな」
兵たちが一斉に動いた。
中庭の空気はもはや完全に変わっていた。
昨日までの停滞した辺境の空気ではない。
膿を切り開いた直後の、痛みを伴うざわめきだ。
その様子を見ながら、レティシアは小さく息を吐いた。
最初の敵は外から来る魔獣でも、王都からの命令でもなかった。
この地に長く沈殿していた、諦めと黙認の腐敗そのものだったのだ。
その夜、砦の一室で簡単な報告がまとめられた。
倉庫番長ザイドは、代官・会計役・鉱山監督役・町商人の一部と繋がり、兵糧や塩の一部を横流ししながら、帳簿上だけは体裁を保つ役を担っていた。利益は小分けにされ、誰もが“自分だけは少ししか関わっていない”と思えるように分散されていた。だから止まらなかった。
典型的な腐敗の形だ。
大きな悪が一人いるのではなく、小さな悪が「どうせもう駄目だから」と手を繋ぐ。結果として、誰も責任を取らず、全体だけが痩せていく。
レティシアは報告書の端へ一行書き込む。
腐敗は飢えからではなく、放置から育つ。
それを見たルイスが、おそるおそる言った。
「……お嬢様」
「なに?」
「この領地、本当に立て直せるのでしょうか」
問いは素直だった。今日一日で見たものだけでも、希望より絶望の方が多いように思えたのだろう。
レティシアはペンを置く。
「立て直せるわ」
「どうして、そう言い切れるのですか」
「まだ皆が“悪いのは自分だけじゃない”と言い訳しているから」
ルイスは意味がわからず首をかしげた。
代わりに、部屋の隅で腕を組んでいたディルクが低く問う。
「……つまり?」
「完全に壊れた場所なら、誰も言い訳なんてしないもの。黙って逃げるだけよ」
レティシアは静かに答える。
「でもここはまだ、皆どこかで“本当はこうじゃないはずだ”と思っている。だったら戻せるわ」
ディルクはしばらく彼女を見つめ、それからわずかに頷いた。
「なるほど」
それは、昨日までの“観察”ではなく、少しだけ“納得”の混じった返答だった。
夜も更け、皆が下がったあと、マルタが湯気の立つ茶を持ってきた。
「今日は随分とお疲れでしょう」
「ええ。さすがに少し」
「それでも、お顔は昨日よりよろしいように見えます」
レティシアはカップを受け取りながら、ほんの少しだけ目を細めた。
「そうかしら」
「はい。王都を出てから初めて、“何をしたらいいか”がはっきりしたお顔でございます」
その言葉に、レティシアは自分でも気づいていなかった変化を知る。
そうだ。
傷ついていないわけではない。
王都で失ったものは、まだ胸のどこかで冷たいままだ。
けれど今日、その冷たさの上へ、別の熱が重なった。
この地をどうするか。
何から切るか。
誰を残し、誰を退けるか。
考えるべきことが、ようやく感情より前へ出てきたのだ。
窓の外では、辺境の夜風が石壁を鳴らしていた。
冷たい。荒い。だが、隠し事を剥がすには都合の良い風でもある。
レティシアは報告書を閉じ、静かに呟いた。
「最初の敵は見えたわね」
そしてその敵は、もう逃げ切れない。




