第56話 封印箱の番人
副控の写しを王都へ送る準備が整った翌朝、砦の中はいつもより少しだけ静かだった。
静か、といっても人が減ったわけではない。
井戸番はいつも通り桶を回し、炊事場では根菜を刻む音がしている。馬小屋跡ではヨハンが石敷きの続きを指示し、ガレスが若者たちを二組に分けていた。
けれど、砦の奥だけは違った。
帳場の隣室。
普段は古い備品置き場として使われていた小部屋に、封印箱が置かれている。
中にあるのは、旧代官所副控の原本。
王都の商務院控えから抜かれた頁に対応する、辺境側の副本だった。
その備考欄には、はっきりと記されている。
――王都側受領調整、ヴァイスナー家縁辺商会扱い。
その一文だけで侯爵家を裁けるわけではない。
だが、誰かが消したがった頁の内容を示すには十分だった。
レティシア・エーヴェルシュタインは、小部屋の扉の前で足を止めた。
扉には新しい封蝋。
開封者を記す紙札。
そして、ディルク・ヴァルゼンが選んだ兵が二人、交代で立つことになっている。
兵の一人が背筋を伸ばした。
「異常ありません」
「ありがとう」
レティシアは頷いた。
「眠れた?」
唐突な問いに、兵は少しだけ戸惑った。
「は……はい」
「ならよかった。大事な箱だけれど、見張りが倒れたら意味がないわ」
兵は一瞬、きょとんとしてから、少し照れたように頷いた。
「心得ます」
その様子を横で見ていたディルクが、低く言う。
「閣下がそう仰ると、兵は妙に張り切ります」
「悪いこと?」
「いいえ。ただ、少々張り切りすぎる」
「それは困るわね」
レティシアは扉の封を確認しながら答えた。
「守るものが増えた時ほど、無理をしない仕組みにしないと」
「見張りの交代は三刻ごとにしました。帳場側の記録係も、開封の有無だけではなく、交代時刻まで残します」
「十分よ」
「ただし」
ディルクは声を少し落とした。
「狙われるなら、箱そのものとは限りません」
「写しの方ね」
「ええ。王都へ向かう封書、写しを作った者、写しを見た者。どこを狙っても、相手には意味がある」
「ルイスとマイゼルにも護衛を?」
「目立たないように」
「お願い」
小部屋の扉を離れ、二人は帳場へ戻った。
帳場ではルイスが、王立書庫へ送る写しを何度も確認していた。
すでに封はしてある。だが彼は落ち着かないのか、封筒の上から何度も紐の位置を見ている。
「ルイス」
「は、はい」
「紐は逃げないわ」
言われて、彼は顔を赤くした。
「すみません。どうにも落ち着かなくて」
「怖い?」
「はい」
今度は迷わず頷いた。
レティシアは少しだけ表情を緩める。
「それでいいわ。怖いものを怖いとわかっている方が、雑に扱わないもの」
「……はい」
隣で古い記録の整理をしていたマイゼルは、顔色が悪かった。
副控が見つかってから、彼はずっと何かに追われるような顔をしている。
自分が知っていて黙っていたことの重みを、今さら一つずつ思い知っているのだろう。
レティシアは彼に声をかけた。
「マイゼル」
「はい」
「あなたは今日、古い税控えの整理だけでいいわ。副控には触れなくていい」
マイゼルはほっとしたような、かえって不安そうな顔になった。
「よろしいのですか」
「ええ。今あなたが触ると、余計な疑いを招く」
「……はい」
「ただし、逃げないで」
その言葉に、マイゼルは深く頭を下げた。
「逃げません」
声は小さいが、昨日より少しだけ芯があった。
午前のうちに、王都へ送る封書は使者へ渡された。
今回も護衛は二名。
多すぎず、少なすぎず。
表向きは王立書庫への重要記録のための同行だが、実際には写しを守るためだった。
使者は封書を胸にしまい、まっすぐに礼を取る。
「確かにお届けします」
「ええ。道中、誰かに預けないで」
「承知しております」
その目には、以前より緊張があった。
彼も、この封書がただの書類ではないことを理解しているのだろう。
門が開く。
馬が進む。
蹄の音が、王都へ続く道へ消えていった。
その背を見送っていると、ヨハンが近づいてきた。
「閣下」
「どうしたの?」
「王都へ、また何か送ったんですか」
レティシアは少しだけ彼を見る。
ヨハンの表情は軽くない。
町の人間も、何かが起きていることに気づき始めているのだ。
「記録よ」
「危ないやつですか」
「少しね」
ごまかさずに答えると、ヨハンは困ったように頭をかいた。
「俺らが知っていい話ですか」
「今はまだ全部は言えないわ」
「ですよね」
ヨハンはあっさり頷いた。
「でも、荷車が必要なら言ってください。王都までは無理でも、途中の宿場までは出せます」
その言葉に、レティシアは一瞬黙った。
彼は、詳しい中身を知らない。
けれど、自分にできることがあるなら出すと言っている。
それが、この土地の変化だった。
「ありがとう。必要になったら頼むわ」
「はい」
ヨハンは少し照れたように笑って、馬小屋跡の方へ戻っていった。
その後ろ姿を見ながら、ディルクが言った。
「町も、何かを察していますね」
「ええ」
「話しますか」
「まだ。けれど、隠しすぎてもだめね」
「難しいところです」
「そうね」
レティシアは中庭を見た。
井戸が回っている。
荷が動いている。
人がそれぞれの仕事へ戻っていく。
この日常を守るために、王都の影を追っている。
けれど王都の影を追うせいで日常が怯えきってしまえば、本末転倒だ。
午後、封印箱の小部屋で最初の異変があった。
異変と言っても、扉が破られたわけではない。
封が切られたわけでもない。
ただ、扉の下に薄い紙片が差し込まれていた。
見張りの兵が交代時に気づき、すぐにディルクへ報告したのだ。
紙片は何も書かれていない。
ただ、片面にうっすらと蝋の粉がついていた。
ディルクはそれを見て、眉を寄せた。
「封の型を取ろうとしたか」
ルイスが青ざめる。
「そんなことができるのですか」
「封蝋に軽く触れれば、粗い形くらいは残る」
レティシアは紙片を見つめた。
「でも、封は無事だった」
「はい。おそらく、隙間から差し込んで扉の内側の位置を測ろうとしたか、封の下端に触れようとしたか」
「この砦の中に、まだ動く者がいるのね」
部屋の空気が冷える。
以前、砦内協力者は押さえた。
だが、それですべてが消えたとは限らない。
金で動く者。
脅されている者。
過去の不正に関わり、今さら怯えている者。
そういう人間は、まだどこかに残っていてもおかしくなかった。
ディルクが言う。
「今夜、餌を置きます」
「餌?」
「封印箱を別室へ移すという噂を流します。実際には動かさない。動く者がいれば、炙れる」
レティシアは少し考えた。
「噂の出どころは絞って」
「もちろんです」
「それと、マイゼルには聞こえるようにして」
ルイスが驚いた顔をする。
「マイゼルに、ですか」
「ええ。彼が漏らすかどうかも見たい」
「疑っているのですか」
「疑いは残しておく。でも、信じる余地も残す」
レティシアは紙片を机へ置いた。
「人を見る時、どちらかだけでは危ないわ」
夕方、噂は静かに流された。
封印箱を夜半に別室へ移すらしい。
王都へ追加写しを送るため、中身を再確認するらしい。
見張りの交代が変わるらしい。
どれも完全な嘘ではない。
だが肝心な部分は違う。
箱は動かさない。
見張りも変えない。
むしろ、目を増やす。
夜、砦は静かだった。
市場の火は落ち、馬小屋跡の道具も片づけられ、中継小屋の三つの火だけが遠くで揺れている。
封印箱の小部屋の周囲には、いつも通りに見せかけた兵が配置されていた。
そして、その少し奥の暗がりにディルク。
さらに別の通路にレティシアがいた。
マルタには強く止められたが、レティシアは結局ここへ来た。
「お嬢様が出る必要はございません」と言われた。
その通りだ。
だが、どうしても見ておきたかった。
誰がこの箱に手を伸ばすのか。
夜半少し前。
足音がした。
軽い。
兵の足音ではない。
けれど下働きの足音とも少し違う。
暗がりから現れたのは、倉庫係の若い男だった。
名はテオ。
普段は目立たず、荷札の整理や古い物品の出し入れをしている。レティシアの記憶では、大きな不審はなかった。
テオは周囲を見回し、扉へ近づいた。
手には小さな木片。
封を剥がす道具ではない。扉の隙間を測るためのものだ。
彼がしゃがみ込もうとした瞬間、ディルクが背後から声をかけた。
「何をしている」
テオは跳ねるように振り返った。
逃げようとしたが、通路の向こうにはすでに兵がいる。
彼は木片を落とした。
「ち、違うんです」
その言葉は、あまりに早かった。
ディルクは静かに近づく。
「まだ何も聞いていない」
テオの顔が青ざめた。
レティシアも暗がりから出た。
彼は彼女を見た瞬間、膝から崩れるように座り込んだ。
「閣下……」
「誰に言われたの?」
怒鳴らない。
問いは短く。
テオは唇を震わせた。
「……手紙が」
「誰から?」
「わかりません。朝、倉庫の棚に。封もなくて。ただ、“箱の封の形を確かめろ。できなければ中身が動くか見ろ”と」
「報酬は?」
「銀貨が二枚」
「受け取ったのね」
テオはうつむいた。
「母が、薬を……」
そこで声が詰まる。
ありがちな理由だった。
そして、だからこそ苦い。
大きな悪意ではない。
小さな困窮。
そこへ差し出された銀貨。
腐敗は、いつもそういう隙間から入ってくる。
レティシアはしばらく彼を見ていた。
「手紙は?」
「燃やしました」
「銀貨は?」
「まだ、持っています」
「出しなさい」
テオは震える手で銀貨を出した。
ディルクが受け取り、灯りにかざす。
「北方貨ではありません。王都銀貨です」
王都。
レティシアは静かに息を吸った。
「テオ」
「はい……」
「あなたは罰を受ける。でも、今ここで終わりにはしない」
彼が顔を上げた。
「手紙を置いた者を見た?」
「いいえ。でも、昨日の夕方、倉庫の近くに見慣れない男がいました。町人みたいな格好でしたが、靴がきれいで」
「顔は?」
「暗くて……ただ、右手に指輪を」
「どんな?」
「白い石のついた指輪です」
ディルクの目が細くなる。
「王都風だな」
レティシアは頷いた。
「記録して。テオの証言、銀貨二枚、白石の指輪をした男」
ルイスはいなかったが、控えていた兵が急いで記録板へ書きつける。
テオはその様子を見て、震える声で言った。
「母は……」
「薬のことは調べるわ」
レティシアは言った。
「でも、それで罪が消えるわけではない」
「はい」
「あなたが銀貨を受け取ったせいで、この領地全体が危うくなるところだった」
テオは深く頭を下げた。
「申し訳ありません……」
その夜、テオは拘束された。
派手な見せしめにはしなかった。
まだ背後が見えていない。ここで騒げば、手紙を置いた者に逃げる時間を与えるだけだ。
翌朝、帳場で報告を受けたルイスは青ざめた。
「砦の中まで……まだ」
「ええ」
レティシアは机の上に置かれた王都銀貨を見た。
「でも、手を伸ばしてきたということは、向こうも焦っている」
ディルクが低く言う。
「白石の指輪の男を探します」
「町の者にも聞いて。ただし、騒がせないように」
「承知」
マイゼルは、この報告を聞いた時、目に見えて震えた。
「閣下……」
「何か知っている?」
「白い石の指輪。書記長の部屋に来た王都の商人風の男も、似たものをしていたかもしれません」
帳場の空気が、また重くなる。
「思い出したのね」
「はい。ただ、はっきりとは」
「それでいい。記録して」
ルイスが筆を取る。
今度は、手が震えなかった。
怖い。
それでも書く。
それが彼の仕事になっていた。
その日の記録は、重いものになった。
封印箱への接触未遂。
倉庫係テオの拘束。
王都銀貨二枚。
白石の指輪をした男。
マイゼル証言との類似。
レティシアは最後にこう口述した。
証拠を守る箱に手が伸びた時、敵は初めてこちらの記録を恐れた。
窓の外では、いつものように町が動いている。
その日常を守るための戦いは、もう帳簿の中だけでは済まなくなり始めていた。




