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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第5話 荒れ果てた領地

 北へ向かう旅は、日を追うごとに色を失っていった。


 王都近郊ではやわらかく揺れていた春の緑は、街道を北上するにつれて背を低くし、やがて風に耐えるためだけに地面へ張りつくような草へ変わる。空はどこまでも高いのに、景色そのものは逆に狭く、寒々しくなっていくようだった。


 旅程の三日目を越えたころから、道は目に見えて悪くなった。


 石畳は途切れがちになり、かわりに固く締まった土道が続く。だがその土も、轍の深い場所では雨の名残をいつまでも抱え込み、乾ききれぬ泥となって馬車の車輪を鈍らせていた。側溝はあるにはあるが、途中で崩れ、流れを失ってぬかるみに変わっている箇所が多い。


 レティシア・エーヴェルシュタインは、相変わらず窓辺に座って外を見ていた。


 ただ景色を眺めているのではない。畑の耕され方、放棄された土地の面積、道端の柵の傷み具合、すれ違う旅人の数、馬の痩せ具合、荷馬車の積み荷の種類――そういったものを、彼女は一つずつ目に入れていた。


「お嬢様」


 向かいに座るマルタが、そっと膝掛けを整える。


「本日は風が強うございます。窓を閉められては」


「もう少しだけ」


 閉めてしまえば、外の匂いがわからない。


 乾いた草の匂い。土が湿気を含んだまま冷えている匂い。家畜の数が少ない村特有の、薄く頼りない生活の匂い。そうしたものもまた、言葉のない報告書だった。


 同行している老執事ハルトマンは、今朝からほとんど無言である。北へ来るほど護衛たちの顔つきも固くなっていた。辺境へ近づくにつれ、単に道が荒れるだけではないことを、彼らも肌で察しているのだろう。


 昼近く、一行は小さな村を通った。


 村といっても、十数軒の石と木の家が寄り集まっただけの寒村だ。井戸の周りには人影が少なく、畑の端では老人と子供だけが土をいじっている。働き盛りの男たちの姿が見えにくい。徴兵か、流出か、あるいはもっと別の理由か。


 レティシアは馬車の速度を少し落とさせ、村の入口で立つ古い標柱を見た。


 字がかすれ、片側が折れている。領内標識の補修すら長く行われていない。


「……ここも」


 小さく漏らすと、ルイスが慌てて紙を探す。


「書き留めましょうか、お嬢様」


「いいえ、まだいいわ。あまりに多すぎるもの」


 それは半ば皮肉だった。


 記録しようと思えば、目に入るものすべてが書き留めるべき対象になる。そのくらい、荒廃は広く、浅く、そして当然のものとして景色の中へ沈んでいた。


 その日の夕方、ようやく一行は目的地の外縁へ入った。


 エーヴェルシュタイン公爵家の北方旧所領――名目上は公爵家に属する辺境領だが、実質的には王都から切り離された半ば見捨てられた土地である。地図の上では広い。だが広いことは、この地にとって豊かさの証ではなかった。管理の届かぬ空白が多いというだけの話だ。


 最初に見えたのは、灰色の石で組まれた古い砦だった。


 本来なら領内の要衝として威容を示すべき場所だ。だが近づくにつれ、その疲弊は隠しようもなくなる。外壁には補修の跡が継ぎ接ぎのように走り、一部は石が欠け、見張り台の木柵も片側が歪んでいた。旗は掲げられているが色褪せ、風を受けても勢いよくはためくことなく、ただ重く揺れている。


 砦の前には柵と簡易門があり、そこに立つ兵たちは公爵家の紋章入りの馬車列を見ると慌てて整列した。


 だが、その動きは鈍い。


 鎧の手入れは不十分で、革紐の一部がすり切れている。槍の先も鈍って見える。顔ぶれも若者ばかりではなく、疲れを隠さぬ中年兵が目立つ。士気の低さというより、消耗が長く積み重なった空気だった。


 先触れは送ってある。出迎えがないわけではない。


 だが、華やかな歓迎など最初から期待していなかったレティシアでさえ、正門前に並んだ面々を見て、この地がどれほど余力を失っているかを悟った。


 先頭に立っていたのは、長身の男だった。


 黒に近い褐色の髪を短く刈り込み、右頬に古い傷を持つ。年は三十前後だろうか。鎧は簡素だが実用一点張りで、余計な装飾が一つもない。肩幅が広く、立ち姿には戦場に立つ者の無駄のなさがある。


 その男が一歩前へ出て、一礼した。


「辺境軍総司令、ディルク・ヴァルゼンです」


 声は低く、必要以上の媚びがなかった。


「旧所領視察のためお越しとのこと、迎えに上がりました」


「レティシア・エーヴェルシュタインです」


 馬車から降りたレティシアは、旅装の外套を整えながら応じる。


「出迎えに感謝いたします、ヴァルゼン卿」


 ディルクはその呼びかけにほんのわずかだけ目を上げた。王都育ちの令嬢なら、自分の名すらまともに覚えていないと思っていたのかもしれない。


 彼の背後には代官らしき痩せた男、会計役、兵の代表、砦の書記官が並んでいる。どの顔にも歓迎より緊張が濃い。新しい領主代理が王都から来ると聞けば、監査と更迭を想像する者もいるだろう。


 だがその中でも、ディルクの視線だけは別種の固さを持っていた。


 歓迎しない、とは言わない。

 だが期待もしていない。

 その代わり、邪魔をされるなら排除する。


 そんな目だった。


「長旅でお疲れでしょう。まずは砦の中へ」


 そう言いながらも、その口調には「休んで明日からお飾りでいてくれればいい」という響きが微かに混じっていた。


 レティシアはそれを聞き逃さない。


「その前に、倉庫と兵舎を見せていただけますか」


 一瞬、場の空気が止まった。


 代官が目を丸くし、書記官がぎょっとする。ハルトマンとマルタですら、ほんの少しだけ息を呑んだ。


 ディルクは眉ひとつ動かさないまま、問い返す。


「……先に、でございますか」


「ええ。旅の疲れを癒やすのは、そのあとで十分です」


「城館の客間へご案内し、着替えと食事をお取りいただいてからでも」


「いま見たいの」


 レティシアの声音は穏やかだった。


 だがそこには、選択肢を残さぬ静かな確定があった。


 ディルクは数秒だけ黙っていたが、やがて道を譲るように身を引いた。


「……承知しました」


 砦の内側へ入ると、外から見た以上に疲弊が見えた。


 石畳の隙間には雑草が伸び、荷車の通るはずの中庭には古い木箱や壊れた樽が片隅に積まれている。兵の動線が美しくない。倉庫へ向かう導線と厩舎からの道が交差しており、忙しい時期には人と荷がぶつかるだろう。中庭の排水も悪く、少しの雨ですぐ泥が溜まりそうだ。


 そして何より、全体に「仮の処置」で繋いできた痕跡が多すぎる。


「こちらが主倉庫です」


 案内された倉庫は、大きさ自体は十分だった。石造りで、湿気対策の換気窓もある。だが扉の蝶番が片側ゆがみ、鍵の管理にも甘さが見える。中へ入れば、穀物袋の積み方が雑で、一部は床へ直置きされていた。乾燥棚もあるにはあるが、半分ほどしか使われていない。


 レティシアは一歩中へ入り、すぐに視線を巡らせた。


 袋の数、積み方、木札の付け方、床の擦れ、壁際の湿り、見張りの位置。


「在庫帳簿を」


 そう言うと、会計役の男が慌てて台帳を差し出した。


 レティシアはざっと頁をめくる。


 数字は一見揃っている。だが穀物の入出庫頻度に対して、袋の新旧が合わない。使われたはずの在庫が妙にきれいで、新しく入ったはずの袋に古い縫い目がある。


「……妙ね」


 呟くと、会計役の額に汗が浮かぶ。


「何か問題でも」


「この冬の終わりに大麦の出庫が増えているのに、残っている袋の擦れ具合が少ないの。開けていいかしら」


 返事を待たず、レティシアは近くの袋へ手を伸ばした。護衛が慌てて止めようとするが、ディルクが無言でそれを制する。


 口を解いて中を確かめる。


 見た目は普通の大麦。だが粒の乾き方が浅い。最近詰め直されたものだ。


「この列、全部開けてちょうだい」


 兵たちが戸惑いながら従うと、同じような袋がいくつも出てきた。


 新しく見せかけて詰め直した在庫。しかも量目が微妙に足りない。


 レティシアは顔を上げた。


「不足を繕っているわね」


 その場にいた者の表情が一斉に変わる。


 代官が青くなり、会計役は口をぱくぱくさせ、書記官は目を逸らす。ディルクだけが無言でレティシアを見ていた。


「す、数字の上では合っております!」


 会計役が慌てて言う。


「ええ、数字の上では」


 レティシアは冷静に答えた。


「でも実物が合っていない。出庫に合わせて帳簿だけ整え、あとから袋を詰め直して見せかけている。中抜きか横流し、あるいはその両方でしょう」


「そ、そんな……!」


「知らなかったと言うなら、あなたは会計役に向いていないし、知っていたならなお悪いわ」


 声音は静かだ。怒鳴りつける必要もないほど、事実が十分に重かった。


 ディルクが初めて口を開く。


「……その判断の根拠を、詳しく」


「袋の擦れ具合、縫い糸の新しさ、乾燥度合い、積み直した際の粉の落ち方。あと、出庫量の記録と比べて棚の奥に古い袋が残りすぎているわ。本当に冬を越えるほど使ったなら、もっと奥から減るはずよ」


 レティシアは台帳の頁を叩いた。


「この帳簿は整いすぎているの。乱れた現場の数字としては、逆に美しすぎる」


 ディルクの目つきが変わる。


 敵を見る目から、正体を測る目へ。


「……兵舎もご覧になりますか」


「もちろん」


 倉庫を出た後、レティシアは兵舎へ向かった。


 建物自体は堅牢だが、中へ入った瞬間にわかる。空気が悪い。換気が足りないのだ。寝台の間隔が狭く、毛布の補修が追いついていない。訓練用の木剣は削れ、革具は継ぎ接ぎ、食堂脇の水桶には十分な量がない。


 兵の疲れは気合の不足ではない。補給と環境の不足だった。


 レティシアは炊事場を見て、干し肉の量と塩の使い方を確認し、兵舎裏の井戸まで歩いた。井戸水は濁っていないが、汲み上げ用の滑車が摩耗しすぎている。これでは日々の作業だけで無駄に体力を奪う。


「訓練時間が短いのではなく、短くなる環境なのね」


 そう漏らすと、隣にいた古参兵が思わず顔を上げた。


「……わかるのですか」


「見れば」


 兵は口をつぐんだが、その表情にほんの少しだけ驚きが混じる。


 ディルクが腕を組んだまま言う。


「この地に来る前、どこまで資料をお読みになっていたのです」


「王都に残っていた控えを一通り」


「それだけで、ここまで」


「資料だけでは足りないわ。来てみれば、数字の荒れ方の理由が見えるもの」


 ディルクはしばらく何も言わなかった。


 やがて、極めて率直に言う。


「失礼を承知で申し上げます」


「どうぞ」


「王都から来る令嬢なら、まず暖かい部屋と湯を求めると思っておりました」


「王都の令嬢なら、そうかもしれません」


「あなたは違うと?」


 試すような問いだった。


 レティシアはそのまま答える。


「わたくしは、ここへ遊びに来たのではないもの」


 その一言に、兵舎の空気がほんのわずかに変わった。


 代官や会計役がまだ青ざめている一方で、兵たちの間には別のざわめきが生まれていた。王都から来た高貴なお飾りが現場へ足を踏み入れ、倉庫の粉の落ち方を見て不正を言い当て、井戸の滑車を見て兵の疲れの理由を理解する。そんな人物は、少なくとも彼らの予想にはいなかった。


 最後にレティシアは、中庭へ戻る道すがら立ち止まった。


 砦の東側に並ぶ小さな建物群の先、城壁の外へ視線を向ける。そこには領内の町が広がっている――はずだった。


 だが見えたのは、半ば眠ったような町並みだった。


 煙突の煙は少なく、市場の屋根もところどころ破れたまま。人通りはなくはないが、活気というには程遠い。家々の壁は風に削られ、道端には壊れた荷車の車輪が長く放置されている。


「町へは明日出るわ」


 そう言うと、ディルクが頷いた。


「本日はさすがにお疲れでしょう」


「ええ、少しは」


 ようやく認めたその言葉に、マルタが心底ほっとした顔をする。


 客間へ通されたのは、砦の西棟にある簡素な部屋だった。


 王都の屋敷と比べるべくもないが、暖炉はあり、窓も厚い。旅塵を払う湯がすぐ用意されたのは意外だった。少なくともディルクは、歓迎はしなくとも必要な礼を失わぬ男らしい。


 湯を使い、着替えを済ませたあとで、ようやく温かな食事が運ばれる。


 大麦粥、塩漬け肉、少量の根菜の煮込み。質素だが、辺境の現状を思えばむしろ誠実な内容だった。


 レティシアが食卓につくと、ハルトマンが低く言う。


「……いかがご覧になりましたか」


「思ったより悪いわ」


 飾らず答える。


「でも、終わってはいない」


 マルタが胸に手を当てる。


「それは、良い意味でございますか」


「悪い意味なら、もう少し気楽だったかもしれないわね」


 レティシアは匙を取りながら言った。


「食糧がないのではない。流れが悪い。兵が怠けているのではない。環境が兵を削っている。鉱山が枯れたわけでもない気がする。問題は、いくつもが絡み合って放置されていることよ」


 ハルトマンが頷く。


「ほどくのが難しい」


「ええ。でも、ほどける」


 その断言が、部屋にいた者たちの顔つきを少し変えた。


 希望を与えるための言葉ではない。彼女は本当にそう見ているのだ。だからこそ、聞く側も信じざるを得ない。


 食後、ルイスが帳面を開き、今日の確認事項を書き留め始める。すでにいつもの流れになりつつあった。


「第一日到着時所見」と題された頁に、レティシアは淡々と口述する。


「主倉庫。在庫不足を帳簿操作と袋詰め直しで隠蔽した形跡あり。責任者は会計役だけではない可能性。兵舎。換気不足、寝具不足、補給器具摩耗、水汲み設備劣化により兵の体力が平常から削られている。中庭および導線。物流と兵の動線が衝突しやすく非効率。町の様子は外見上すでに停滞傾向――」


 記しながら、ルイスが何度か唾をのむ。


 旅の道中で拾った違和感が、ここへ来てひとつの像を結び始めていた。


 帳面を閉じた後、マルタが部屋の窓を閉めようとして、ふと外を見た。


「兵がまだ立っております」


 レティシアも視線を向ける。


 中庭の端、夜気の中にディルクの姿があった。誰かと話しているわけでもなく、ただ砦の様子を見回している。新しい領主代理を信用してはいない。だが放置もしていない。その在り方が、いかにもこの地の総司令らしかった。


「……あの方」


 マルタが小さく呟く。


「随分と怖いお顔でございます」


「そうね」


 レティシアは少しだけ口元を緩めた。


「でも、誤魔化しは嫌いそう」


 それは使える、という意味だった。


 そして同時に、こちらが誤魔化せない相手でもある。


 夜は早く訪れる。


 北の風は王都よりずっと鋭く、石壁の外では何かが低く鳴く声が聞こえた。獣か、夜鳥か、それとももっと別のものか。辺境ではそういう区別も、王都ほど明瞭ではないのだろう。


 寝台へ入ったあとも、レティシアの頭はまだ働いていた。


 倉庫の袋。

 兵舎の水桶。

 滑車の摩耗。

 町の眠り。

 そしてディルクの目。


 王都を追われて来た令嬢に、この地は容赦なく現実を突きつけてきた。だがその現実は、彼女にとってむしろ明瞭だった。王都の社交のように、笑顔の裏に何重もの嘘を隠す必要がないぶん、こちらの方がずっと読みやすいとすら思えた。


 ここは荒れている。

 だが荒れ方に法則がある。

 つまり、手を打てる。


 その確信だけを抱いて、レティシアはようやく目を閉じた。


 辺境の最初の夜は冷たかった。

 けれどその冷たさの底で、彼女の中ではすでに何本もの歯車が静かに噛み合い始めていた。

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